第三話

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「お早う、あやめちゃん。」
『おはよう、ございます。コムイ、さん…。』

拙いながらもそう挨拶を返せば、彼は微笑ましそうに笑ってくれた。その様子で間違っていなかった事に安堵して、あやめも小さく笑い返した。
ここで暮らすようになってから、早くも半年程の時が過ぎた。最初の頃は塞ぎ込みがちで、他人と接する事をあやめは避け続けていた。言葉も判らないし、見知らぬ環境に不安を覚えて消極的になっていたのだ。けれど、そんなあやめにこの人達はお構いなしに接触を図ってきた。ただただ戸惑う事しか出来なかったあやめも、男の子─コムイと名乗った彼が、拙いながらも日本語で話し掛けてきた事で、少しずつ気持ちに変化が出始めた。一生懸命に日本語で話してくれる彼の様子に、あやめは胸が一杯になって泣きそうになった。言葉を覚えてでも、自分と仲良くなろうとしてくれた事が、凄く嬉しかった。それから徐々にあやめは態度を軟化させ、中国語を習い始めた。幼い脳はスポンジの如く直ぐに吸収していき、今では片言ながらも簡単な会話が出来るようにもなった。

「あら、お早うあやめちゃん。良く眠れた?」
『おはよう、ございます。リンファさん。良く、眠れた、です。』
「ふふ、そこは“眠れました”よ。」
『あ…、ね、眠れました…。』

居間へ移動すれば、朝食の支度をしていた女性がこちらに振り向いた。リンファと言う名の女性は、コムイの母親でとても穏やかな人だった。今は畑へ出ている男性─コウガもコムイの父親で、寡黙ながらも優しい人である。
あやめは起きて直ぐに、コムイと一緒にリンファのお手伝いに回った。最近になってから、リンファは畑仕事を控えて家事に回るようになっていた。時折体調も崩していたりして心配していたのだが、どうやらそれは杞憂だったらしい。話を聞けば、来年あたりに家族が増えるおめでたい事なのだと言う。それを皆は嬉しそうに話していて、特にコムイは一番嬉しそうにしていた。まだ性別は判らないが、兄妹が増えるのが楽しみらしい。そんな皆の様子に、あやめは何処か他人事のように眺めていた。実際に、家族が増える実感と言うものがまだ幼いあやめには判らなかったと言うのもある。だが何よりも自分は、皆と“違う”。それを理解してしまっているあやめには、やはり他人事に思えてしまった。

「今度はあやめちゃんも、“お姉ちゃん”になるのよ。」
『…お姉、ちゃん…?』

そんな嬉しそうな皆をぼんやりと見ていれば、不意にリンファがそんな事言った。お姉ちゃん、まるでそれは自分も“家族”に含まれているような言い方で、あやめは少し戸惑ってしまった。それが嫌な訳ではなくて、ただどう受け入れていいのかが良く判らなかった。だって、自分にはちゃんと両親が、家族がいたのだ。その存在を覚えているから、皆をどう受け入れればいいのか判らない。まだ幼いあやめにとっては、“家族”と言う括り方をそれだけしか知らなかった。
そんなあやめの様子に何を思ったのか、リンファはあやめを手招きした。それに近付けば、彼女はあやめを隣に座らせて優しく頭を撫で出した。

「お姉ちゃんになるのは嫌?」
『…嫌じゃ、ないです。』
「でも、何だか嬉しそうじゃないわ。」
『…、わ、たし…は……、』

そのまま言い淀んで、あやめは顔を俯かせた。ここから先を言っていいのか、あやめは悩んだ。言ってしまったら、この人達を傷つけてしまう気がしてどうしても口に出せなかった。

「…“家族”じゃない?」
『!!…ぁ、』
「!」

しかしそれはリンファによって言葉に出された。それに思わず体がピクリと反応してしまう。視界の端では、コムイがその言葉に反応しているのが分かってしまった。そんな二人にだんだんと罪悪感が募っていき、あやめは顔を上げられずにいた。

「…確かにね、私達とあやめちゃんには血の繋がりはないし、家族ではないかもしれないわね。」
『…、』
「血の繋がりは、どうしたって切っても切れない大切な縁よ。貴女の本当のご両親は、家族は、貴女だけが知っている人達。」

“家族”ではない。そうリンファに言われて、あやめは胸の奥がキュウッと痛んだ。自分もそう思っていたくせに、いざ相手に言われると無性に切なくなった。そんな矛盾した心に、自分自身の歯痒さにキツく手を握り締めた。

「でもね、“家族”と言う“繋がり”は、一つだけとは限らないのよ?」
『、ぇ…?』

けれど、続けて紡がれた言葉にあやめは思わず顔を上げた。どういう意味か分からずリンファを見つめれば、彼女は口元に小さく笑みを浮かべてあやめの小さな手を取った。

「こうやって手と手を取り合って、一緒に笑って、泣いて、助け合って、愛し合う。それだけでも、“家族”にはなれるの。」
『…そう、なの?』
「えぇ。大切だと思えれば思う程、人は守りたいと思うわ。そういう“気持ち”の繋がりも、私はまた一つの“家族”だと思っているわ。」
『…気持ち…、』

膝の上でキツく握っていたあやめの拳を、リンファは優しく解きながらそう言った。その様子を見つめながら、あやめは“家族”と言う在り方を考える。あやめの知る“血”の繋がりと言う“家族”の括り方は、決して間違ってはいない。けれど、“家族”と言う在り方はそれだけではなくて、違う形─“気持ち”と言う繋がりでも“家族”と呼べる。それを知って漸くあやめは、自分の中にあったモヤモヤを解消する事が出来た。
そうか、“家族”は一つだけじゃなくてもいいんだ。お父さんとお母さんを、忘れなくてもいいんだ。
あやめは、ずっと“家族”は一つだけだと思い込んでいた。リンファ達を“家族”だと受け入れてしまったら、記憶の中の両親を忘れなければならないと思っていた。それが嫌で、怖くて、中々皆を受け入れる事が出来ずにいた。でも、そうじゃなくていいのなら。

『…わ、たし…、』
「うん、」
『わたしも…“家族”に、入っても、いい…の?』
「勿論だよ。」
『ぁ…、』
「あら、ふふ。」

いつの間にか、目の前にいたコムイに優しく頭を撫でられる。しゃがんで目線を合わせているコムイは、柔らかな瞳であやめを見つめていた。

「僕はもう、君が大切な家族だと思っているよ。だって、初めて出来た大切な兄妹いもうとだから。」
『いもうと…?』
「うん、大事な大事な僕の妹。」
『妹…、…うん。』

一人っ子だったあやめは撫でられる頭が嬉しくて、妹と想われているのが何だかくすぐったくて、照れたように小さくはにかんだ。微笑ましいその様子にリンファも笑っていれば、あやめがおずおずと見上げてきた。それを不思議に見ていたリンファは、彼女の次の言葉に幸せそうな笑顔で頷き返していた。

『リンファさん、の事も、“お母さん”って、想っても、いい…ですか?』
「─えぇ、勿論よ。貴女は私の大切な娘だもの。」
『…えへへ、』

──わたし、今、すごくうれしい。

そう言葉を溢せば、あやめは二人にぎゅうっと抱き締められた。コムイがあやめを抱き締め、その上からリンファが二人を抱き締める。あやめはそんな二人に精一杯腕を伸ばして、でも恥ずかしいのか弱々しく抱き着いた。


──お父さん、お母さん。

わたし、今、しあわせな気持ちだよ。

お父さんとお母さんに会えないのは、まだ悲しいし寂しいけど、

わたしね、また“家族”ができたから、もう大丈夫だよ。

わたし、がんばるからね。

だから、お空からちゃんと見ててね。

ずっとずっと、だいすきだよ。





この後、畑仕事から帰ってきたコウガにも同じ事を聞けば、ただ無言で優しく抱き締められたのはまた別の話。



end.