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ドサッと勢いよく投げ出され、香織はその衝撃で意識を取り戻した。背後で扉の閉まる音を聞きながら、横たわった体制でぼんやりと状況を把握する。埃の被った物置部屋に連れて来られたらしく、空気がとても悪い。埃を吸い少々咳き込めば、体中に痛みが走った。それに眉を顰めながら起き上がろうとして、漸くそこで両手足首を拘束されているのに気付いた。当然の事だろうが、血の流しすぎかあまり頭が良く回らず気付くのに時間が掛かった。よくよく見れば、VGボンゴレギアであるアンクレットも没収されている。それに小さく舌打ちを鳴らし、何とか体制を整えた。起き上がるだけに酷く息が上がり、只でさえ浅かった呼吸が細くなったような気がした。未だ朦朧としかけている意識の中で、香織はゆっくりと記憶の整理を始める。次第に覚醒した意識で、“今”が何時なのか思案した。気絶してからどのくらいの時間が経過しているのか。現在地は何処なのか。ナミちゃんは何処に居るのか。村人達は、無事なのか。考え出したらキリがない。ぐっと奥歯を噛み締めながら取り留めのない思考に耽っていると、ギシリと床が軋む音が聞こえてきた。此方へと近づいてくる足音は複数で、十中八九奴等なのだろう。建て付けが悪いのか歪んだ音を鳴らしながら、奴等は部屋へと入ってきた。それにギロリと、元々目つきの良くない瞳で睨み上げる。

「起きたようだな。」
『…ナミちゃんは何処だ。』
「そう睨むな。危害は加えちゃいねぇよ。」

睨まれた事にさして気にも留めず、奴は可笑しそうに笑いながら見下ろしくる。それに苛立ちを感じて小さく舌打ちを鳴らす。どうやら機嫌がいいらしい奴は、始終笑みを浮かべている。

「お前はこれから俺達が飼ってやる。安心しな、殺しはしねぇよ。」
『ふざけるな。誰が、』
「お前に拒否権なんてもんはねぇんだよ。お前が“異界人いかいびと”である限り、人権なんざほぼねぇようなもんだ。」
『…その“異界人いかいびと”ってのは何なんだ。』

ずっと気になっていたその言葉に反応を示すと、奴は律儀にも説明をし出した。

異界人いかいびととは、その呼び名の通り異界の人間の事を示す。本当に異界から来てるのかその真偽は知らねぇが、そいつ等には二つの特徴がある。それは“血”と、その“香り”だ。」
『…血…?』
「本来の鉄臭さではなく、金木犀のような甘ったるい香りを放つと聞いてる。俺達のような魚人やゾオン系の能力者のように鼻の利く奴は、僅かにでも血が流れればその甘い香りを感じとる事が出来る。だが人間共は直接嗅がなきゃ判らねぇだろうがな。」
『……、』
「そして何より奴等の血には、脅威的な治癒力が宿ると言われている。一滴舐めるだけでも傷は塞がり、より多く接種すれば全身の細胞が活性化され身体能力が数倍にも膨れ上がる!極めつけにゃどんな病気にも効く、正に万能薬のような作用があるときたもんだ。」

それを聞いて先程の奴の行動の意味を漸く理解することが出来た。この世界ではどうやら自身の“血”には、大層な効能が備わっているらしい。いまいち自分ではその変化を感じとれないが、目の前で笑う奴には相当の確信があるようだ。確かに異界から来たと言う点では間違ってはいないのだが。眉を顰め座り込んでいるウチの前に来て、グイッと顎を持ち上げながら奴は言った。

「そんな血が流れる奴等を誰が狙わねぇ?賊は当然、あの海軍までもが捕らえようとしてるんだぜ?もはや異界人いかいびとってのはその存在だけで世界中に狙わる。お前等にはどこにも居場所なんざねぇんだよ。」
『……。』
「俺達に飼われる事を幸運に思うんだな。海軍に捕まった日にゃ、その血の希少さ故に地獄のような実験の日々が待ち受けているんだからよ。ただ血を分け与えるだけで、居場所を提供してやる俺達に捕まった事を感謝しな。」
『…どの口が言ってんだ。』
「あ?」
『結局お前等も“血”欲しさに捕まえてんのに、感謝もクソもあるか。ウチには充分、その海軍の地獄とやらと大差ねぇ。誰がテメェ等なんかに血をやるかってんだ。』
「…ほう。」
『ぐっ!?』

そう言った途端に奴は目を細め、顎から首へとその手を掛けた。ぐっと力を込められ呼吸が困難になり、どんどん息苦しくなっていく。

「相変わらず自分の立場を理解してねぇな。威勢が良いのは結構だが、口の聞き方に気をつけろよ?テメェが生意気ばっか言ってると、ナミへの負担が増えるだけだぜ?」
『な…っ、に…!!』
「俺の癪に触る真似ばかり取れば、村人共につい手が出ちまうかもしれねぇな。こっちは下等種族なんざ一人二人減った所で、別に構いやしねぇ。その分金を引き上げればいいだけだ。」
『テ、メェ…!!』
「まだナミの方が利口だぜ。金で解決出来ると理解したアイツは、素直に俺に従ったよ。」
『っ…、か、ね…っ?』
「1億ベリーでこの村とナミを解放してやるのさ。あぁ、それからお前もな。」
『い、ちおっ、く…!?』
「健気に村とお前を救おうとしてるヤツが、そのお前のせいで村人が死んでいってると知れば、さぞ遣り切れねぇだろうな。」
『…っ…!!』

フッと首の圧迫が消えてそのまま力無く倒れ込む。咳き込み荒く呼吸を繰り返しながら奴を睨みつけて、ぎりっと歯を食いしばった。まだ幼い子供に村の命と自身の命を天秤にかけさせ、更に無謀な金額を提示して取引をする。ナミちゃんの才能欲しさにそこまでしてまで、自分達に縛り付けたいのか。そこに人質として自身までもが含まれてしまった事に、どうしようもない歯痒さを感じた。ナミちゃんを助けるつもりが、この“血”のせいで逆に足枷となってしまったのだ。

「ただ血を分けるだけだぜ?それだけでお前は生かしといてやるんだ。大人しくしてりゃ、ナミの負担も減るだろうな。」
『……、…血をやれば、いいんだな?』
「あぁ。シャハハ、物分かりの良い奴は好きだぜ。」
『…せめて一日一回、ナミちゃんと会わせてくれ。』
「まぁ、それくらい構わねぇよ。お前は鎖につないでおくんだ、少しくらい暇潰しがないとつまらないだろう。」

ナミちゃんの負担を考えると、奴の要求には応えざる負えなかった。但しこちらも要望を唱えれば、すんなりと了承を得る事が出来た。これからのナミちゃんの行動を思えば、誰にも頼る事が出来ない彼女に胸が苦しくなる。村の為とは言え、親の仇と共に居なければならないのだ。それはあの幼い体では想像を絶する苦痛であろう。その中で奴等から離れ、ほんの一時でも心安らげる時間を作ってやる事しか、今のウチには出来なかった。

『あの子に…、あまり無茶をさせないでくれ。代われるもんは全てウチが請け負う。』
「心配するな。ナミはウチの大事な測量士なんだ、無下には扱わねぇよ。だが、そうだな…。お前の戦闘能力はまぁまぁ使えそうだからな、戦闘員としても使わせて貰おうか。」
『…、分かった。』
「お前を存分に有効活用してやるよ。シャハハハハ!」

そう高らかに笑うと奴は部屋を出ていってしまった。遠のいていく足音に、ウチは無意識に深い溜め息を吐いていた。横たわった体制からゆっくりと起き上がり、これからの事を思案する。ナミちゃんが1億ベリーを掻き集めるのに、どのくらいの時を浪費するだろうか。大人でさえ容易に出せぬ大金を、あんな幼い子供にどうやってお金を稼げと言うのか。当然十数年以上、いや数十年以上掛かる事を理解して、奴はこんな条件を掲示したのだろう。まして、仮に1億集めた所でナミちゃんを解放するとは到底思えない。だが、彼女にはそれしか道がない。だからその身を削って、気の遠くなるような条件を呑んだのだろう。村と自身と、そしてウチの為に。そう考えれば考える程、酷く自分が情けなく思う。もし自分がもっと強かったら、せめてこの特殊な“血”でなければ、彼女の足枷になる事はなかっただろうか。そう思わずには居られぬ程、悔しさが募った。だがたらればを考えた所でそれは全て無意味で、余計に惨めになるだけだった。ウチは一度冷静さを取り戻すべく、深く呼吸する。長くゆっくりと息を吐き出してから、今一度今後の事を考えた。こうなってしまっては、もう元の世界に帰る事など二の次だ。まずはこの状況から脱しないと話にならない。不本意だがナミちゃんに頼らず負えないのが現状だ。奴が取引を本当に呑むのかは別としても、金が貯まれば何かしらのきっかけは生まれるだろう。その時が、確実なチャンスになる筈だ。例え結果が悪かろうが、せめてナミちゃんと村だけは解放させなくてはならない。最悪、ウチがこの身を売ればいいだけの話だ。皮肉にもウチの血は、大層希少なモノらしいからそこらの宝石よりかは価値はあるだろう。この村から離れさえすれば、隙を付いて逃げればいい。出来なくとも、奴等と行動を共にすれば少なくとも情報を集められるだろう。だから、今は耐えるしかない。どんなに時を費やそうが、“その時”を待つのだ。必ずチャンスは巡ってくる。そのチャンスを確実に狙えば、この状況から解放される。

『(…耐える事しか、出来ないな。)』

瞼の裏に浮かぶ幼い彼女の姿を思いながら、ウチは何も出来ぬ自身を嘲笑った。



いつの間にやら眠りに堕ちていたようで、フッと意識が浮上する。色々と疲労が溜まっていたのか、夢なんて一切視なかった。あれから再びやって来た奴等──アーロン達によって、ウチの右側の二の腕に刺青を施された。アーロン一味の所有物として主張する為だろうそれは、嫌に目についてつい眉を顰める。人生初の刺青が、こんな苦々しいモノとは苦痛でしかない。しかもそれはナミちゃんにまで施されていて、まるで目に見えぬ鎖のようなモノだった。右腕に存在するアーロンを睨みつけていれば、こちらへと誰かがやって来る気配がする。視線を扉へ移せば、そこから顔を出してきたのはナミちゃんだった。予想外に早く再会出来た事に驚いて目を丸くしていれば、ナミちゃんはウチに駆け寄ってそのまま抱き着いてきた。小さく震えたその体を、抱き締めたくとも拘束された腕では出来ぬ事に歯痒く感じた。

「せっかくの短い逢瀬なんだ、ゆっくり堪能すりゃあいい。これから逢瀬の時のみ、特別に二人きりにしてやる。」
『…、』
「勿論、外に監視はつけて置くがな。まぁ、血迷った事はしねぇだろうが、一応な。」
『……、…あぁ、分かった。』
「せいぜい有意義に使うんだな。」

そう言い残してアーロンは部屋を出て行った。閉ざされた扉越しに短い会話が聞こえたのは、監視役の魚人とのやり取りだろう。やがて静寂に包まれたこの空間で、ゆっくりとこれまでの経緯をナミちゃんが小さな声で教えてくれた。村を1億ベリーで買い取る契約を交わした事、アーロン一味で測量士として海図を描かされる事、強制的に刺青を施された事、アーロン達の野望の事。そしてわざと村の皆を遠ざける為に嘘を吐き、村を追い出された事。様々な事を懸命に、声を震わせながら伝えてくれた。

「…ベルメールさんがね、言ってたんだ。生き抜けば必ず、楽しい事がたくさん起こるって。」
『…うん。』
「私、もう泣かないよ。あいつの顔見たってずっと笑っててやるんだ…!」
『…うん、』
「一人で戦うって、決めたから。時間掛かっちゃうけど、待っててね。今度は私がお姉ちゃん達を助けるから…!」
『…大丈夫さ。ウチは丈夫だし、皆もアイツ等なんかに屈したりしないよ。だから、そんなに気負わないでいい。』
「……、」
『一人で戦おうとするな。ウチだって、一緒に戦ってやる。』
「でもっ、」
『一人より二人の方が断然早い。それに、ウチの事なら心配いらないよ。アイツ等は絶対にウチを殺したりしないさ。』
「…ホント?」
『あぁ、ウチは死なない。だから安心しな。』
「……っ、」
『一緒に戦おう。二人で、皆を助けような。』
「…っ、ゔん…!! ありがとう…!!」
『…ん。泣け泣け、ウチの前では好きなだけ泣きな。一人で泣かれるよりずっといい。』

一人で戦うと決めたのは、きっと犠牲者をこれ以上増やさぬ為の覚悟だったのだろう。もう誰一人喪いたくない幼い少女の、切実な願い。ナミちゃんが“死”を恐れているのだと分かり、ウチはそれに最も遠い存在だと安心させた。だから二人で戦おうと伝えれば、ナミちゃんは緩みかけていた涙腺を崩壊させた。それでも声を上げず小さく嗚咽を漏らしたのは、彼女なりの決意の表れなのだろう。ウチは腕を上げて不格好ながら彼女の頭を撫でた。そうするとナミちゃんはポスリとウチの肩に顔を埋め、静かに泣きじゃくった。そこでやっと腕の中に抱き締めると、時間の許す限り彼女をあやし続けた。

「おい、時間だ。出ろ。」
「っ、…お姉ちゃん…、」
『…ナミちゃん。』

離れて行こうとするナミちゃんを引き止めるように、一度強く抱き締め直した。その際に彼女の耳元に、あるモノの在処を手短に囁く。それを伝えると怪しまれぬようにすぐ様ナミちゃんを腕から放し、小さく笑い掛けた。

「──ぇ…、お姉ちゃ…、」
『じゃあ、またな。』
「おら、早くしろ。」
「あっ、待っ…!」

戸惑うナミちゃんを乱雑に引っ張る魚人を軽く睨んでから、ウチはもう一度笑みを浮かべて彼女を見送った。先程伝えた場所には、今まで貯めて置いたお金が全てしまってある。一億には何の足しにはならないだろうが、使わないよりはマシだろう。どのみち今のウチにあの貯金は無意味でしかないのだ。だったら一億に注ぎ込んだ方が遥かに有効活用になる。ナミちゃんがその場所へ赴き意味を理解した時の驚いた顔を思い浮かべると、ウチは自然と笑ってしまった。
これから想像以上に長くて辛い過酷な戦いになる。例え何十年経とうが、生き抜いていかなければならない。その覚悟を決めるように今一度深く深呼吸をし、ウチは迎えた戦いに気を引き締めた。



end.