まだ少し肌寒く、けれど満開の桜がはらはらと風に揺れる4月、江戸川コナン含める少年探偵団は2年生になった。周りの少年少女は自分たちの成長と、初めて出来る後輩に胸を弾ませていつも以上に騒がしく落ち着きがない。
その賑やかさの中で浮きだって見えるのが、随分と冷めた表情でため息を吐いた江戸川コナンと、大人びた目で周りを見る灰原哀だ。
「ついに進級しちまった……」
「ええ、おめでとう。少しは嬉しそうにしなさい、浮いてるわよ」
「おめーもな」
コナンはそう言ったが、哀の大人びた表情は転校して来た当初よりもずっと温かみのあるものだった。組織から逃亡し米花町で暮らす日々はスリルとサスペンスに溢れ、組織絡みでも何度も命の危機を味わい、それでも良き保護者、良きクラスメイト達に貰った感情は冷えた胸の奥をゆっくりと温めていった。

組織が潰れた。薬の開発をしていた自分も、間接的にとはいえ、人を殺している。恐れからの解放は同時にこの生活との別れでもある、そう覚悟を決めていただけに、定期的な面談付きとは言えど今こうして小さな友人達と進級しているのは夢の続きでも見ているかとさえ思ってしまう。
つまりぐちぐちと口を尖らす少年探偵とは違い、灰原哀はこの進級をきっと誰よりも、喜んでいるのだ。

(……相変わらず分かりずれー奴)
むずむずと口元を動かす相棒を横目に、自分の席に座ったコナンは思考の海へと沈んでいった。
行方を晦ました最後の幹部の居場所は何処なのか、蘭との曖昧な関係を何時まで続けられるだろうか、捕えられたジンやウォッカ達は薬の情報を持っているだろうか。頭のなかはそんなことでいっぱいだが、どれも時間を掛けた所でその懸念が晴れることはない。
開いた窓から風に運ばれた桜の花弁がひらりと教室に舞い込んでくる。新学期に相応しい鮮やかな光景だが、コナンは幼馴染と共にこの美しさを分かち合いたかった。
クラス替えに一喜一憂し、桜の絨毯を一緒の歩幅で、ついでに手なんか繋げたら最高。
(せめて、卒業式までには)
蘭がいつまでも自分を待っていてくれるとは、限らないのだから。

「江戸川くん?」
「……!あ、なあに?」
水底からコナンを引き上げたのは爽やかな男の声だった。この春新しく赴任してきた、若い男性教師。その明るい笑顔は既にクラスメイトからの好感を得ているようだ。
「名前を呼ばれたらしっかり返事をするように」
「はーい」
何が悲しくて2度目の小学生、しかも2年目突入。げんなり肩を落とすコナンを置いて担任は生徒達の名前を呼び続けた。元気な返事が教室いっぱいに広がっていく。


「先生からの連絡は三つです。明日は身体測定があるので体操服を持ってくること。それから、お父さんお母さんに聞いた人もいるかもしれたせんが、4月中は米花美術館で刀剣の展示をしています。みんなは無料なのでぜひ見に行ってみてください。最後に、この辺りで不審者が出たとの連絡がありました。一人で出歩かないように」





「みんなー!かーえーろっ」
「歩美ちゃん!元太くん!二人とも早いですね」
「おう!飯のこと考えてたらいつの間にか終わっててよォ、急いで来たんだ」
帰りの挨拶が終われば隣のクラスに別れた歩美と元太が教室に寄って、少年探偵団全員集合だ。
いつものように5人で下駄箱へと歩き始める。大股の元太が我先にと1年生用の下駄箱へ向うものだから、コナンは今日何度目かの溜息を吐き出し、歩美と光彦は大笑いし、哀は口を緩ませた。
「なあなあ、あの話聞いたか?」
「コナンくんはきっと聞いていませんよ、先生にも注意されていましたし!」
「不審者の話だろ?聞いてたっつーの」
挨拶する生徒達に紛れ、担任に詳しく聞いてきたコナンはその詳細を思い返す。
"過去を変えれたら、と思いませんか"、そう言葉巧みに甘い言葉を繰り返しては連れ去ろうとしているのだとか。対象とされる年齢層は実に幅広く、公園で遊ぶ子供たちから、スーパーで買い物をする主婦達、のんびりと散歩を楽しむ老人まで。町の人間を連れ去って何をしようというのか、コナンにはまったくその理由は検討がつかなかった。
「それもあるけど、美術館の方だよ!」
「刀剣の博示会ね」
「ボクたちは無料で入れるって言ってましたね」
「なぁなぁ、早速今日行ってみよーぜ!」
好奇心溢れる子供たちは新しいことに興味津々だ。弾む心に比例して、その歩みも軽やかに跳ねていく。
「残念ね、私は今日ポアロで安室さんとお話があるの。皆で行ってきてちょうだい」
「ああ、そういや今日だったか」
お話というのか定期的にある面談だと知っているのはコナンだけであり、他の子供たちはそれを知る由もない。ただ、自分たちが二人の話に割り込んではいけないと、頭のどこかでは理解していた。そもそも秘密主義の灰原哀について、知っていることはそう多くない。けれど少なくとも、大事なことは知っている。自分たちを大切な友達だと思ってくれていること。守ろうとしてくれていること。それさえ忘れなければ、この脆くも確かな友情は途絶えることはないのだ。
「そっか……じゃあ今日は止めて、また今度!皆で行こうよ」
「そ、それがいいと思います!ボク達は5人揃って少年探偵団なのですから!」
「……いえ。安室さんにお願いして、今日は歩きながら話して貰うわ。だから、展示会いきましょ」
「よっしゃあ!じゃあ昼飯食ったらポアロに集合な!」

忘れんなよー!そう大きな声で叫びながら通学路を走っていく元太に手を振り、少年少女はそれぞれの家路を急ぐ。
その背中を、春の香りを乗せる風だけが追いかけていった。





*****





「へぇ、刀剣の。良いですね、実は僕も行きたいと思っていたんです」

急な予定変更にも怒ることなく、安室はいつも通りに笑って承諾した。そして何度目かの少年探偵団引率として、美術館への道を歩く。
先頭に元太と光彦、その後ろをコナンと歩美が、彼らから数歩離れて安室と哀が、遠足にでも行くかのように綺麗に並んでいる。
「悪いわね、その、……忙しいでしょう」
「気にすることないですよ、展示会が気になっていたのは本当のことですし、仕事中に行けるなんてラッキーでした。むしろお礼が言いたいくらいだ」
「そう、ならいいわ。でも少し意外ね、刀に興味があったなんて」
「そうですね。ですが、少しでも何か知れればと思いまして。……いけないな、君と居ると言わなくていい事まで零してしまう」
ふ、と浅く笑うその青に映っているのはきっと、哀ではない。懐かしむような、どこか甘えるような視線に顔を顰めて身を捩る哀に気付いて安室は小さく咳払いをした。
「最近はどうです、何か変わったことありませんか?」
「無いわ。2年生になった、それくらいよ。薬の研究も相変わらずゆっくりだけれど進んでる。むしろ変わったと言うならーーー、いいえ何でもない」
貴方の方でしょう、続けられる筈の言葉は音にもならずに消えた。
安室透にとっての灰原哀は、恩人の娘であり守るべき被害者、そして監視対象である。同時に灰原哀にとっての安室透も、この監視さえ途切れればもう会うこともないだろう男だった。わざわざわプライベートまで探る必要も無く、聞いたところで返ってくる可能性も、さらに言えば興味もない。
「哀ちゃーん!安室さーん!おっそーーい!!」
途切れた会話を蒸し返すこともせず、二人は子供たちの後を追う。
米花美術館まで、あと少しだ。



「加羅ちゃん!お財布持った?ハンカチは、ティッシュは?」
「五月蝿い、離せ。おい詰め込むな!」
「だって必要な時に無かったら格好悪いよ!?」

美術館へ着くなり、聞こえてきたのは二人の男の言い争いだった。子供たちは足を止め、守るように安室が先頭に立つ。
「あっ!もしかしてお客さんかな?ちょっと待ってね、後ろの子達は無料だけど20歳以上は入場料を……、加羅ちゃん!」
「行ってくる」
片目を隠したスーツ姿の男が声を上げるが、加羅ちゃんと呼ばれた男、大倶利伽羅は振り返ることもなく外へと歩いていった。そしてそれを追うように飛び出したのがきらきらと光る金髪を編み込んだ獅子王だ。
「心配すんなって、俺も一緒に行くからさ!」
「……っ!待っ、君はーー!」
獅子王のその姿を安室は知っていた。警察学校時代の同期である神咲まどかと再会したあの日、ポアロでサンドイッチを頬張っていたこの高校生をまだ覚えていたのだ。
止めるように手を伸ばした安室を見た獅子王は一瞬目を開いて驚き、そして笑った。久しぶりに会う友人に挨拶するように片手を上げ、そのまま走り去っていく。
「展示会、楽しんでってくれよなー!」

「安室さん、知り合いですか?」
「……知り合いと言う程ではないかな。以前ポアロに来たお客さんですよ」
安室にとってはただそれだけの関係だ。けれど、神咲にとっては?あの少年が、彼女の秘密を紐解く大きな手掛かりになるのではないか。今すぐ追い掛けたい気持ちをぐ、と押さえ込み、安室は佇まいを正した。既に視界から消えた彼が手掛かりになるのなら、今なお目の前に立つ眼帯の男も神咲に近付く切っ掛けにはなるかもしれないと、僅かな可能性を選んだのだ。

「ごめんね、格好悪い所を見られちゃったな」

一見夜の街で働いていそうな印象の男は意外にも親近感のわく、柔かな口調だった。しかし近付けば近付くほど、彼の持つ大人の男の雰囲気が濃くなっていく。艶のある黒髪は綺麗にセットされ、一目で高価なものだと分かるダークスーツには皺一つない。磨かれた革靴が床を踏むたびに、聞いていて心地よい乾いた音が反響する。黒くスタイリッシュな眼帯が右目を隠しているが、それすら彼の魅力を引き立てるひとつの小道具となっていた。
「期間中は未成年者は無料だけど、大人の方は入場料が必要なんだ。向こうで払ってから、ゆっくり楽しんでいってね」
「ありがとうございます、この美術館の方ですか?」
「いや、僕等は期間限定のスタッフだよ。刀の展示中だけ、此処で働いているんだ。じゃあ僕は太刀の展示場所に戻るけど、良かったらまた声を掛けて。刀について詳しく知りたいならガイドが居るから、付けてもらうのもいいかもね」
じゃあまた、と彼が手を降れば子供たちも一緒になって手を振り返し、それを見てから踵を返して歩き出す。くるりと回った瞬間に首に掛けていた名札が躍り出て、プラスチックカバーのその中、やたら画数の多い漢字が男の名を示していた。
ぴんと正しく伸びた背を見送って、その姿が角を曲がり消えた後、ずっと黙り込んでいた歩美がようやくほっと息を吐いた。
「なんか怖いひとだったね」
「そうですか?優しくていいひとでしたよ!」
「うん、優しかったけど、あの人っていうより、この場所?……ううん、歩美の気の所為だと思う!」
「早くいこーぜ!」
「走らない、大きな声を出さない。約束できるかい?」
「はい!」

午後一時を過ぎ、コナン達しか居なかった美術館の出入口にも、段々と人が集まってくる。未成年者無料とあって、やはり多いのは小学生中学生、そして意外にも女子高生が一番多かった。半日授業を終えてそのまま来たのか、制服姿できゃあきゃあと騒いでいる。
美術館には相応しくないような、場違いとも思える、誰が格好いい、素敵、そんな黄色い声を聞きながら、コナンは白く鋭い刃の世界へと足を踏み入れた。


「ようこそ、期間限定刀剣大展示会へ。不慣れではありますが、皆さんのガイドとして御一緒致します。どうぞ前田とお呼びください」