【新装備装着】ピンクのマウスとゼロ距離指導
(夢みたいな一日だったな…)
ベッドの上に仰向けで横になり、見慣れたシーリングライトの輪っかをぼーっと見つめる。
家に帰ってからも、私の身体の中に燻っている熱はなかなか抜けなかった。研磨さんと、プライベートで二人きりで会ったこと。少しだけ照れたように「研磨でいいよ」と言ってくれたこと。そして、買ってくれたピンク色のマウス。
テーブルの上に置いた箱からそっと取り出し、手のひらに乗せてみる。私の手にもすっと馴染む、小さくて軽いボディ。彼が、私のために選んでくれたもの。
その事実だけで、まるで彼のテリトリーに足を踏み入れる特別な許可証をもらえたみたいで、嬉しくて、たまらない。
(……いやいや、仕事! これは仕事の一環!)
ふわふわと浮かび上がる思考を、頭の中の冷静な私が必死に打ち消す。
思い返せば、彼は終始いつも通りの淡々とした口調だったじゃないか。私のためにわざわざマウスを買ってくれたのだって、「コラムの題材にいいかも」とか、そういう取材協力の一環に決まっている。
それに、彼に「研磨さん」と呼びかけたときの、あの満足げな笑顔。あれだって、私がちゃんと彼の正体がバレないように配慮したから。その姿勢に、取材相手として安心してくれただけだ。
そう、きっと、そう。──そうに決まってる。
そうでも思わないと、私の心臓が、もうどうにかなってしまいそうだから。
でも、このマウスを見るたびに、彼の大きな手が、私の小さな手に重ねられたあの瞬間の感触が、まざまざと蘇ってくる。まだ指先に残っているような、温かい記憶に、胸の奥がじんわりと熱を帯びた。
スマホを開くと、次の打ち合わせの日程調整のメッセージが目に入る。
——次の取材、どんな顔をして会えばいいんだろう。
私は新しいマウスをぎゅっと握りしめたまま、ベッドの上で小さくうずくまった。
△
「今回のテーマは“初心者向けトレーニング”ということで……」
数日後、私はいつものように彼の家のリビングで、手元の録音アプリを起動しながら取材ノートを広げた。
正面に座る研磨さんは、相変わらず無表情だ。先日一緒に出かけたことなんて、つゆほども気にしていないような素振り。マウスのお礼を改めて伝えても、「別に」と一言、いつも通りの淡々とした返事が返ってきただけだった。
(やっぱり、意識してるのは私だけなんだ……)
勝手に舞い上がっていた自分が急に恥ずかしくなる。もっとプロ意識を持たなきゃ、と私は無理やり仕事モードに頭を切り替えた。
「研磨さんは、毎日のトレーニング、どんなことをやっていらっしゃるか教えていただけますか?」
「うん。反応速度系がメインでいい? 簡単だし、読者の子でもやりやすいと思う」
「はい、お願いします」
彼は机の上のノートPCを起動し、慣れた手つきでブックマークを開いた。画面に表示されたのは、真っ黒な背景に、赤いボタンがひとつだけぽつんとある、ごくシンプルなサイトだ。
「これ、押すと始まる。ボタンの色が変わるから、その瞬間クリックするだけ」
「反応速度を鍛える、っていうトレーニングですか?」
「そう。地味だけど、大事な作業だと俺は思ってる。でも毎日一時間とかはしなくていい。寝る前に二、三分でもいいから、継続することが大切」
そう言いながら、彼は一度やって見せてくれた。
カチ、カチ、カチ、と無駄のないクリック音が静かな部屋に響く。このトレーニングへの理解が追いつかない私でも「常人とは桁違いなんだろうな」と思わされるほどだった。
画面には、結果の数字が表示されていた。
「…これってやっぱ早いんですよね?」
自分でも言っていて心許なくなる。研磨さんは私の初心者質問にも気分を害した様子もなく淡々と答えてくれた。
「……まぁ、今日は普通。調子いいときは、もうちょい下がる」
その“普通”がどれくらい普通じゃないのかすら分からない。やっぱりプロはすごいなぁと素人目線でしかない感想を持っていると、研磨さんがちらりとこちらを見て、口を開いた。
「やってみる?」
「えっ、私がですか!?」
「うん。初心者代表として」
有無を言わさず、彼のノートPCが、ぐいっと私の前に押し出される。逃げ場は、完全になくなった。
意を決して、スタートボタンを押す。カウントをする数秒の無音が、やけに長く感じられた。パッと画面が変わった瞬間、私は思いっきりビクッとしてしまう。
──カチッ。
……遅い。自分でもわかるくらい、反応が鈍い。
次も、その次も、焦るばかりで思うように指が動かない。結果は「平均反応速度:0.366秒」。これが速いのか遅いのか、よくわからない。ただ、“さっきの彼の数字とは桁が違う”ことだけは痛いほど理解できて、肩がしゅんと落ちる。
「……まぁ、初めてならこんなものだよ」
「ほんとですか…?」
「うん。それに、ミスしても途中でやめないのは偉いと思う」
まっすぐな口調で紡がれる、予想外の言葉。褒められるような出来じゃないのに、それでも“偉い”なんて言ってくれるのは、優しくてずるい。じわり、と胸の奥が熱くなった。
「あとで原稿に書いといて。“初心者であるコラム担当の記録はこちら”って」
「え、これ……載せるんですか!?」
「その方が面白いじゃん。プロの数字だけより、実際の初心者の記録出した方が親近感湧くでしょ。少年誌なんだし」
そう言って、少しだけ目を細める研磨さん。
──ああ。この人、本当にゲームのことだけじゃなくて、読者のことまでちゃんと見てくれてるんだ。
「……研磨さん、私より編集者みたいですね」
「なに、それ」
意味がわからないというように眉を寄せる彼を見て、思わず笑みがこぼれた。少しだけ肩の力が抜ける。
「クリック練習、意味ないって言う人もいるけど。でも俺、これやってると落ち着くんだよね」
彼はそう言って、もう一度ノートPCの画面に目を戻した。
「落ち着くんですか? こんなに集中力を使うのに……」
「うん。ちゃんと反応できると、“今日は大丈夫だ”って思えるし」
プロにとって、こんな単純なトレーニングひとつにも、心身のコンディションを測る重要な意味があるのだろう。
「地味な作業だけど、こういうのをサボって負ける方がもっと嫌だから、やってる感じかな」
研磨さんはそうぽつりと呟いた。日々の積み重ねを呼吸するように当たり前のこととして捉えている、彼らしい言葉に聞こえた。
やはり、研磨さんのように何かを突き詰め、自分の力を試している人は、見ている世界の解像度が違うのだろう。
彼の言葉は、私の知らない世界の扉を開けてくれるようで面白くてたまらない。
──けれど。
同時に、その扉の向こうに広がる景色を、私は決して彼と同じ色で見ることはできないのだと突きつけられるようで、ほんの少しだけ胸が痛んだ。
「……持ち方、おかしい」
プロの世界の奥深さに思考を巡らせていると、彼は私の手元をじっと見て、ふいに口を開いた。そういえば、マウスを握ったままだった。
「そこ、握りすぎ。もっと力抜いて」
彼がすっと立ち上がり、私の後ろに回り込んできた。すぐそばに感じる、彼の体温。シャンプーみたいな、清潔な匂い。驚きで体が固まっていると、ふわりと温かい手が、マウスを持つ私の手に重ねられた。
「っ……!」
反射的に声が出そうになって、慌てて唇を引き結ぶ。
彼の指が、私の指を優しく包むように、マウスの上で正しい位置へと誘導する。
この前の、手に触れた熱を思い出す。触れた部分から彼の体温がじかに伝わってきて、心臓が爆発しそうだった。
「こう。指は添えるだけ」
耳元で、静かな声が囁く。研磨さんはそのまま、目の前の液晶に表示されたスタートボタンをクリックした。
もう、画面に映る光なんて、全く目に入らない。ただ、私の手を包み込む彼の、自分よりもずっと大きな手の感触ばかりに、全神経が集中してしまう。
彼の指に導かれるまま、画面に光った点をクリックする。
「…うん、いい感じ」
満足げな声が聞こえて、はっと我に返った。そして、彼の手がすっと離れていく。その瞬間、私の手から彼の温もりが消えていくのが寂しくて、思わずマウスをきゅっと握りしめてしまった。
「練習すれば、すぐ慣れるよ」
彼は何でもないように言って、元いた斜め向かいの位置に戻る。離れた距離に、ようやく呼吸を整えることができたけれど、顔に集まった熱は、もうどうしようもなかった。
「……あのマウス、持ってきてないの?」
「え?」
突然の問いかけに、また心臓が大きく跳ねる。テーブルに肘をつき、頬杖をついた研磨さんが、探るような目で私を見上げていた。
「あ、この前いただいたやつ、ですよね」
「うん。……もしかして、気に入らなかった?」
いつもの彼からは想像もつかない、少しだけ不安そうに揺れる瞳。研磨さんにそんな顔をさせてしまったことが、申し訳なくて、胸が痛い。
「そ、そんなことないです! すごく可愛くて……箱から出して使うのがもったいなくて!」
私の慌てたような言葉に、研磨さんの目元がふっと緩む。その表情は、どこか安堵したような雰囲気で。その分かりやすい変化に、また胸が締め付けられた。
「今度持ってきなよ。使ってなんぼのものだし」
そして、少しだけ拗ねたように唇を尖らせて、こう付け加えた。
「……ゲーム、教えるって言ったじゃん」
「…っ!」
男性に使う言葉ではないかもしれない。でも、その仕草も、声も、どうしようもなく「可愛い」と思ってしまった。
こんな顔をされたら、断れるわけがない。嬉しいという気持ちが、言葉よりも先に、表情に出てしまっているのが自分でもわかった。
「……はいっ」
私は、彼の目を真っ直ぐに見つめ返して、力強く頷いた。
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