蒼穹に消える
マスターが、泣いていた。
もうすぐ日が落ちる薄暗い家の中。灯りも付けないでマスターは部屋の隅に小さく蹲っていた。顔は伏せていたので見えなかったが、ひっく、ひっく、と微かに嗚咽が聞こえたので、きっとその目は流した涙で赤くなっているのだろう。腫れて痛いだろうに、嗚咽は止まらない。
一体マスターがなんで泣いているのか、私には分からなかった。どこか体が痛いのか、それとも何かマスターにとってつらいことがあったのか。マスターの波導を読み取っても、ただただひどく辛い悲しい苦しい感情が流れてくるだけで、泣いている理由は分からなかった。せめてなぜ泣いているのか原因が分かれば、私が取り除いてやれるのに。大切な者が悲しんでいるのに、肝心な時に私の能力は役に立たない。
「マスター、」
何故泣いているんですか。何故返事をしてくれないんですか。私が無力だからですか。
ねえマスター、あなたが嬉しいと私も嬉しい。あなたが悲しいと私も悲しい。どうか、泣かないでください。
「マスター、」
もう何回めか分からない名前を呼ぶ。マスターは返事をしてくれない。ただずっと小さく震えているだけだ。マスター、マスター、耐えられなくなって私はマスターを抱きしめた。否、抱きしめようとした。マスターの体に触れる筈の己の手は、何に触れることもなくすり抜けた。
一瞬何が起こったのか分からなかった。なんどもなんども、マスターに触れようとしたけれどその度に虚しく空中を掴むだけだった。
なんで、どうして。呆然とその場に固まっていると、微かに聞こえてきたマスターの声。
「ルカリオっ……なん、で…」
なんで、しんじゃったの
私は驚愕で目を見開いた。死んだ…私が!?…はは、何を言ってるんですかマスター、私はここにいるじゃないですか。あなたの目の前にこうして立っているじゃないですか。ねえマスター、マスター、なんで返事をしてくれないんですか、マスター!マスター!!!!!
私はマスターの名を叫び続けた。その体に必死に触れようとした。しかし、いくら叫んでも、私の声はマスターに届かず、私の手はマスターに触れることはなく、何度も空中をもがいた。なんで、どうして。喉が裂けるのもお構い無しに私は叫んだ。吠え続けた。なぜ私は、なぜ、
そこで、脳裏に不思議な記憶が戻ってきた。そうあれは天気のいい日。私とマスターは散歩に出かけていた。数歩前を歩くマスターの背中を見つめる私。しかし次の瞬間、とても攻撃的な激しい波導を持ったポケモンがマスターの目の前に現れて、私はとっさにマスターの前に飛び出て ー
そこからの記憶が欠落していた。
しかし私は全てを理解した。
そうか、私はあの時マスターを庇って命を落としたのか。
「……マスター、」
ふわり、体が軽くなる。体の境界線が絵の具の上に水を零したように滲んで消えていくような感覚がした。
蒼穹に消える
(出来るのなら 次生まれた時も あなたのそばに、)