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『(本日から働かせ頂きます、山川 花です。宜しくお願いします…!)』
「改めまして、初めまして、私は事務担当の吉田と申します。此方こそ、宜しくお願いしますね。」
「初めまして〜、僕は小松田 秀作って言います。宜しくお願いしまぁす!」

予め聞いていた事務室へとやってきた私は、これからお世話になる上司と先輩に挨拶を交わした。二人共穏やかな優しそうな雰囲気を纏っていて、無意識に張っていた緊張が少し和らいでいく。もう一人事務員に女性がいるそうなのだが、本日はお休みらしく挨拶は後日になりそうだ。挨拶もそこそこに、私は早速事務仕事の軽い指南を受けて取り掛かった。今日は初日と言う事もあり、簡単な作業から始めて全体の流れを掴んで貰うそうだ。私はまず吉野先生から渡された書類の束を、小松田先輩と一緒に学年毎に捌き始めた。簡単な作業だったので直ぐに終えると、次は別の仕事を与えられた。
暫くその繰り返しで仕事に没頭していた私は、ふと小松田先輩がいない事に気付いた。その時丁度出ていたらしい小松田先輩が、お盆を手に障子を引いて現れた。お茶を汲みに出ていたのだと分かり、私は慌てて小松田先輩に近寄った。そういう仕事は一番下である私がやるべき事だったので、気付けなかった事に私は恥じた。

『(せ、先輩!すみません、私がやるべき事でしたのに…!)』
「え? いいよ、いいよ!気にしないで!僕が勝手にやってる事だから!」
『(でも…、)』
「山川さんはまだ慣れて無いんだから、そんなに気にしなくても、ってうわぁあっ!!?」
『(え!? せ、先輩!)』

口元を読み取れない小松田先輩に焦って言葉も書かずに、私はぺこぺこと頭を下げた。それに汲み取れたのか、小松田先輩は笑って優しく諭してくれた。けれど私は申し訳なくて眉を下げたままでいれば、先輩はもう一度優しく声を掛けようとした。しかし唐突に足を躓き、小松田先輩が倒れ込む。それに驚き咄嗟に支えれば、何とか床に突っ込む事は避けられた。

『(大丈夫ですか…!?)』
「び、びっくりしたぁ…ごめんね。ありがとう。」
『(いえ…無事なら…、ぁ…、)』
「…?どうし…、あっ!」
「…こーまーつーだーくーん…?」

だが躓いた際にお盆を離してしまったらしく、その湯飲みが見事に吉野先生に降りかかってしまった。幸いにもお茶は温かったようで火傷は負わなかったが、頭からかぶってしまったのでずぶ濡れだった。それに慌てて小松田先輩は手近にあった布を取って、吉野先生から滴るお茶を拭い始める。しかし今手にした布って…。

「ヒィィイっ!すみませんっ、すみませんっ!」
『( !? こ、小松田先輩!それ、雑巾じゃ…っ!)』
「ちょっ、止めなさい!小松田くん!それで私を拭くんじゃないっ!」
「うわぁあっ!ホントだっ、すみませぇん!僕、布を貰ってきます!」
『(あっ…!?)』
「ぎゃあああっ!!」
「…っ、小松田くん…っ!!」

雑巾だと気付いた先輩は更に青ざめた顔をして、急いで布を貰うべく部屋を出ようとする。けれどその足元には一枚の紙が落ちていて、思いっ切りそれを踏み付けた先輩は盛大に転けてしまう。しかも転けた先には処理し終えた書類の山があって、見事にダイブしてしまいそれは部屋中に散らばっていった。それを見ていた吉野先生はフルフルと体を震わせ、今日一番の大声で小松田先輩に説教を始めてしまった。

「君って人はどうしてそう注意力が足りないのですか!珍しくミスをしないかと思えば、まさかこうなるとは…!」
「ひえええっ、すすすすみませぇん…っ!!」
「貴方も先輩になるのですから、もう少ししっかりして下さい!今まで通りだと、後輩に示しがつかないでしょう!全く…!」
「はいぃ…っ、おっしゃる通りで…!」
『(……、)』

私は散らばる書類を集めて整えながら、呆けた顔で二人の様子を眺めていた。どうやら聞いていれば、このようなミスは日常茶飯事らしい。最初に抱いていたしっかり者の小松田先輩の印象は、少々改めなければなさそうだ。そう言えば以前、川西くんが小松田先輩のドジっぷりをぼやいていたような記憶がある。それがこういう事だと理解した私は、苦笑しながら吉野先生を宥めに入った。
あれから何とか、小松田先輩のフォローをしつつ全ての書類を処理し終えた私は、忍たま学舎に足を運んでいた。吉野先生から書類の一部を各学年教諭に届ける仕事を受けて、まだ不慣れな学舎内をゆっくりと進んでいく。これまで順調に手渡し続けていたが、後一人見当たらなくてキョロキョロと歩き回る。すれ違う生徒さん達に物珍しげに見られ、向けられる視線に少々恥ずかしくなりならがら挨拶を交わしていく。中々見つけられない先生の姿に、だんだんと不安になってきて私は立ち止まった。

『((…どうしようかな、誰かに聞いた方が早いかな…。でも、何か声を掛けづらい…。))』

最近は治まっていた元来の人見知りがここで発揮され、私はその場で一人右往左往してしまう。そのまま暫くうだうだと考え込んでいた私は、次にすれ違う生徒さんに声を掛けようと意を決した。

「あれ? 花さん?」
『(え? あ!伊作くん!)』
「やっぱり!どうしたんだい?こんな所で。」

すると後ろから知った声が掛かってきて振り向くと、先日までお世話になった伊作くんがそこに居た。無駄に緊張していた私は彼の姿にホッと胸を撫で降ろし、彼の近くに移動する。事情を説明すれば、彼は納得した後、申し訳なさそうに眉を下げた。

「そっか。出来れば案内したいけど、今新野先生に呼ばれてるからなぁ…。」
『(場所だけ教えて貰えれば、大丈夫だよ。ありがとう。)』
「でも探すの大変だと思うし…、あ! 留三郎! ごめん、ちょっといいかい?」
「何だ、伊作。お前、医務室に行くんじゃ…、あ、その人、」
『(! ぁ、えと…、)』

どうやら用事があって急いでいたらしい彼の気遣いに、私はやんわりと遠慮した。先生の居場所さえ分かれば何とかなるだろうし、最悪道が分からなければまた誰かに訪ねればいい。けれど優しい彼は私を心配して、近くに居た誰かに声を掛けていた。呼ばれた男の人は伊作くんと同じ服に身を包んでいて、キリッとした目つきが印象的だった。その人は私に気付くと、その鋭い目をきょとりと瞬かせた。

「新しい事務員の花さん、山川 花さんだよ。悪いけど、彼女を松千代先生の所まで案内して欲しいんだけど…。」
「松千代先生? 何でまた…、あぁ成る程。見つからないのか、あの先生。」
「きっとまた何処かに隠れてると思うから…。お願いしていいかな?」
「構わないぜ。」
「ありがとう!花さん、彼が案内してくれるからついて行ってね。ごめん、それじゃ失礼するよ。」
「おう。」
『(あっ、あの!伊作くん、ありがとう!)』

あれよあれよと言う間に決まってしまったようで、私はこの人に案内して頂ける事になったらしい。足早に去って行く伊作くんにお礼を告げれば、彼は笑って手を振ってくれた。けど、その直後に躓き転んでしまい廊下に倒れ込んでいた。驚いて駆け寄る前に伊作くんは立ち上がって、恥ずかしそうに笑いながら行ってしまった。

「大丈夫か、あいつ…。」
『(あはは…、)』
「えーと…、山川さん、ですよね。初めまして、俺は食満 留三郎と言います。あいつ、伊作とは同じクラスで友人なんです。宜しくお願いします。」
『(ぁ、初めまして。此方こそ、突然案内をお願いしてすみません。これから宜しくお願いします。)』
「それじゃ、いきましょうか。」

お互いに軽く挨拶を交わして、目的の場所へと移動し始める。その道中で食満さんは私が退屈しない為にか、会話を切らす事無く話し続けてくれていた。共通の話題である伊作くんの話から始まり、食満さんの所属する委員会の話や何かとトラブルを起こす後輩の話など、様々な事を聞かせてくれた。そのトラブルを起こす後輩と言うのが、私も知っているしんべヱくんだと分かって驚いた。でも特にトラブルに見舞われているのは友人の伊作くんらしく、同室故に食満さんは必ずと言っていいほど巻き込まれるらしい。

「伊作は周りから“不運”と言われるくらい、驚く程運がなくて…。毎回助けるのに苦労するんですよ。」
『(“不運”…ですか、)』
「さっきの転けるだけならまだ良い方なんです。以前なんて、石に躓いて転んだ先が蛸壺…あぁ、えっと、落とし穴に真っ逆さまに落ちて手首を捻挫して、終いには作成途中だったのか、上から土を被されたらしいですから…。」
『(う、わぁあ…す、凄いですね…。)』
「ホントあいつ、運が無いんですよ…。」

良い奴なんですけどね、と苦笑を溢す食満さんの姿はどことなく哀愁が漂っている気がした。その様子に相当苦労しているのが感じ取れて、私もつい苦笑を返していた。話ている内にどうやら目的の場所に着いたようで、私達は部屋の中へと入っていった。そこには本棚が並んでいて、ぎっしりと沢山の本が綺麗に並んでいた。図書室と言う場所が初めてな私は、物珍しさから少しだけ周りを見渡す。そこで人影が全くない事にも気付いて、私は首を傾げた。

『(あの…誰もいないですよ…?)』
「この時間は松千代先生は図書室に居るって、長次に聞いてたんですが…。多分、また隠れてるんじゃないかと…。」
『(ぇ、隠れるって…、どうして、)』
「松千代先生は極度の恥ずかしがり屋なんで、すぐに何処かに隠れてしまうんですよ。」
『(恥ずかしがり屋…、ぁ、そう言えば…。)』
「? どうしました?」
『(あ、いえ…、初めて挨拶した時も、確か野村先生の背中に隠れていたなって…。)』
「あぁ、松千代先生らしいですね。」

そんな事を思い出していれば、食満さんはそれが想像できたのか小さく笑いを溢す。そして一度部屋を見渡した後に、話し掛けるように声を上げた。

「松千代先生、山川さんが書類を届けにいらっしゃいました。隠れてないで、出てきて下さい。」
『(……、あの…? 松千代先生? いらっしゃいますか…?)』
「松千代先生ー?」
「……つ、机の上に置いておいて下さい…っ、」
『(えっ、どこから…?)』
「松千代先生、書類くらい受け取って下さいよ…。」
「で、出ていくのが、恥ずかしくて…!」
「あ、そこに居たんですか…。」
『(き、気付かなかった…。)』
「あぁあっ、はは恥ずかしいぃー…!」
『(あっ、松千代先生…っ、)』
「そんな逃げるように隠れなくても…。」

数秒間を置いてからどこからか小さく声が聞こえてきて、思わずキョロキョロと先生の姿を探す。隣でそんな先生に呆れたような声色で食満さんが言うと、もぞりと机の下から顔だけをこちらに出した松千代先生が現れた。しかし私達が先生を認識したと分かると、またもや恥ずかしさからなのか、本棚の奥へと逃げ込んでしまった。それに少しだけ呆気に取られてから、私は言われた通りに机の上に書類を置いた。

『(あの、机の上に置いておきました。後で確認をお願いしますね。)』
「は、はいぃ…。」
「それでは松千代先生、失礼しますね。」
『(失礼しました。)』
「…あ、あの、山川さん。書類、ありがとうございました。」
『(…! いえ。それでは。)』

去り際に後ろから小さな声で先生がお礼を告げた事に驚いて、一度目を瞬いてから私は笑って図書室を後にした。来た道を戻りながら、途中まで一緒だと言う食満さんへ私はお礼を述べた。

『(食満さん、案内ありがとうございました。とても助かりました。)』
「いえ、大したことではないですから、気にしないで下さい。」
『(でも、私一人じゃきっと松千先生を見つけられなかったかもしれません。)』
「あー、松千代先生はあの性格のせいか隠れるのが上手いですからね。お役に立てたなら良かったです。」

あのまま本当に一人で松千代先生を探していたら、今頃学舎内を彷徨ったままだったに違いない。そう思うと、あの時断らなくて良かったなと本気で思った。食満さんに感謝すれば、彼は爽やかな笑顔で笑っていた。

「それじゃあ、俺はここで失礼します。」
『(本当にありがとうございました。伊作くんにも、ありがとうと伝えて下さい。)』
「はい。ではまた。事務仕事、頑張って下さい。」
『(ありがとうございます、食満さんも、勉強頑張って下さいね。)』

お互いに軽く頭を下げてから、笑ってその場を後にした。伊作くんの友人とあって、とても気さくでしっかりとした頼もしい人だった。最初はその顔付きに、失礼ながら少し怖い人なのかと気を張っていたから、良い意味で拍子抜けしてしまった。最初から最後まで会話も途切れる事なく、とても話しやすくて安心した。出会う人皆良い人ばかりで、私は自然と笑顔になれた。まだ初日ではあるけれど、私はここの事務員になれて良かったなと心から思った。そして残りの仕事に取り掛かるべく、気合を入れるようにヨシッと力を込めると足早に事務室へと戻っていった。


end.