【システム警告】「仕事相手」という名の限界値


 通い慣れたと言っていいくらい、私の足はこの道を覚えてしまっていた。

 東京とは思えないほど緑が豊かで高い建物の少ない穏やかな住宅街を抜けると、辿り着く一軒家が研磨さんの自宅だ。無意識に足を進めても着いてしまうくらい、彼の家は私の頭の中にすっかりインプットされている。

 呼吸を整え、インターホンを押す。出迎えてくれた彼は、拍子抜けするほど「いつも通り」だった。
 大会が近いというのに、ピリピリした空気もなければ、焦りもない。ただ淡々と、「どうぞ」と私をいつもの居間へと通し、ミネラルウォーターを出してくれる。
 その変わらない態度に安堵すると同時に、少しだけ突き放されたような寂しさを感じながら、私は差し入れを渡した。心を仕事モードに入れ替え、取材ノートを広げる。

「……というわけで、大会当日は運営側から関係者パスをいただけることになりました。バックヤードでの撮影も許可が降りていますので、試合前後の様子も少し撮らせていただければと思っています」
「ん、わかった」
「あの……調子はどうですか?」

 私が聞くと、彼はペットボトルのキャップを回しながら、抑揚のない声で答えた。

「別に、普通だよ。いつも通り」

 そうして、ごくごくとペットボトルを呷る。
 本当に、いつもと変わらない。かなり規模の大きな大会の前だというのに、彼の瞳にはさざ波ひとつ立っていないように見えた。

 やはり、一喜一憂し、勝手に心をざわつかせているのは、私だけなのだろう。心の中で苦笑し、手元のノートに視線を落とす。仕事中だ。プロとして、彼のこの様子を記録しなければ。

「…そういえば、チームの方とは基本オンラインで練習するんですよね?」
「そうだね。みんなが参加出来る時間を調整してやってる」
「プロチームだと、一箇所に住み込んで共同生活をしてるところもあるって聞きますけど…」
「ああ、あるね。……でも、俺は無理」

 即答だった。珍しく、彼の眉間に深いシワが寄る。まるで、想像しただけで生気を吸い取られたかのような、心底嫌そうな表情だ。その素直すぎる反応に、思わず少し笑ってしまう。
 研磨さんは基本的にローテンションだが、苦手なものに対しては、嘘がつけないほど、はっきりと顔に出るタイプなのだろう。

「四六時中誰かと一緒とか、絶対耐えられない。自分の家じゃないとメンタルも体力も回復しないし」
「あー、なるほど。それに、研磨さんは個人の配信や動画投稿もありますしね」
「まぁそれもあるけど。……基本的に『自分時間』がないときついから」

 ──自分時間。その言葉を聞いた瞬間、ハッとした。

 私は今、彼のその貴重な時間を削り取っているんじゃないだろうか。打ち合わせ自体は、さっきの事務連絡でもう終わっている。これ以上長居するのは、大会前のデリケートな時期の彼にとって、ノイズでしかないはずだ。

「……そうですよね。特に大会前ですし、お一人の時間は大事ですよね」
「…え?」

 私は慌ててノートを閉じ、鞄にしまい込んだ。

「あの、私、そろそろ失礼します。今日も夜からチーム練習あるんですよね? 貴重な休憩時間にお邪魔してしまってすみません!」

 言いながら、すくっと立ち上がる。早く帰らなきゃ。彼の「自分時間」を邪魔しない、わきまえた仕事相手でいなくちゃ。

 そう自分に言い聞かせ、逃げるように背を向けた、その時だった。
 出口へと急ぐ私の足を縫い止めるように、いつもより少しだけ強い声が、背中に投げかけられた。

「ねぇ」

 ハッとして振り返ると、研磨さんがじっとこちらを見上げている。その瞳が、何かを訴えかけるように揺れている気がして──思わず息を呑んだ。

「…帰るの?」
「は、はい。打ち合わせは終わりましたし…」
「……今日は、マウス持ってきてないの?」

 その問いかけに、私は言葉に詰まった。

(ゔっ……)

 持ってきている。鞄の底に、大事に箱ごと入っている。朝、通勤バックに入れた時の「楽しみ」という純粋な高揚感と、編集部で見たSNSで突きつけられた「現実と罪悪感」。相反する二つの感情が、頭の中でぐるぐると渦を巻く。

「…じ、実は、一応持ってはきたんですけど……」
「じゃあ、なんで」
「だって、研磨さんはこれから大会で忙しい時期ですし……少しでもご自分のことに時間を使っていただきたくて…」

 私の精一杯の配慮だ。けれど、研磨さんは不満そうに眉を寄せると、視線を逸らしてボソッと言った。

「……いーよ別に。俺が教えるって言ったんじゃん」

 その言葉と、拗ねたような表情に、心臓が跳ねる。

「でも……」
「それに、きみに教えるのも、俺の『自分時間』の範疇なんだけど」
「えっ?」

 彼は立ち上がると、私の目の前までやってきて、手を差し出す。「マウスは?」という意味で良いのだろうか。私は鞄の底からマウスの箱を取り出し、おずおずと彼の掌にそっと乗せた。

「……ほら。せっかく持ってきたんだから、やろ」

 私が黙って帰ろうとしたことに対する、どこか不満気なその態度。それは、まるで「私との時間を彼自身が望んでくれている」みたいで。
 私の理性を揺さぶるには十分すぎるものだった。

 ──ダメだ。
 こんなふうに引き止められたら、また勘違いしてしまう。「飽きない面白い仕事相手」だとしても、彼が私を必要としてくれているなら、それだけで嬉しいと思ってしまう。
 私は、自分の理性が音を立てて崩れていくのを感じながら、彼の隣の席へと座り直した。
 
 そうして始まった「特訓」は、私の心をさらにかき乱すことになった。

 △

「……で、何やりたい?」
「えっと…研磨さんがやってるみたいな、マウスとキーボードをカチャカチャ操作するようなガチガチのゲーム、やってみたい気持ちはあるんですけど、まだ私には早すぎて…。ワンクリックで出来るようなやつのほうが……」
「ん。りょーかい」

 研磨さんは私のマウスを手際よくテーブルの上のノートPCと接続すると、私が見やすい角度にPCを移動させてくれた。
 画面に映し出されたのは、無機質なグレーの空間に、青いボールがふわふわと浮かんでいるだけのシンプルな画面だ。

「……これ、なんですか?」
「エイム練習用のソフト。この前やった反応速度のテストと似てるやつ」
「へぇ…!」
「画面に出てくる的を、クリックして撃つだけだから」

 これなら私でもできそうだ。
 私は言われるままにマウスを握り、画面に向かった。自分の手にしっくりと馴染むその小ささが、彼に選んでもらったものだということを思い出させて、少しだけ鼓動が速くなる。
 スタートの合図とともに、ポン、と的が現れた。カーソルを動かす。

 ──カチッ。

「あ、当たった!」
「うん。……でも、だいぶ遅いね」
「うぐっ」

 的は次々と現れては消えていく。必死にマウスを動かすけれど、カーソルが行き過ぎたり、届かなかったりして、空振りばかりしてしまう。
 先程までの「仕事としての距離感」だとか、そんなモヤモヤした思考はどこへやら。気づけば私は、ただ目の前の青い的を射抜くことだけに、無心になっていた。

「あ〜、また外した〜!」
「力みすぎなんだって。もっとリラックスして」

 言うが早いか、彼は私の背後に腰を下ろす。そして画面に向かう私の右手に、ふわりと彼の手が重なった。

「っ……!」

 背中が跳ねる。さっきまで画面の中にあった意識が、一瞬で自分の右手に引き戻された。
 私の手をすっぽりと包み込む、大きく骨ばった手の感触。そしてすぐ耳元で聞こえる声。こんな状態で、リラックスなんて出来るわけがなかった。

「…手首じゃなくて、こうやって、腕全体で使ってみて」

 研磨さんの手が、私の手を包み込んだまま滑るように動く。
 カーソルが吸い付くように的を捉え、カチッ、と心地よい音が鳴った。

「そう。で、次はこっち」

 ──カチッ。カチッ。
 彼の手のひらに導かれるまま、リズムよく的を撃ち抜いていく。ゲーム画面の中ではスコアが伸びていくけれど、私の頭の中はそれどころじゃない。

(……仕事、仕事、仕事……!)

 心の中で念仏のように唱えるけれど、重ねられた手から伝わる熱が、思考を溶かしていく。

 彼は私になんて、これっぽっちも邪な気持ちなんてないはずだ。だって、研磨さんはゲームを教えてくれる時はいつもこうだから。
 頭では分かっている。私のドキドキだって、ただ、距離が近いことに驚いてるだけ。
 そう断言しようとするのに、鼓動がうるさくてたまらない。この心臓の音が、背中越しに彼に伝わってしまわないか、そればかりが怖かった。

 ──十分ほど経った頃だろうか。ふと、彼がマウスから手を離し、私の顔を覗き込んできた。

「……なんか今日、元気ない?」
「!!」

 心臓が止まるかと思った。
 鋭い。他人に無関心に見えて、この人は相手の些細な変化を決して見逃さない。何も見ていないようで、全てを見透かしている。やっぱり彼は、誰よりも気まぐれで、誰よりも賢い猫のような人だ。
 私は慌てて口角を上げて、研磨さんに向かって下手くそな笑顔を作った。

「そ、そうですか? いつも通りですよ?」
「……そう? なんか、集中できてない感じするけど」
「………えっ…と」

 図星だった。SNSの言葉が、配信のコメントが、そして今この距離にいる彼の存在が、私の集中力を削ぎ落としている。
 でも、それを正直に言えるはずもない。そもそも、取材相手に気を使わせるなんて、プロとして失格だ。

「あー…あ、仕事が立て込んでて、ちょっと疲れ目なのかもです!」
「……」

 私の下手な嘘を、彼は追求しなかった。
 ただ、モニターに視線を戻して、ぽつりとこぼすように言った。

「……ま、無理しないでいいよ」
「え?」
「つまんない顔してゲームされるより、この前みたいに楽しそうにゲームされるほうが…俺は、好きだから」

 ドクン、と。ひと際大きな音を立てて、心臓が跳ねた。

 「好き」という言葉。
 それが、私一人に向けられたものじゃないことなんて、痛いほど分かっている。彼はゲームを楽しんでくれる人たちが好きなだけで、ただ仕事に真摯で、それだけの話。それはこれまでの取材で何度も見てきた。分かってる。理解してる。

 だけど、その言葉の響きがあまりに優しくて、胸の奥が救われると同時に──どうしようもなく、怖くなった。
 こんなふうに、何の悪気もなく懐に入り込んでくるから。距離を詰めてくるときの声も、視線も優しすぎるから。私は簡単に勘違いしてしまいそうになる。

(……違う。これは恋なんかじゃない)

 これは、これまで積み上げてきた取材が、ちゃんと意味を持っていたと確認できた安堵だ。彼が安心して素を見せてくれるくらい、信頼を得ている。自分の努力が無駄じゃなかったと肯定されて嬉しくなっただけ。そういう種類の高鳴りだ。そうじゃないと困る。

 もし「恋」なんて名前をつけてしまったら、その瞬間に今の関係が壊れてしまうかもしれない。期待してしまって、勝手に傷ついて、もう隣にいられなくなる未来が、ぼんやりと頭に浮かんでしまう。

「……研磨さん」

 気まずい空気が漂い、どう打開すべきか探しあぐねていた時、ふとPCに表示された時計が目に入った。帰社予定の時間が迫っている。

 ──今しかない。

「あっ、もうこんな時間! すみません、また長居しちゃって!」

 私は逃げるように立ち上がり、片付けを始める。
 今度は彼も引き止めなかった。ただ、じっと私を見つめている気配を感じる。それに気づかないふりをして出口へ向かうと、ゆっくりと研磨さんもその場に立ち上がった。どうやら、玄関まで見送りをしてくれるらしい。その優しささえ、今の私には毒のようだ。

「では、大会当日の取材、よろしくお願いします。頑張ってくださいね」
「…うん。ありがと」

 しっかりと九十度のお辞儀をして、私は逃げるようにその場を後にした。
 背後で扉が閉まる音がする。その瞬間、張り詰めていた糸が切れたように、深いため息が出た。

(……もう、限界かも)

 どうしても、彼のそばが心地よいと思ってしまう。このままじゃ、私はいつか必ず、プロとしての一線を越えてしまう。

(ちゃんと、線を引かなきゃ)

 そうだ。中途半端に「研磨さん」の素顔に触れているから辛いんだ。
 徹底的に「KODZUKEN」というプロゲーマーを取材して、解析して、ただの「すごい取材対象」に戻ればいい。最初に戻るだけだ。そうすれば、この胸の痛みも消えるはずだ。

 夕方の湿った風で火照った頬を冷ましながら、強く拳を握りしめた。

 次の取材は、大会当日。
 そこが、私の想いを断ち切るための、決戦の場になる──はずだったのだ。


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