涙の理由は、あなたの嘘

 今日も『及川徹の彼女』という役割を担った私の一日が始まる。
 昨日ほどあからさまではないけれど、やっぱり向けられる視線は多い。廊下を歩けばヒソヒソ声が聞こえ、教室移動ですれ違う知らない先輩にまでジロジロ見られる始末。私は今日も、動物園の人気者(ただし、あまり歓迎されていないタイプ)になった気分で、ひたすら気配を消すことに専念していた。

(大丈夫、私は石ころ…道端の石ころですよ……及川先輩とは釣り合わないモブですごめんなさい解釈違いは百も承知です…てか私が一番解釈違いなんで許して……)

 心の中で念仏のように唱えながら、なんとか午前の授業をやり過ごした。
 待ちに待った昼休み。机の上にお弁当を広げようとした、まさにその時だった。

「ねえ、ちょっといいかな? ミョウジさん」

 声のした方を見ると、隣のクラスの女子が数人、私の机を取り囲んでいた。昨日、及川先輩とのW設定会議Wを終えて教室に帰ってきた私に、厳しい目線を送ってきていた子たちだ。
 その中心にいるのは、少し派手なグループのリーダー格、佐藤さん。彼女たちの目は、笑っていない。……嫌な予感しかしない。

「……な、なんでしょうか?」
「ちょっと話したいことがあるから、来てくれる?」

 有無を言わさぬ口調。断れる雰囲気ではない。私は、周囲のクラスメイトたちの「あーあ」みたいな同情的な視線と、一部の面白そうな視線を感じながら、黙って席を立った。一緒にお昼ご飯を食べようとして隣の席にいた友達が、口パクで「大丈夫?」と聞いてくる。私はなにも策を用意していない状態のまま、安心させるように苦笑いして小さく頷き返した。

 連れてこられたのは、校舎裏にある、人気のない体育倉庫の裏手だった。古びた鉄の扉が錆びついていて、壁には誰が描いたか分からない落書きがうっすらと残っている。昼休みだというのに、ここは日の光もあまり届かず、少しひんやりとしていた。

 ……ここ、前にも来たことがある。数週間前、及川先輩をファンから守ろうとして(結果的に大失敗したけど)、私が飛び出した場所だ。まさか、こんな形でまた来ることになるなんて。妙な縁だな、なんて場違いなことを思う。

「で、単刀直入に聞くけど」

 ビクッと大袈裟に肩が揺れる。体育倉庫の壁に背中を預けた佐藤さんが、腕を組んで私を睨みつけた。取り巻きの子たちも、同じように私を囲んでいる。完全に、詰問のスタイルだ。

「あんた、及川先輩とどういう関係なの? 昨日、先輩があんたのこと『彼女』だって言ってたって聞いたけど」
「え…あ、それは……」
「まさか、本当に付き合ってるわけ?」

 佐藤さんが、嘲るような笑みを浮かべる。

「あんたみたいな地味な子が、及川先輩に選ばれるなんて、ありえないんだけど」

 直球の悪意。ぐさりと胸に刺さる。

「大体、どんなきっかけなのよ。関わりとかなかったでしょ」
「……な、馴れ初めとかは、その…プライベートなことなので…」
「はぁ? 何それ。答えられないってこと?」
「そうじゃなくて…! あの、そういうことは、直接、及川先輩に聞いていただけませんか…?」

 これが、昨日及川先輩と決めた「秘密」作戦のはずだ。でも、目の前の彼女たちには火に油を注いだだけだったらしい。

「はっ! 先輩に聞け? あんた、自分が先輩に釣り合わないって分かってるから、そうやって逃げるんでしょ!」
「そうだよ! 及川先輩の彼女って言ったら、モデルみたいな美人ばっかりだったんだからね!」
「あんたみたいなのが相手とか、先輩、血迷ったんじゃないの?」
「それか、たまには面白そうなおもちゃでも試したくなったとか?」

 キャハハ、と品のない笑い声が、体育倉庫の裏に響き渡る。

 ——おもちゃ。分かってる。彼女たちの言うことは、多分、ほとんど事実なんだろう。
 先輩が、綺麗な元カノたちと付き合っていたことも知ってる。ずっと見てきたんだから。私が「面白いから」「都合がいいから」選ばれたんだろうってことも、本当は分かってる。
 私を好きで選んだわけじゃない。利用価値があるから。それだけなんだ。

 だから、言い返せない。悔しいけど、何も言えない。
 私の胸の奥底に隠した、ちっぽけな「好き」という気持ちは、絶対に悟られてはいけない。この関係は「偽物」で、私は「ファン」としての立場を弁えなきゃいけないんだ。私が唇を噛み締め、俯いていると、佐藤さんが苛立ったように声を上げた。

「…なんか言えよ! 図星だから黙ってんの?」

 詰め寄られ、私は思わず一歩後ずさる。怖い。逃げ出したい。でも、足がすくんで動かない。
 まさに、その時だった。

「──何してんの? 君たち」

 凛、とした、少し低い声が響いた。その声に含まれた、絶対的な温度の低さに、場の空気が一瞬で凍りつく。
 ハッとして後ろを振り向く。校舎の角から、ゆっくりと姿を現したのは、及川先輩だった。彼は、にこやかな笑顔を浮かべている。でも、その目は全く笑っていなくて、鋭い光が私を囲む女子グループに向けられていた。逆光の中に立つその姿は、まるで全てを見透かす神様か、あるいは冷徹な断罪者のようだ。

「せ、先輩…! いえ、これは、その….」

 さっきまでの威勢はどこへやら、佐藤さんたちが急に慌てふためき出す。
 及川先輩は、そんな彼女たちには目もくれず、まっすぐに私の方へ歩いてきた。そして私の隣に立つと、私の肩をそっと引き寄せた。

「……大丈夫?」

 囁くような声。私は驚きと安堵で、ただこくこくと頷くことしかできない。彼は私を庇うようにして、女子グループに向き直った。

「俺の彼女に、何か用?」

 その声は、あくまで穏やかだ。でも、有無を言わさぬ圧がある。

「い、いえ! 何でもないです! ちょっと、ミョウジさんとお話してただけで…!」
「そう。……でも、あんまりこの子を困らせないでくれるかな」

 及川先輩は、ふっと息をつくと、ほんの少しだけ、困ったような、申し訳なさそうな表情を見せた。それは私に向けられたものなのか、彼女たちに向けられたものなのか分からない。でも、いつもの自信満々な彼とは違う、珍しい表情だった。

「この子、一生懸命で、すごくいい子なんだよ。だから、俺が大事にしたくなる気持ちも、分かるでしょ?」

 ……嘘だ。
 全部、嘘だって分かってる。私を守るための、その場しのぎの言葉だって。 

 ──でも。それでも。

 彼の口から紡がれた「いい子」「大事にしたくなる」という言葉が、痛いくらいに私の胸に突き刺さって、じわりと熱くなった。嬉しくて、でも同時に、苦しくて。

「……っ」

 気づけば、私の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていた。

「!?」

 及川先輩が、私の涙に気づいて、驚いたように目を見開く。佐藤さんたちも、予想外の展開に戸惑っているようだ。

「ご、ごめんなさい! 私たち、もう行きます!」

 彼女たちはバツが悪そうにそう言うと、足早にその場を去っていった。体育倉庫の裏には、私と及川先輩、二人だけが残された。

「……ナマエちゃん、大丈夫? やっぱり、怖かったよね? ごめんね、俺がちゃんとしなかったから…」

 及川先輩が、少し慌てたように私の背中をさする。その手つきは、驚くほど優しくて、彼の声には焦りの色と一緒に、ほんの少しだけ、罪悪感のような響きが混じっている気がした。
 ……いや、きっとこれも、私の勝手な思い込みだ。

 涙の理由は、怖かっただけじゃない。あなたの嘘が、あまりにも優しくて、甘くて、苦しいから。偽物だって分かってるのに、それでも期待してしまいそうになる自分が、情けなくて、悔しくて。
 でも、そんな本当の理由、絶対に言えない。

 私は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて、必死に笑顔を作った。しゃくり上げながら、彼の制服のブレザーの袖を、ぎゅっと弱々しく掴んでみせる。完璧なか弱い女の子のフリをしなきゃ、と。

「…怖かったです……でも、先輩が、来てくれたから…もう、大丈夫、です…」

 自分でも白々しいと思うくらいの演技。でも、今はこうするしかない。

「そっか……。うん、もう大丈夫だから」

 及川先輩は、ほっとしたように息をつくと、ポケットから、綺麗な水色のハンカチを取り出した。
 え、ハンカチ持ってるんだ…。どんだけかっこいいの…。男子高校生でハンカチ持ってる人いる…? クラスの男子とさえ絡むことが無さすぎて、全然分からないけど……と場違いな感想を持ってしまう。
 先輩がハンカチを持ってる側の人間だということは、私の中の及川徹情報にしっかりと記録された。

「ほら、これで涙拭きなよ」

 差し出されたハンカチを、私はおずおずと受け取る。ありがとうございます、と消え入りそうな声で言って、目元にハンカチを押し当て涙を拭った。

「そういえば、なんで、ここに…」
「ん? ああ、君の友達が俺のこと呼びに来たんだ。ナマエが連れて行かれたんですって」
「…そうだったんだ…」

 私が教室を出るときに、心配そうにしていた友達を思い出す。わざわざ及川先輩を呼びに行ってくれたのか。

「良い友達持ったね。きっと上級生の教室来るの緊張したと思うよ。ナマエちゃんのこと、大切なんだね」
「…はい…」

 先輩が労うように優しく頭を撫でてくれる。友達には後日ス○バのチケットを贈呈しようと誓いながら、ゆっくり息を吐いて呼吸を整える。もう涙でしゃくり上げることもなくなり、だいぶ気持ちも落ち着いた。

「……ねぇ」

 私の様子を見計らって、及川先輩が切り出した。

「このまま教室戻るの、ちょっと気まずくない? あんな泣き顔、見られた後だし」
「…あ……」

 確かにそうだ。戻ったら、またクラスメイトから質問攻めにあうかもしれないし、何よりこんな涙目で帰るのは恥ずかしすぎる。

「……うーん。あ、そうだ」

 彼は少しだけ考える素振りを見せると、とんでもないことを提案してきた。

「一緒に屋上でも行く? 昼休み、まだ時間あるでしょ」
「えっ、先輩と屋上!?」
「いいじゃん、俺も、ちょっと屋上の空気吸いたかったし」

 彼は私の返事を待たずに「ほら、行くよ」と私の背中を軽く押した。その手つきは、やっぱり少し強引だ。私は戸惑いながらも、彼の後に続くしかない。

 人気のない体育倉庫裏から、彼はぐるりと回って、渡り廊下へと私を連れていった。渡り廊下を抜けて校舎に入ると、すぐ近くの階段ではなく、わざわざ奥の階段へと足を向ける。

 ——あ、こっち、人通り少ない方だ。

 私の泣き顔を他人に見られないようにという配慮だろう。そんな小さな気遣いに気づいてしまって、胸の奥がふっと温かくなった。だけど同時に、なんだか切なさもこみ上げてくる。こんなふうに優しくされると、また涙が溢れてきそうで。
 彼の後ろ姿を追いながら、きゅっと制服の袖を握る。階段を進む一歩一歩がやけに静かで、やっぱり心臓の音が大きく聞こえた。

 上の階にたどり着き、屋上へと続くドアの前で、彼が一度だけ振り返る。

「開けるよ」

 そう言って回したドアノブは、驚くほどあっさりと回った。

 わっと、視界が開ける。秋の終わりの、少し乾いた風が頬を撫でた。空は高く、どこまでも青い。フェンスの向こうには、こぢんまりとした住宅街。奥にはガラス張りのビル群が立っていた。空気は澄んで、ビルの窓ガラスが陽にきらめいている。少し冷たい風が、スカートの裾をそっと揺らした。
 昼休みのグラウンドからは、生徒たちの楽しそうな声が遠くに聞こえる。

「……わぁ…」

 思わず声が漏れた。こんな場所があったなんて、知らなかった。

「ま、たまにはこういうとこでゆっくりするのも、悪くないでしょ?」

 及川先輩は、フェンスに軽く背中を寄りかかって、気持ちよさそうに伸びをしている。その姿は、やっぱりどこから見ても絵になる。
 私も、恐る恐るフェンスに近づいた。風が気持ちいい。さっきまでの、じめじめした気持ちが、少しだけ晴れていくような気がした。

 ──そうだ。くよくよしてても仕方ない。これでいい。今は、これでいいんだ。

 先輩が、私のファン心理や扱いやすさを利用するつもりなら。私も、この「偽物の恋人」という立場を利用させてもらおう。
 憧れの、大好きな人のそばにいられる、この奇跡みたいな時間。たとえ嘘で塗り固められていても。私にとって、かけがえのない「思い出」にするんだから。

 私は、心の中でそっと、強く決意した。

 大きく深呼吸をして、隣に立つ及川先輩に向き合う。そして、さっきまでの泣き顔が嘘みたいに、にっこりと、できるだけ明るい笑顔を作ってみせた。

「心配かけてすみません! でも、もう大丈夫です!」
「…お、おう…?」

 私の急な切り替えに、及川先輩は少し驚いたように目を瞬かせている。よし、いい感じだ。

「それより!」

 私は、ぐっと彼に顔を近づけて続けた。

「今度の日曜のデート、すごく楽しみにしてますね!」

 満面の笑みで、期待を込めて、私は彼を見上げた。内心はまだ、ドキドキと不安でいっぱいだけど。でも、これが私の決意表明だ。偽物の彼女として、この時間を全力で楽しんでやる、って。
 私の予想外の言葉と態度に、及川先輩は一瞬、完全に意表を突かれた顔をした。鳩が豆鉄砲を食らったような、というよりは、「え? こいつ、さっきまで泣いてたよな?」みたいな、困惑と面白さが混じったような、複雑な表情。

「…お? なんか、急に元気になったね、君……」

 彼の口から漏れたのは、そんな言葉だった。その声には、やっぱりどこか、私のことを「面白い生き物」でも見るような響きがあったけれど。

 でも、それでいい。今は、まだ。
 私は、屋上の爽やかな風の中で、ただ、にっこりと微笑み返した。その下にある、複雑な乙女心は隠して。



TOP NEXT

メランコリー