降谷零という男は非常に優秀な人間だ。
警察学校時代では常に主席をキープし総代を務め、何をやらせても人並み以上の結果を叩き出す。ボクシング仕込みの体術、まどかが苦手としている拳銃操法、相手を油断させる話術と情報収集力、頭の回転も目が回る程に速い。
まどかは次席で副総代を務めており降谷の隣に並んだものの、実際にはその差は大きくまどかがどれだけ努力しても埋まることは無かった。
自分の実力に世界最高峰エベレスト級のプライドと自信を持ち、そのため敵を作ることも少なくない。けれど決して間違ったことは言わないしやらない。彼のピンと伸びた背中は多くの同期たちの見本となり、そして憧れだった。
認めたくないものの、確かに神咲まどかもその内の一人で。



それなりに立地も良く比較的新しい、あるマンションの一室。家具は揃っているものの飾り気は無く、よそよそしく綺麗なままで生活感をまるで感じさせないその部屋に入った瞬間、彼は食材の入ったレジ袋を放りまどかへと手を伸ばした。まるでスイッチが切り替わったように甘やかな安室透は消え、本来の降谷零へと戻る。
「えーと、降谷…?」
「……なんだ」
彼の細やかな金糸が額に降り、すぐ近くから聞こえる声に心臓がざわざわ騒いで落ち着かない。これは、誰だ?
「玉子落ちたけど…」
自分の肩に頭を埋める男の顔を確認することは出来なかった。

まどかの困惑を他所に、降谷は彼女を抱き締める腕を緩めることもせずただその生を確かめていた。
何年もの間行方が分からなかった同期、降谷にとっては唯一残った友人だ。まどかが消えた後、次々と亡くなった同期達に降谷の精神は着実に削られ、伊達が殉職していたと知った時には神咲も既に亡くなっているのでは、と最悪の予想すらしていた。
それでも、血に塗れた幼なじみに誓った組織の壊滅を果たすために黒を纏い、牙を磨き爪を研いで時には天敵と呼べる男と共闘までしてきた。小さな探偵の活躍もあり、組織は崩壊しコードネーム持ちの幹部はただ一人を残し自決、若しくは逮捕され、"あのお方"も自ら心臓を撃ち抜いている。
大きな犠牲を出して崩壊させたものの、この仕事を完全に終えたその先に自分は何ができるだろう。自分には、もう何も残されていない。降谷の大切なものは全て奪われ消えてしまったのだ。

逃げた幹部と数だけは多い下っ端構成員。
それらを全て狩り尽くす為に安室透を演じる日々のひとコマで、神咲まどかとの想定外の再会は彼に大きな衝撃を与えた。
しかしポアロのアルバイト店員安室は白藍と名乗った神咲まどかと初対面であり、あの場でこの7年間の空白について問い詰めることは不可能で。その胸の内に浮かんだ感情は彼女が生きていた喜び、安堵、はたまた自分を前に他人を装い見知らぬ表情で笑うことへの怒りか、……きっとそれら全てだ。
そして安室透という虚像により抑え込められていたその感情が、降谷零に切り換えられた今、爆発するのも仕方ないことだろう。



「聞きたいことは山のようにあるが、…まずは飯だな」
「ん、お腹減った」
妙な緊張感で張り詰めた空間を何事も無かったかのように崩した降谷は、落とした食材を拾い始める。玉子は奇跡的に全て無事だが、その下にあったパスタはバキバキに折れていた。捌宮も転がった玉ねぎを拾い下駄を脱ぎ、部屋へと上がる。
ーーびっくりした…。
まず、ボディタッチを好まない降谷が自分に触れたことに驚きが隠せない。確かに電話でも随分不安定だとは感じたものの、まさかこれ程とは。
「どうかしたか?」
「んーん、なんでもない。喫茶店アルバイターの御手並み拝見、ってね」
「…言ってろ」


「……待って、めっちゃ美味しい」
「当然だろ」
降谷の作ったナポリタンは、本丸での食事により肥えた舌を持つまどかでも素直に美味しいと言える程のものだった。折れたせいで短いものの、柔らかすぎない歯ごたえの麺、ウィンナーや玉ねぎにも満遍なくケチャップが絡み付き、バターの香りがふわりと口の中へと広がっていく。
そっと袖口を抑えながらグラスを取る、ごく自然に行われた動作を目敏く見つけ、降谷は静かに切り込みを入れた。
「着物、着慣れているんだな」
「まあね。これが仕事着っていうか、もう普段着みたいなとこもあるし。今日のコレは完全にうちの女子力高い勢の着せ替え人形にされたんだけど」
「……同僚か?」
「そんな感じ、同僚っていうか、部下っていうか、もう家族…かなあ」
捌宮として寝食を共に過ごしているからの言葉も、降谷にしてみればまったく理解できないものだった。部下、と聞いて頭に浮かぶのは風見だが、いかに仕事が出来る男だとしてもプライベートまで干渉されるのは御免だ。仕事着が着物で、部下と家族で。答えて貰えそうなものから聞いていったのは降谷だが、まどかの答えでまず思い浮かんだのは極道の妻だった。今も尚、まどかの手の届く場所に立て掛けられている"それ"のこともある。

沢山の切り傷の痕が目立つその手に永遠の愛は嵌められておらず、警察官をめざしていた神咲がまさか反社会勢力に組するとも思えないがーー。

「変なこと考えるのはやめてよ?答え合わせをするつもりは無いけど、逮捕されるような事はしてないからね」
「疚しいことが無いならその袋の中身も言えるんだろうな」
「…ご想像の通り。今日は研いで貰ってきたの。ちゃんと許可証もある」
分霊とはいえ、さすがに御物を見せる事はしないが刀であることを認め許可書を差し出した。
「それともう一本、ここにもあるんじゃないのか」
許可証を見終わり、トントンと自分の胸を指さして目を細めた降谷に神咲はつい頬を引き攣らせる。
「……なんで分かんの…」
「抱き締めた時に固かった」
「ボディチェックだったってこと?うわぁ……」物寂しい部屋も二人の会話で随分と空気が軽くなり、入った当初のよそよそしい雰囲気は何処か溶けて消えていった。
細々とした質問はあるものの、電話で言い聞かせたからか降谷がまどかの仕事について直接聞くことはない。正直に話した所で、現実主義な彼が付喪神だの逆行軍だのを信じるのは難しいだろうが。

「これでも一応、降谷と一緒で日本守ってるんだよ。内容は国家機密だけどね」
二人しか居ない部屋の中、内緒話をするように声を潜めてしぃ、と唇に人差し指をくっつける。

歴史修正主義者、対策本部、審神者、刀剣男士、いずれも未だ世間には発表されていないしされる予定も無い。歴史を改竄できてしまう事実を知ってしまえばその魅力に逆らえる人間がどれ程居るだろう。人は誰しも変えたい過去や後悔を持ち、その傷と一生付き合って生きていかなくてはならないのだ。歴史修正主義者の存在を知られては、こちらが圧倒的に不利になること間違いない。

「……7年間も音信不通だった女の言葉を信じろって?」

大きな溜め息とともに吐き出された言葉は、されど決して重たくは無かった。どこか気が抜けたような、ほっとした安心感が伝わる声。
「耳が痛いなあ」
「自業自得だ」
「うっ、わかってるけど〜」


「私のことばっかじゃなくて、降谷のことも教えてよ。あ、仕事に支障が出ない程度でね。最近どう?恋人できた?」
「……お前な、こんな仕事で出来ると思うか?」
「えー、同じ部署の子とかお見合いとかさあ」
「無いな」
「もしかしてモテない…?」
「そんなに殴られたいか?…相手の組織がでかかったからずっと断ってきただけだ。女に構ってる暇があるなら睡眠を摂る方がずっと有意義だろ」
当時のことを思い出しているのか、その後急に黙り込んだ降谷の眉間には今日1番の深い皺が寄り、苛立たしげな表情だ。そして零された声は地の底から響くようなすごみのある低音。
「…くそ、赤井ィ…!」
「元カノ?」

「いったァ!痛い!今本気だったでしょ…!」

「お前が悪い。……なんで胸摩ってるんだよ」
「心臓が驚いたから落ち着けてるの!」
懐に忍ばせてる平野がカイロみたいに熱く、自己主張しているのだ。どうか安心して欲しい。降谷は女でも簡単に殴るが決して懐刀が出てくる必要はない。
「えーと、何の話だったかな。そう、恋人のーー」
「その話はもういい」
降谷の顔がもううんざりだと告げるので、捌宮は話の矛先を違う人間に当てた。自分の同期が降谷以外にもう残っていないことを、7年間本丸で過ごしていたまどかは知らない。

「じゃあ、流石に誰か一人くらいは結婚した?もう子供が居ても可笑しくない年齢だよねぇ」

松田が子供をあやしている姿を想像しては似合わないと笑い、明るい声で問いかけるが、降谷からの返事は帰ってこなかった。



口を固く結び、伏せた青い瞳からは何の表情も読み取れない。ただ部屋は湿気を吸ったようにどんよりと重い空気が漂い、息苦しい。
『お前が生きてて良かったよ』
電話越しに告げられた言葉が頭の中で繰り返し再生される。以前には見せることの無かった降谷の弱さ、その、原因は。
「うそ」
答えに辿り着くのは簡単だった。それでも認めるのはとても難しく、無意識にも零れ落ちた言葉はやけに冷たく部屋に響く。手のひらにじんわりと嫌な汗をかき、耐え難い焦燥感。

お願い。うそだって、冗談だって、口の端を釣り上げて、馬鹿だなって勝気に笑ってよ。

「嘘だったら、良かったのにな。……見事に置いて逝かれたよ」


息が詰まり、腹の底から込み上げてくる喪失感に全身が急速に冷えて行く。瞼だけがどうしようもなく熱を持ち、瞬きした瞬間、とうとう耐えきれずに透明な雫が二粒落ちた。

過去を変えることは許されない。人は誰しも変えたい過去や後悔を持ち、その傷と一生付き合って生きていかなくてはならないのだ。