【難易度UP?】再挑戦は彼のホームで


『ちょっと待って』

 スマホのチャット画面を開いたまま、私は数秒固まる。
 編集長に突然のゲームコラム担当を言い渡され、自分なりに取材相手のコヅケンさんを調べて挨拶にお邪魔したのが数日前。プロゲーマーである彼の言うことは、ゲームの世界を全く知らない自分にとっては初めての用語や事実ばかりで戸惑いつつ、良いものを作るために気合いを入れていた。
 そしてその気合いのまま、コヅケンさんに約束してた仮の原稿を送ったのが数分前のこと。そしてついさっき、彼から社外チャットツールで来た返信が冒頭のものである。

 え、何かいたらぬことをしただろうか。

 チャット画面を見つめる目はバッキバキに乾いてる。ドクドクと心臓が嫌な音を立てて、スマホを持つ指が震えた。
 ——どうしよう、このまま企画が頓挫してしまったら。
 どんどん青くなる自分の顔をどうすることも出来ず、なんと返せばいいか探しあぐねていると、続けてポンッとチャットが送られてきた。

『明日うち来れる?』

 その文面が届いた瞬間、やっと呼吸が出来た気がした。無意識に息を止めていたらしい。空気を肺に取り込んで、ゆっくりと吐き出す。落ち着け私…落ち着け私……。

 自宅に呼ばれた、ということは、コラムについて話をしてくれる余地があると見て良いだろう。つまり、企画頓挫は、すぐにはないと思いたい。そう思っておこう。私は震える指のまま、スマホの画面をタップして返信を打つ。

『明日、お伺いすること可能です。何時頃がご都合よろしいでしょうか?』
『十五時でも大丈夫?』
『かしこまりました。それでは明日の十五時にご自宅へお伺いいたします。どうぞよろしくお願いいたします』

 既読がついて、返信が途絶える。なんとか次の約束を取り付けることが出来た。けど気持ちは全く平静を装うことが出来ず、机に突っ伏して重い息を吐く。
 呆れられたかな…難しいな、コラム…。泣き言を口にしそうになるのをグッと唇を噛んで抑える。まだ本格的な取材もやってないうちから弱気になるのは止そう。とりあえず明日までにやれることはやらなければ。

 間も無く二十三時を指す時計を見上げる。この時間になると、家に帰るのも億劫だ。私は書類をまとめて席を立ち、警備員のいる守衛室へと足を運んだ。

「お疲れ様です。週刊少年ヴァーイ編集部のミョウジです。シャワー室使いたいんですが…」
「お疲れ様です。こちらのカードキーをご利用ください」

 提出した社員証を確認した無愛想な警備員さんに、淡々とカードキーを手渡される。それを受け取って、私は小さく頭を下げた。

「ありがとうございます」

 カードキーを握りしめたまま、静まり返った廊下をひとり歩く。残った明かりがぽつぽつと灯るオフィスビルの中は、昼間とはまるで別世界だ。エレベーターを降りて、廊下の奥にある女性職員専用のシャワー室の前で立ち止まる。カードキーをかざすと、小さな電子音とともにロックが外れた。
 こういう設備が充実してるところは、時間が不規則になりがちな仕事柄としては大変ありがたいと感じる。だけど、それに甘えそうになるので、普段はシャワー室や仮眠室は極力使用を避けているし、編集長からも口酸っぱく言われている。
 しかし今日ばかりは、許してもらいたい。明日のために、一秒でも時間を無駄にしたくない気分なのだ。

 タイル張りの明るい室内に足を踏み入れる。鏡の前でふと立ち止まり、映った自分に目を細めた。

「……なんか、顔に疲れたって書いてあるなあ」

 思わず独り言がこぼれた。
 脱衣所のカゴに着替えを置いて、浴室に足を踏み入れシャワーをひねる。狭い室内に湯気が広がっていく。肩にお湯が触れた瞬間、じわっと、張り詰めていたものがほどけていくのがわかった。
 疲弊した心も、少しだけ洗い流されたような気がした。

「……よし」

 深く息を吸い込む。
 不安になってる場合じゃない。漫画であれ、コラムであれ、自分の持てる力で頑張るって決めたんだ。とりあえず明日は、再び直接コヅケンさんとお話が出来るのだから、後退しているわけではないのだろう。

 やることは山積み。でも、やるべきことがあるって、ちょっと幸せなことかもしれない。気持ちいいシャワーのお湯に顔を充てながら、私はそっと笑った。





「ミョウジ、コヅケンさん宅に行ってきます!」

 次の日、付箋をびっしり貼ったノートや雑誌を鞄に詰め込み、編集部内に響き渡る声で宣言をする。それぞれのデスクから「おー」「お疲れ様です」と返ってくる声を背に受け、廊下に出ると、ちょうど打ち合わせが終わって帰社したところらしい赤葦と鉢合わせた。
 相変わらず隙のないきちんとした服装と、落ち着いた雰囲気。きっと仕事も順調にこなしているのだろう。この男が焦っているところなんて見たことがない。

 コヅケンさんにコラムのストップをかけられている自分の状況の不甲斐なさと、同期の赤葦への言い知れぬ劣等感に、思わず歯を食いしばる。

「いや、何なの、いきなり…」
「うう…赤葦には負けない……」
「? なんのこと?」
「その余裕な顔がムカつくの!」
「え…大丈夫か?」

 赤葦は目の前の理解不能な出来事に戸惑っているように、その切長の瞳をパチパチと瞬かせた。二十センチ以上身長差があるので、自然と見上げる形になってしまう。凄んでいるつもりだが、この男には全く効いていない。
 同期ということで、一方的にライバル心を持っているのだが、赤葦が露ほども気にしてないところも、腹が立つし自分の勝手な闘志が沸き立つ理由のひとつである。

「大丈夫ですー! 赤葦が思わずスクラップしときたくなるようなコラム書くからね! 楽しみにしといて!」
「…ああ、コラム。今からコヅケンのところ行くんだっけ」

 どれだけ私が大人気なく返しても、淡々と返す赤葦。いつもの光景なので、廊下ですれ違う他の職員たちは、こちらを見ようともしない。

「どう? コヅケン」
「……どうって言われても、まだ一回しか会ったことないし…無表情だし、よく分かんない…」
「意外と表情豊かなところあるから、挫けず声かけてみな」

 赤葦のその言葉に、首を傾げる。

「赤葦、コヅケン知ってるの?」
「…まあ」
「なにその曖昧な返事。赤葦、意外とゲーマーとか?」
「どうかな。……ほら、早く行かないと遅れるよ」

 赤葦に促されて時計を見ると、今から出たらギリギリ約束の時間になるくらいの時刻を差していた。私は慌てて鞄を肩に掛け直す。

「うわっ、ほんとだ! じゃあね、赤葦!」

 手を上げる赤葦にひらひらと振り返す。すれ違う瞬間、微かに珈琲の香りがして、カフェで打ち合わせだったのかな、とぼんやり思いつつ、私は足早に出版社を飛び出した。


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