夏の夜空、都市開発が進む現世ではまず見られないような絶景が広がっている。冷たい程に白く輝く月が、無数のきらめく光が、眠らぬ捌宮へと降り注ぐ。はくちょう座のデネブ、わし座のアルタイル、こと座のベガ。夏の大三角形はもちろんの事、南には赤くあやしげに光るさそりの心臓赤色超巨星アンタレス。星についてそう詳しくもない捌宮はただ無感情にそれらを見上げていた。これはある種の現実逃避であり、その逃げ先は満天の星空だろうが華やかに色を競う花畑だろうが、なんら変わりはない。
「あーるじ」
「主さん」
縁側に座る捌宮に声を掛けたのは蛍丸と愛染国俊。二人が近付くことで色濃くなったその香りにすん、と鼻を鳴らした。
「お酒飲んでたの?」
「うん。御手杵の部屋が凄い盛り上がってたから覗いてきたんだ。俺たちも一杯だけ貰っちゃった。初めて飲むお酒だったけど、なんて銘柄だったかな」
「すっげえ騒いでたぜ、何の祭りかと思った!あー、英語で書いてあったからなぁ」
そういえば、たしかに。りんりんと音を鳴らす鈴虫と共に、男達の賑やかな声が聞こえる。そんな事にも気付かなかい程に考え込んでいた事実に苦笑して、11桁の数字を握りしめた。たしかにそこにあるかさついた感触が、捌宮を悩ませる。
「部屋やばいことになっててよ、ナッツとかチーズ、爪楊枝なんかも散乱してんの」
「あの四人、すっかり出来上がってたよね。獅子王も興奮して御手杵のベースを解体し始めちゃってさ」
蛍丸の発言で捌宮の身体はがくりと崩れた。御手杵のベース、といえば練度上限突破した祝いに叶えられる範囲で願いを聞く、と言った際に強請られた、彼のお気に入りのもの。いったいどうしてそんなことに。いくら彼らの仲が良くても流石に怒るだろうに、そうしないということは御手杵もまた随分と酔っている。聞けば彼は彼で、飲んでいた酒の瓶に向かって楽しげに話しかけていたとか。残る二人も相当だったらしい。
……それはちょっと、見てみたかったかも。
「国行が動画撮ってたから今度一緒に見ようよ」
「つっても、飲まされて潰れるまでだけどな!」
自分もう動けませんわ、なんて真っ赤な顔で寝転がる明石国行を思い浮かべて思わず笑い声が零れた。
「やっと笑った」
「へ」
「主さん、難しい顔してたから」
猫のように笑う蛍丸と眉毛を下げる愛染、彼らのやわらかな手を取ってじいと目を見つめる。
「ありがとうね」
照れてほんのりと頬を染める二人が愛らしく、ちいさな体はすっぽりと捌宮の腕の中へ。ポカポカの暖かさが心地いい。
「…オレたちに出来ることがあったらんでも言ってくれよな!」
「主にしかめっ面は似合わないからね」
「うん。ありがとう」
「雅じゃない!!!!」
どこかで歌仙の怒鳴り声が響いて、本丸は静まり返る。三人は顔を見合わせて、誰からともなく笑い声をあげた。
「はじめまして、安室透です」
あの時、懐かしい声が名乗ったのは自分の全く知らない名前。それでも俯かせていた顔を上げればそこにあったのはやはり自分の思った通りの顔で。太陽を浴びた稲穂のように眩い髪、甘く垂れた深みある灰青。決して短いとは言えぬ7年の空白があったにも関わらず、浮かべる表情はまるで違うものの最後に見た時と大して変わらないことが分かれば相変わらずの童顔だ、と場違いにも笑い出しそうだった。名字こそ違うものだが、自分が告げた名前は本名。しかし髪の毛も随分と伸びたし、白藍は眼鏡を掛けている、彼は気付かないかもしれないな。なんて軽々しく考えていた自分を蹴り飛ばしてやりたい。
そう、彼は白藍ーーいや、神咲 まどかを憶えていた。それが判明したのは漸く獅子王と合流し、彼がやたら上機嫌にハムサンドを平らげた後。
「ありがとうございました、またお待ちしてますね。まどかさん」
きゅ、とわざわざ手を握って渡されたお釣りとレシート。白藍が女子高生2人に挨拶した際に素早く書かれたのだろう、レシート裏には11桁の数字があった。
別に気付かれたならそれはそれで構わなかった。なんせ7年ぶりの再会だ、電話でも何でも、語り合いたいとは思った。実際、白藍が仕事を終え、本丸での作業も終えた時、携帯端末を手に取ったのだ。しかし、番号を打ち込んでいくごとに白藍の胸に芽生えたのは、嬉しみではなく不安。
修了後、何も言わずに消えた自分を彼らはどう思っただろう。
突然審神者になって下さいと徴集され、当時は今よりもずっと情報が漏れることが危険視されていたために寮にあったものは全て処分され、本当に身一つで小さな小さな本丸へと渡った。2年間、現世とのやり取りは禁止で携帯端末も本部としか繋がらない。毎日死と隣り合わせの日々、そのうち彼らの連絡先すら忘れてしまった。
それでも、少しでも審神者の死亡率を下げる為に待遇は段々良くなり今では捌宮としても、白藍としても、現世へ帰ることは難しいことではない。警察学校時代のコネだってある、探そうと思えば探せたのに、どこかで恐怖があった。会えたとしても今何をしているのか、なんて聞かれたら答えることはできない。共に警察官になることを目指して努力してきた仲間達に今の自分を受け入れて貰えなかったとしたら。
甘ったれた考えに反吐が出る。幾度もの死の吐息から逃れてきた自分が、こんなことを怖がっているなんて。
微かに震える指で画面に浮かぶ数字をタップする。どうせ怒られる、それでも、彼はこんな自分と話すことを望んでくれた。
耳に当て、コール音を数える。1回、2回、3回、
『はい』
「……….えと、今日お会いした白藍です」
胸がどきどきと張り詰めてくるのを感じる、このまま爆発してしまいそうだ。少し声が固くなっている。相手にもこの緊張具合が伝わっているだろう。
『白藍?そんな名前の知り合いは居ないが』
「……神咲まどかです」
安室透の柔らかさなど欠けらも無い、電話の向こうにいる男は間違いなく彼だった。こちらの名は告げたのだ、同じだけ返して貰わなくては困る。
「私も、…安室透さんに掛けたつもりだったのですが間違えてしまったようで」
『言わなくたってわかってるだろ。…降谷零だ、その違和感しかない敬語もやめてくれ』
なんて失礼な言い草だ。非常に面白くないし、それを言うなら彼が演じる安室透は白藍の遥か上を行くーー、と言いかけて口を噤む。降谷がピリピリと苛立っているのには一言目から分かっている。今、余計につつくのはよろしくない。
「良いの?そんなに簡単に素性をバラして」
29歳の喫茶店アルバイト、探偵?なんの冗談。そんなふうに名前も職業も偽らなくてはならない部署なんてひとつしかない。
ーー公安。仕事は一切秘匿、完全秘密主義の警察裏組織。相手が誰であろうと、仕事内容が漏れ出すことなどあってはならない。それが例え同じ警察官であっても信用しないもの。
降谷は特殊任務捜査員として大きな組織に潜入しているのだろう。もちろん誰にも言うつもりは無いが、あまりにも簡単に名前を言う降谷が心配になる。そもそも、レシートだって。彼はあの場で見て見ぬ振りをすべきだったのだ。
『……七年間、消息不明だった同期を易々と見逃すと思うか』
「っ、」
一層低くなった声色に、息が詰まる。しまった、自分で自分を追い詰めてどうする。
『一体どこで何をしていた?どうしてお前の情報が何ひとつ出てこない、俺達が、俺が、…っ、どんな気持ちで!!』
ダンッ、降谷の怒声と共に鈍い音が端末から響く。まどかが想像していた以上に、その失踪は降谷に大きく傷跡を残していた。もっとも、後に続いた他の同期たちとの別れがさらに彼を苦しませ孤独にしていくのだが、今のまどかにそれを知る由もない。
「ごめん。…けど、今の仕事は言えない」
『…俺のは教えただろ』
「私が当てたんでしょ。……降谷も当てて見せてよ、自信ないかな?あ、そんな暇が無いか」
『残念ながら、もう少しで今の仕事が片付く。暫く休みも貰えるだろうし、昇格もあるって話だ。今よりも探しやすくなるだろうな、…楽しみにしておけよ』
警察学校時代、ずっと聞いていたあの自信に満ちた声。きっとそう遠くない未来、彼に暴かれる事となるだろう。彼はやると言ったら何が何でもやる。エベレスト級のプライドは諦めを知らないのだ。
「降谷が見付けてくれるまでは死ねないなあ」
あははと叩いた軽口に返事はない。また地雷を踏んだか。一体この七年間に何があったのだろう。気にはなるが、自分には答えられないのに聞くというのはルール違反だ。
『死ぬ危険がある仕事なんだな』
「んーさあね。まっ、安全安心とはいかないかな。あ、他の奴らは元気にしてる?誰か結婚とかした?」
『…今度、会いに行こう』
無理やりしぼりだしたように掠れた声に違和感を覚えるが、同期たちと再会を頭に思い浮かべてしまえばそんなものはどこかへ消えてった。
「うん、たのしみにしてる」
それから少し話し、後日また会う約束を取り付けられる。と言っても日にちや時間はまどかからの指定。捌宮としての審神者業も白藍としての監察も、そう休みに自由が効くものではない。少し考えて、近々審神者会議があることを思い出す。壱、弐、捌、拾の数持ちの最古参審神者で行う極短刀についてのもの。朝は会議があるが、昼ならは降谷に時間を割いても構わないと判断した。
「お願いがあるんだけど、その日は神咲まどかでも白藍でもなく、捌宮って呼んで」
『わかった。場所なんだが、俺の家でもいいか?流石に降谷零が外で堂々と話すのは良くない』
「あー、ボディーガードが一人入っても大丈夫なら」
『…どうにか外すことは出来ないのか?』
苦々しいく吐き出された言葉。捌宮からしてみれば一番の相棒でも、さすがに会ったこともない降谷は信用出来ない。
「あははー…、なんとかお願いしてみるよ」
国永、なんて言うかな。平野は会議が終わりしだい懐に入ってもらうとして、国永は……要相談。
「分かったら連絡するよ」
『ああ、頼む』
「じゃあまたね。おやすみ」
『……神咲、お前が生きてて良かったよ。おやすみ』
零された本音はまどかの胸の内にじん、と染み渡って溶けていく。通話修了の無機質な音が続いてもなお、まどかはそれを耳から離すことなく目を閉じたまま。
きっと、もっと早くに会うべきだった。
事情は分からないが、七年前には無かった降谷の弱さが垣間見えた気がした。