【新たな武器獲得】彼の心はアンロック済?


 電車の揺れに身を任せながら、私はスマホを握りしめていた。先ほど届いたコヅケンさんからのお誘いのメッセージが表示された画面。あれからもう何度読み返したか分からない。
 仕事の枠を超えて連絡してきたこと、あの人なりに言葉を選んだ様子。少しずつ、気を許してくれている以上の関係が見えている気がする。
 そんなことを考えていると、再びスマホが震えた。

『駅出たところで待ってる。』

 その短い言葉に、心臓が跳ねた。駅に近づくにつれて、胸の鼓動がどんどんうるさくなる。
電車の揺れよりもずっと強くて、落ち着かない。

(これって…デートでは、ないよね……?)

 自分に問いかけて、すぐさま首を振る。

(ないない! コヅケンさんがそんな意図あるわけないし!)

 そう、これはあくまで“ついで”。
 でも——たとえそうでも、嬉しいと思ってしまった私は、浮かれすぎているのかもしれない。

 待ち合わせをした場所は、アニメやゲームの専門店がひしめき合う、いわゆる「オタクの聖地」と呼ばれる街だった。駅に降り立った瞬間から、その熱気に気圧される。休日の今日は特に人が多く、改札前もごった返していた。

(この中からコヅケンさんを見つけられるかな……)

 キョロキョロと辺りを見回していると、少し離れた柱の陰に、寄りかかってスマホを眺めている人影が目に入った。
 黒いキャップを目深にかぶり、黒マスクをつけ、オーバーサイズのシンプルなシャツをスタイリッシュに着こなしている。いつも家で見る、ゆるいパーカーやスウェット姿とは全然違う。

(あれ、コヅケンさん……だよね?)

 別人みたいだ、と思った。プロゲーマーとして表に出る時の「KODZUKEN」とも違う、プライベートな、でもちゃんとお洒落をした姿。そのギャップに、不覚にも胸がときめいた。
 私が彼に気づいたのと、彼がふと顔を上げたのは、ほぼ同時だった。
 ぱちり、と視線が合う。

「コヅ——」

 人混みをかき分けて駆け寄り、名前を呼びかけた瞬間。
 彼がすっと人差し指を口元に当てて、「シーッ」と静かに合図を送ってきた。私は「んぐっ」と慌てて口をつぐむ。

「……ごめん。ここでは、あんまその名前で呼ばないほうがいいから」

 目の前にやってきた私に、彼はひそひそ声でそう言った。言われてみれば、彼のファンが、この人混みの中にいないとも限らない。

「そっか! そうですよね! すみません!」
「ううん、大丈夫」

 私がぺこぺこと頭を下げると、彼はいつも通りの無表情で返す。

「じゃあ……えっと、なんて呼べば…」

 咄嗟に代わりの呼び方が思いつかず、私が口ごもると、彼は少し考えるように、長い睫毛が影を落とす瞳を伏せた。ほんの少しの沈黙が流れて、その場のざわめきがやけに遠く感じる。
 やがて、彼はぽつりと、私の耳にだけ届くような小さな声でこぼした。

「……研磨でいいよ」
「えっ」

 ——研磨。
 それは、彼の本名。取材資料で何度も目にしてきたけれど、口に出したことは一度もなかった名前。彼の世界に、一歩足を踏み入れたような気がして、呼吸が止まる。

「で、でも、本名じゃ……余計に……」
「大丈夫。下の名前で呼ぶヤツ、あんまいないから」

 それに、と彼は続ける。
 私をまっすぐ見つめる、熱を帯びた、でもどこか落ち着いた彼の瞳。

「きみには、そっちで呼ばれても…いいかなって思うから」

 その言葉に、顔にカッと熱が集まるのがわかった。心臓がうるさくて、彼の顔をまともに見られない。私が固まっていると、彼は「……ここにいてもアレだし、移動しよ」と優しく急かした。

 覚悟を決めるしかない。逃げ出したいような、でも嬉しいような、ぐちゃぐちゃな感情のまま、私は蚊の鳴くような声で、彼の名前を呼んだ。

「……け、研磨さん」

 その瞬間、彼がほんの少しだけ満足そうに、ふっと笑みを漏らしたのを、私は見逃さなかった。マスクで口元は隠れているけれど、その目元が、確かに緩んでいた。
 その優しい笑顔に、私の心臓はもう限界だった。

「……行こっか」

 そう言って歩き出した彼の隣を、私は少しだけ距離を置いてついていく。さっきよりもずっと速くなった鼓動を感じながら。



 コヅケンさん…研磨さんが向かったのは、駅前の大型家電量販店だった。PC周辺機器が並ぶフロアへ着くと、そこには様々な形や色のマウスが宝石のように並んでいた。

「すごい数ですね……」
「まあ、そうだよね。こっちは軽さ重視、あっちはボタンの数が売り、とか」

 淡々と説明してくれるけれど、その声はいつもより少しだけ弾んでいるように聞こえる。本当に、こういうデバイスが好きなんだな、と微笑ましくなった。

「研磨さんは、どんなマウスを探してるんですか?」
「んー……軽くて、手に馴染むやつ」

 彼はそう言うと、いくつかのマウスを手に取って、重さや形を確かめている。その真剣な横顔は、プロのゲーマーそのものだ。その姿を見ていると、私はさっきまでの浮ついた気持ちに、冷や水を浴びせられたような気分になった。

(そうだ、これはデートなんかじゃない。彼の仕事道具選びに、私が着いてきただけなんだ)

 危ない危ない、と心の中で首を振る。これはコラムのための取材の延長。プロがどんな視点で機材を選ぶのか、この目でしっかり見ておかないと。私は必死に仕事モードのスイッチを探した。

 プロにしか分からない拘りや見るところがあるのだろう。正直、マウスなんてカーソルを動かすことが出来ればいい、くらいの認識だったので、見たこともないような複雑な形をしたものや、無数にボタンがついたものに、自然と目を奪われる。

「あ、このピンク色、可愛いですね」

 私がふと目に留まったものを指差すと、彼は「ああ、これね」と言ってそれを手に取る。他に並んでいるものよりもシンプルで小柄で、あまりプロが使うようなものには見えなかったけど、個人的には好きな雰囲気のデザインだった。

「女の人とか、手が小さい人向けのデザイン。人気あるよ」
「へぇー。ゲーミングデバイスって、黒くてゴツゴツしてるイメージでした」
「最近は色んなのが出てる。配信者が見た目を気にするようになったのもあるかもね」

 なるほど、と感心しながら商品を眺めていると、彼が不意に「……ちょっと手、見せて」と言った。突然の彼からの申し出にびっくりして大袈裟に肩を揺らしてしまう。

「え? て、手ですか?」
「うん。大きさとか、見たいだけだから」

(大きさって、なんの…?)

 そんな疑問が浮かんだが、意識している私の方が恥ずかしくなるくらい、研磨さんはいつも通りの静かな表情で私を見ている。

 言われるがままに、おずおずと右手を差し出すと、彼は自分の手と私の手を、比べるように合わせた。研磨さんは男性にしては小柄だけど、それでも私の手よりはずっと大きく、指が骨張っている。
 不意に近づいた距離と、手のひらから伝わる彼の熱に、仕事モードのスイッチなんて、どこか遠くに吹き飛んでしまった。

「……やっぱり、こっち系のほうがいいかもね」

 彼はそう呟くと、私が「可愛い」と言ったピンク色のマウスを手に取った。そして、そのままレジの方へ向かおうとする。

「え、研磨さん? もう決めたんですか?」
「うん、ちょっと買ってくる」

(え、ピンク色のマウスを…研磨さんが使うの?)

 彼の仕事部屋にある機材は、どれも黒やシルバーで統一された、シックでシンプルな雰囲気のものばかりだった。だから、その選択はあまりにも意外で、私の頭に「?」が浮かぶ。

(もしかして、誰か他の人へのプレゼント、とか…?)

 いやいや、とすぐにその考えを打ち消す。私に関係ないことだ。
 レジへ向かう彼の後ろ姿を見送りながら、私は並んでいるマウスを眺めるフリをして、その場で彼を待つ。けれど、意識はすべてレジにいる彼に集中していて、商品の説明なんて少しも頭に入ってこなかった。

 やがて、会計を済ませた研磨さんが戻ってくる。そして突然、小さな紙袋を私の目の前に「はい」と、ぶっきらぼうに差し出した。

「……え?」

 意味が分からず、私は彼と紙袋を交互に見つめる。「開けてみて」と顎で示され、おそるおそる中を覗き込むと、そこにはもちろん、さっきまで私が見ていたピンク色のマウスが収まっていた。

「あの、これ……」
「きみにあげる」
「ええええっ!?」

 素っ頓狂な声がフロアに響き、数人の客がこちらを振り返る。私は慌てて口を押さえた。

「……声、でかい」

 不愉快そうに眉間に皺を寄せられたけど、私の心はそれどころじゃない。思考がぐるぐると空回りする。
 なんで? 私に? 自分のじゃなかったの?

「な、なんで私にくれるんですか!? だって今日は研磨さんがご自分のを買いに来たんじゃ…」
「俺のはもうあるし。この間、うちでゲームしてた時、やりにくそうだったから」

 彼は少しだけ視線を逸らしながら、ぽつりと言った。

「……楽しむことが、大前提なんでしょ。だったらまず、気に入った道具使うのが一番だし」

 それは、私が書いたコラムで、彼が語ってくれた言葉だった。
 ただの取材相手の、ゲーム初心者の私なんかが書いた記事。それを、彼がこんなにも真摯に受け止めて、覚えていてくれた。そして、私のために、わざわざ。

 じわ、と目の奥が熱くなるのを感じた。

「それに……」

 彼が言葉を続ける。

「……俺が…また、ゲーム教えてあげてもいいし」

 ほんの少し言い淀みながら照れたようにそう言って、ふい、と顔を背けてしまった。
 その言葉と、ほんのり赤くなっている彼の耳を見て、私の中で何かが弾けた。嬉しさと、愛しさと、それから、こんなにも可愛い人をもっと困らせてみたい、というほんの少しの意地悪な気持ち。

「……はい! これで練習して、いつか研磨さんに勝てるように頑張ります!」
「……ふっ、それは一生無理だと思うけど」

 私の宣言に、彼が楽しそうに笑った。
 その笑顔が見られただけで、今日のこの日が、最高の日になった気がした。



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