君さえ


プロローグ


 降り注ぐ日差しの温もりの中に、確かな冬の足音を感じる10月の終わり。
 深い海の底から陸に上がってまだふた月あまりの秋の中、男、ジェイド・リーチはひとりとある森の中に立っていた。

 学園長から許可を貰い、ナイトレイブンカレッジにある闇の鏡にこの場所の名を告げたのがつい数十秒か数分前のこと。眩い光を伴いながら展開された転移魔法に反射的に目を閉ざし、そして次に開いた時にはもう既に、自分の身体はこの場所に辿り着いていた。本当に魔法とは便利なものだ。公共交通機関を使っては半日以上かかってしまうだろう場所へも、こうしてたった一瞬で移動することが出来るのだから。

 ばさばさと頭上で鳥が羽ばたく音が聞こえる。ジェイドが転送された場所は、鬱蒼と茂る木々の中に、恐らくは人工的に生み出されたのだろうギャップの中だった。恐らくここが、転移魔法における言ってみれば『駅』のような場所なのだろう。
 ぐるりと巡らせた視界の中に映るのは、随分と高くに丸く切り取られた青空と、周囲を囲む木々の姿。高木に取り囲まれた林床部分であるものの、ギャップが形成されているおかげでジェイドの周囲は明るく、さらにはいくらか温かい。けれどもやはり人の気配は自分以外になく、自然の静けさだけがただただそこに落とされていた。
 深く根を張った樹木たちは、まるで世界からその奥底に存在する『何か』を隠そうとしているかのようにも見える。そんな彼らの姿をざっくりと観察するに、どうやらそれらのほとんどは同じ種類のものであるようだ。秋の中にも色褪せぬ青さで空を仰ぐ、平たい葉を持った常緑広葉樹。つまりこの森林は、純林と呼ばれる珍しい類の場所。これまでに得た陸の記憶を辿ってそれを理解するものの、流石にその名前までは分からなかった。
 息を吸って、吐く。もう肺呼吸にも随分と慣れたものだ。草木と土の臭いが入り混じった新鮮な空気が肺を満たしていく感覚に、何となく清々しい心持ちになる。

 ──ここは『紅蓮の森』。
 どこの国にも、村にも、集落にも属しはしない、完全なる中立地帯。

 暗く深いその森に立ち入る者は少なく、近隣の村では「凶暴なモンスターが住み着いている」だとか「一度足を踏み入れるともう二度と出てくることは叶わない」だとか、そんな物騒な噂もまことしやかに流されているような場所だ。
 まあ。実際この森は国をひとつやふたつぐらいならぺろりと飲み込むほどに広範な土地に広がっているため、後者については完全な噂話とも言い切れないが。

 はてさてそんな物騒かつ深淵なる紅蓮の森。時は学園の休日である日曜日の昼下がり。
 学生にとって非常に重要なその時間を割いて、何故ジェイドはそんな場所にひとり足を運んだのか。その理由は至極単純。

 この森に、ジェイドの『会いたい人』が住んでいるのだ。
 
 辿るべき道は存外すぐさま見つかった。
 直径十メートル前後の円を描いたギャップの一角。生い茂った草が周囲に比べて疎らになり、僅かに踏み固められた地面が細く森の奥へと伸びているのを見つけた。なるほど、どうやらこの道とも言えない道の向こうにジェイドの探すその人は存在しているらしい。
 学園長の言っていた「行けばすぐに分かりますよ」の言葉も存外嘘ではなかったようだと内心に頷いて、ジェイドはその道に向けて足を踏み出した。
 先ほどまでいたギャップの中とは違い、背の高い木々が四方へ枝葉を広げたその林床は、やはり昼間であっても薄暗く、そして空気もどこか凍てついていた。一層深くなった森の匂いに、ほんの少しだけ胸が弾むのを感じる。
 昨日か一昨日かは分からないが、近くそれなりの雨が降ったのだろう。重く湿り気を帯びた土に足元をからかわれながら、ジェイドはほとんど獣道も同義な道なき道をひたすらに歩き続ける。人を訪ねるために服装はきっちりと制服を着込んでいるが、足元は歩きやすいようにとスニーカーにして来たことは正解であったらしい。

 学園を出る前の自分の選択を褒めながら黙々と歩くこと10分弱。

 ふと、視界の隅に何かがちかりと瞬いた。それが何であるかを追い求めて、持ち上げた右足を地面につく。ぱき、と小枝が足裏に儚く崩れる音が響いた。
 薄暗さに慣れ切っていた視界に眩い光が移り込む。咄嗟に手のひらを目元へとかざし、瞳を細めた。一瞬にしてその眩しさにも順応した視覚が一番に知覚したのは、木々のそれとはまた違った鮮やかな緑の色。それが家屋の屋根であることに気付いてしまえば、後はまるで芋のつるを引き摺るようなもの。
 深い森の中、先程のギャップよりもさらに広く開けた場所に存在する平屋建ての一軒家。
 木製の建物に緑の三角屋根が乗ったそれは、森の中に馴染む色合いをしていながらもやはり無視できない存在感を醸し出していて。こんなに近づくまでどうして気づくことができなかったのだろうと考えるが、ここに住んでいる人についての話を思い出して、おそらくその姿を隠すような魔法をかけているのだろうと勝手に納得した。
 少し視線をずらせば、家屋の向こうに平屋建てのそれよりも背の高いガラス張りの建物の姿も見える。ナイトレイブンカレッジにあるものと少し似たそれは、季節や天候に左右されず植物を育てるための温室と呼ばれる場所なのだろう。
 先ほど瞬いて見えたのは、あの温室のガラスに反射した光だったらしい。
 そんなことを様々に考え、周囲へと物珍しげに視線を巡らせながらも、ジェイドの足が止まることはない。嗅ぎ慣れない植物の香りに足取りが軽くなるようだった。
 森を抜けたところから玄関前に至る枕木のアプローチを抜けて、玄関ポーチへと進む。左手に家庭菜園と思しき小さな畑を見ながら、静かに閉ざされた扉に向き合った。
 扉の左右にぶら下げられた一対のランタンは、昼間であるため消灯したまま曖昧に佇んでいる。どこかアンティーク調なそのふたつの内、向かって右側の物の下には、古風にも紐を引いて鐘を鳴らすタイプの呼び鈴がぶら下がっていた。
 それに手を伸ばし、捕まえた紐を躊躇も少なく下に引き下ろす。刹那、カランカランと鐘の音が周囲に響き渡った。これで本当に中の人に聞こえているのだろうかとわずかな不安が過るけれど、それも呆気なく杞憂に終わる。

『──……誰だ』

 鐘の音の余韻も消えて、そこからさらに数秒の沈黙。それらを経てようやくジェイドに返されたのは、どこからともなく聞こえたまだ年若い女性の声だった。魔法をふんだんに利用したインターホンの仕組みに好奇心がくすぐられるが、それを何とか抑え込み、ジェイドは完璧なまでの笑みを浮かべてその言葉に応えてみせる。

「こんにちは。リゼット・ヘリオトロープ先生のお宅でお間違いないでしょうか」
『……その制服、ナイトレイブンカレッジか』
「はい。ジェイド・リーチと申します。突然の訪問で大変申し訳ありませんが、貴女に少しお願いしたいことがありまして」
『……』
「加えて、こちらに学園長からの手紙も預かっております」

 肩に掛けていたトートバッグから取り出した黒い封筒を掲げてみせる。一体どこからこちらを見ているのかは分からないが、制服を判別できるのならばこの手紙の姿も見えるだろう。
 黒い封筒に記された差出人の名は、ディア・クロウリー。ナイトレイブンカレッジの学園長であり、今回ちょっとした『お話』の末にジェイドをこの場所へと送り出したひとだ。
 再び落ちた沈黙も、そう長く保たれることなく壊された。実行犯は、声だけが聞こえているその人のこぼした大きな大きなため息の音。

『……鍵は開いている。入れ』

 不承不承と言いたげな苦々しい声色で紡がれたその言葉に、ジェイドはその笑みを一層深く表情に刻み込んだ。

「ありがとうございます。失礼いたしますね」

 ひと言の断りを飛ばして、目の前の扉に手をかける。ドアノブ式のそれは声の主の言葉の通り鍵がかけられておらず、抵抗もなく開いて中へとジェイドを誘った。
 屋内に足を踏み入れてすぐにジェイドの視界に映ったのは、玄関の左手に置かれた棚にずらりと並んだガラス容器の群れ。よくある円柱状のものからフラスコのような形をしたものまで様々な姿をしたそれらの共通点は、その中に『庭』を孕んでいることだった。
 知識としてならジェイドも知っている、テラリウムと呼ばれる箱庭。
 底に敷き詰められた土と、7割ほどの緑と、その隙間を埋める様々な色彩。それら全てが、ジェイドの視界にはまるで宝石箱のようにきらきらと輝いて見えた。
 心が奪われ思わずいつまでも見つめてしまいそうになったが、今日の目的はそれではないと理性を働かせて必死にテラリウムたちから視線を外す。

 玄関から伸びる短い廊下を抜けると、そこには広く空間が取られた部屋がゆったりとジェイドを待ち構えていた。リビングともダイニングとも形容し難いその部屋の真ん中には、恐らく応接用と思しきローテーブルと、それを挟んで向かい合った一対のソファの姿。部屋の奥半分の壁は、一角を除いて床から天井までをびっしりと本棚に覆い尽くされており、まるで図書館か何かのような様相を呈している。
 廊下を抜けてすぐ左手の壁には両開きの重厚な扉がぴたりと口を閉ざしており、右後方にはキッチンと思しき場所が設けられていた。両開きの扉の反対側、かつキッチンの向こうにも廊下が繋がっているが、その先に何があるのかは分からない。

 ──ジェイドが探し求めていた人は、その空間の最奥に存在していた。

 ローテーブルとソファの奥、本棚と本棚との切れ目の中。廊下を抜けた先の、ほとんど真正面に存在する大きな窓。その窓辺に置かれた大きな木製のテーブルと可動式のチェア。
 テーブルの上やその周囲に乱雑に書籍や紙の束が置かれていることを見るに、恐らくそこが作業場とも呼べる場所なのだろう。そしてその証拠に、その人はジェイドの存在にも気づかぬままテーブルに向かって一心不乱に何かを書きつけているようだった。
 がりがりとペン先が紙面をなぞる音が聞こえる。その人の動きに合わせて揺れるひと房の長い緑髪の三つ編みが、まるで尻尾か何かのように錯覚された。

 開かれた窓の向こうから訪れた風が、白いレースのカーテンをふわりとはためかせる。

 刹那、ぴたりとその人の手が止まった。そして可動式のチェアがきい、と軋むような音を立ててくるりと回転する。こちらにしっかりと向き合うための180度ではなく、最低限の90度。それでもその人の姿は確かにジェイドの視界に映り込んだ。

「──すまないが今は少し立て込んでいるんだ。用件は手短にしてくれ」

 鼓膜を叩いた声は、先ほど玄関先で魔法越しに聞いたそれと同じものだった。
 研究用の白衣を身に纏った、まだ20代前後と思しき年若い女性の姿。
 きらりとその耳に輝いたピアスを飾る深い緑色の石は、きっと彼女のために拵えられた魔法石なのだろう。まるで森林をそこに閉じ込めているかのようなその色彩は、彼女の豊かな緑髪と白い肌によく映えていた。
 長い前髪と黒縁眼鏡の向こうに覗くのは、髪色と同じ。いや、それよりもいくらか明るいジェードグリーンの瞳。その鮮やかさと反比例するように濃く塗り込まれた隈の深さが、据わった瞳と彼女自身の纏った雰囲気のおどろおどろしさをより一層引き立てている。
 その姿にどうしてか覚えた既視感の正体は、勉強や実験のためにと三日ほど徹夜をした時のアズールの姿。なるほど。この人もあの幼馴染と同様に、目の前のことに集中すると寝食を疎かにしてしまう類の人種らしい。
 ワーカーホリック。いや、彼女の場合は研究中毒、スタディホリック、リサーチホリックと称した方が正しいのかもしれない。それが使命感や責任感から来るものではなく、あくまで彼女自身の好奇心や探求心から来ているものであるというのは善いことなのか悪いことなのか。
 そして、そんな彼女がこうして手を止めてまでジェイドの話を聴く姿勢を取ってくれているのは、ジェイドの持つ学園長の手紙があったからに他ならない。
 曲がりなりにもあの名門魔法士養成学校であるナイトレイブンカレッジの学園長であり、そのコネクションも様々に伸びている彼。そして、目の前の彼女もそんな学園長に何かしらの縁がある。だからこそ、その手紙を持ってやって来たジェイドを無碍にはしない。
 きっと、これがなければジェイドは玄関先で呆気なくお払い箱にされていたのだろう。学園長にはまた何かお礼をしなければと脳内に考えながら、ジェイドは再び隙のない笑みを作りあげてみせた。
 そして、怪訝そうにこちらを見つめている彼女へ向けて言葉を紡ぐ。


「はい。では手短に」


 ──彼女はリゼット・ヘリオトロープ。


「僕を、貴女の弟子にして頂けませんか?」


 この世界でも指折りの、優秀な植物学者である。


  ***


「──……は?」

 ジェイドの言葉からたっぷり5秒ほどを置いて返されたのは、これでもかというほどに顰められた表情と、一気に1オクターブほど低められた声。けれどもそれは、不愉快や怒りというよりは不可解や予想外といった感情を表現したものであるようだ。
 その証拠に、直後彼女がとった行動と言えばただ頭を抱えて大きなため息を吐いただけであって、決してジェイドを怒鳴りつけたり睨みつけてきたりすることはなかった。目付きがやや鋭く見えるのは、十中八九寝不足によるものだろう。

「……そういう類の話か……」
「おや、一体どういった類の話だと?」

 前髪を邪魔そうにかき上げて、リゼットはジェイドの問いかけに答えを返す。体重をかけて背中を預けたチェアがきい、とひっかくような音をたてて軋んだ。

「自分の書いた論文について論評を、だとか、前回の私の研究に対する批評が、だとかそのあたりだな」
「なるほど。残念ながら僕はまだ入学したての1年生で、論文を書いたり研究を批評したりできるほどの知識がないんです。貴女ほどの人ならば、僕以外にもこういった話を持ち掛けてくる人は大勢いるのでは?」
「そういった類の奴らは、残念ながら2年ほど前に全員まとめて切り捨てて以来お目にかかっていなかったんだよ。今日までな。君も聞かなかったか?」
「噂程度には。『リゼット・ヘリオトロープに弟子入りを志願した学生数十人が全員泣きながら追い返されてきた』と」

 彼女の下を訪ねてみたいと学園長に話をした際に、学園長から聞かされた話だ。
 2年前、『賢者の国』の国立研究所からひとり独立したリゼット・ヘリオトロープ博士の下に、植物学を専攻する学生たちが弟子にしてくれと殺到。けれど、その全員がリゼットから手酷い論難を受けて泣く泣く帰ってきたらしい。けれど、それはまあ、何と言うか。

「たった一度や二度厳しい言葉を浴びせかけられた低度で諦めるなんて、その人たちは随分と根性がなかったようですね」

 ジェイドの言葉にぱちりとリゼットの瞳が瞬く。そして次の瞬間、ゆるりと愉快そうな色を孕んで柔く細められた。それが、彼女が初めてジェイドに見せた笑みのかたちだった。

「まあ、所詮は他の学者のところで門前払いを受けたからと、年若く簡単に受け入れてくれそうな私のところへ妥協して駆け込んできただけの輩たちだ。私の出した課題への取り組みも疎か、簡単な面接でも話すことは耳あたりのいいありきたりな言葉ばかり。全く面白みの欠片もない奴らだったよ」

 その表情と声に宿るのは、嘲りも通り越した『無関心』。彼女にとって、彼らはもうすでにどうでもいい存在でしかないのだろう。その名前も、姿も、聡明で抜群な記憶力を持っているはずのその頭の中にはもう残されていない。
 彼女にとって、それらの全てはもう『興味のない』不必要な情報だから。

 ──リゼット・ヘリオトロープの世界には、2種類のものしか存在しない。学園長のそんな言葉が、ふとジェイドの脳裏に蘇った。


「……それで、君は?」


 窓の向こうにはこの家を取り囲む深い森の姿。カーテンを揺らした風が、リゼットの前髪をくすぐるように弄び、部屋の中に軽やかなステップを踏みながら消えていった。
 こちらを真っ直ぐに見据える翡翠を嵌め込んだ瞳が、まるでジェイドを見定めるようにきらりと光りを孕む。

 リゼット・ヘリオトロープの世界には、2種類のものしか存在しない。
 彼女の興味を惹くものか、そうでないものか。
 その在り方は、思考回路は、なるほど『研究者』という名に酷く相応しい。

 リゼットの問いかけにジェイドが答えを紡ぐ時間も与えられず、瞬きをひとつ落とした彼女の視線はすぐさま机の方へと戻された。手放されていたペンが再びその手の中に握りしめられ、かさりと紙の擦れる乾いた音が響く。

「先に言ったように、悪いが今は忙しい。ひとまず用件は把握したが、詳細を聞くための時間は割いてやれない。A4用紙1枚に私の下で学びたい理由をまとめて、また後日提出してくれ。ああ、ディア・クロウリーの手紙はその辺りに置いておけ。後で確認する」

 手元の書類、もとい研究資料に落とされた意識はもう既にこちらを認識していない。半ば来訪を袖にされた立場であるけれど、ジェイドがそれに気分を害することはなかった。むしろその切り替えの早さと集中力の高さに感嘆したほどだ。
 がりがりと再び流れ始めたペンと紙の音を聞きながら、ジェイドはにこりと笑ってみせる。
 まるで、物珍しく面白い玩具を見つけた子どものように楽しげに。

「はい、分かりました」

 誰にも届かない返答だけを落として、彼は手紙を手に部屋の中央付近に置かれたローテーブルの方へと静かに足を運んだ。


  ***


 ふ、とリゼットの意識が現実世界へと戻って来たのは、窓の外から最後のカラスの鳴き声が聞こえた瞬間だった。
 ゆるりと視線を持ち上げて目の前に佇む窓の向こうを見やれば、そこに広がるのはとっぷりと夜の闇に包まれた紅蓮の森の姿。首を傾けて見上げた空に広がっているのも、やはり夕焼けの橙を完全に飲み込んだ群青の色ばかり。
 机上の置き時計を見て、流石に日付までは越えていないことを確認しひとつ息を吐く。没頭していたのは昼過ぎからの約4時間程度だったらしい。研究に没頭しているうちに朝を迎えていることも日常的なリゼットにとっては、それはいっそ短いとも言える時間だ。
 とはいえ、手元の研究資料についてはまとまるところまでまとまっているし、後は明日以降の実験による結果次第といったところか。想像よりも随分と早くに今日するべきことが終わってしまったリゼットは、椅子に座ったままひとつ大きく伸びをした。
 明日以降の予定を頭の中に新しく組み立てながら、ぎしぎしと軋む身体に鞭を打って立ち上がる。ここ数日は次の研究のための調べ物やまとめ作業で机に噛り付いてばかりいたから、身体が随分と凝り固まってしまっているのだ。
 立ち上がった拍子に机の下に転がってしまったペンを拾い上げて、そう言えば昼間に学生が1人来ていたなとふと思い出す。研究に没頭するあまりぞんざいに追い返してしまったことを、もちろんリゼットは反省などしていない。リゼットにとっては一に研究、二に研究、そしてそれ以降も全てが研究であるから、それ以外に対しては基本的に『どうでもいい』のスタンスなのだ。自分の知的好奇心が満たされること以上に彼女が求めるものはない。
 あの噂を知ったうえで態々こんな偏屈な研究者の下に来るだなんて、随分と物好きな奴もいたものだ。ひとまず申し出をまとめて出直してこいとは言ったけれど、リゼットに弟子を取る気など毛頭有りはしない。教師の面をして誰かに知識を授けるよりも、今は自分の好奇心のままにただただ研究を続けていたかった。

 はてさて次に来た時に一体どうやってあの申し出を断ろうかと考えながら、リゼットはコーヒーでも飲もうとキッチンの方へ。──向かおうとした、のだが。

「……君、何故いるんだ」
「おや、今日のお仕事は終わりですか? お疲れ様です」

 作業机の後ろ。広く取った応接間兼作業部屋のど真ん中。ローテーブルに備え付けた一対のソファの、キッチン側。そこに見知らぬ──いや、外見自体には見覚えがあるのだが──男がひとり静かに佇んでいた。
 網膜を焼く鮮やかなターコイズブルーは、まだ何とか記憶の中に残されている、つい数時間前に見たものと確かに同じ色彩で。そのあまりの存在感に頭がくらくらと揺れた。

「……まさか君、ずっとここに?」
「はい。嘆願書を書いてお待ちしておりました」
「……また後日持って来いと言っただろう」
「言われましたね。けれど、ただ言われるがまま受動的に物事を為すというのはどうも性分に合わず……。ご迷惑とは重々理解しておりますが、こうした方が貴女には僕の誠意が伝わるのではないかと思いまして」

 どうでしょうか? なんて白々しく小首を傾げてみせる様は、ほとんど第一印象に近い認識の段階であっても、彼が『厄介な類の存在』であることを痛いほどにリゼットへと知らしめる。自分自身もまたその部類に入る人種なだけあって、彼が一体何を考えているのかもよくよく分かってしまった。

 ……この男、最低でもリゼットがその嘆願書に目を通すまで帰らないつもりだ。

 リゼット自身もかつて自分の思いを通すためにその方法を使った過去があるため、どうしたってそれに対して強くは物を申せない。どうともしがたい感情と言葉を煮詰めながら、一体何が彼をそんなにも急き立てているのだろうかと考える。とはいえ、その答えなんてたったひとつしかありはしないのだろうけれど。
 男の向かい側にあるソファに腰かけて、リゼットは彼を真っ直ぐに見据えた。

「どうして君はそんなにも私の弟子になりたがる? 言っておくが、私はただのいち研究者であって、決して教師じゃない。知識を切り開くことが仕事で、教えることは専門外だ。というか、ナイトレイブンカレッジにも優秀な植物学者が教師として勤めているだろう。そっちをあたればいいじゃないか」

 知識にしろ、研究にしろ、実験技法にしろ、全て学校の教師が教えてくれるはず。それをわざわざ研究一本で好奇心のままに生きているような研究者の下へやって来るだなんて、あまりにも非合理的ではないだろうか。
 そんな思いからリゼットは彼に考え直すよう求めるけれど、当の彼と言えば切れ長なその瞳をゆるりと細めるだけ。──と、そこでようやく、リゼットは彼の瞳が左右で異なる色を宿していることに気付いた。ヒトには珍しいヘテロクロミア。それに興味がいくらか惹かれはするが、けれどそれ以上の感情は湧かないまま。

「もちろん、僕も最初は学校の先生方に指導を仰ぎました。先生方もそれを温かく受け入れてくださったのですが……」

 尻すぼみになっていく言葉に合わせて、瞳がふと悲しげに伏せられる。
 その様子がどうしてか演技的に見えてしまうのは一体どうしてだろうか。
 そんな曖昧な感覚の理由も、続けられた彼の言葉にすぐさま理解させられる。

「好奇心に駆られてついミズビ草を塩酸に浸してみたり、カワアカネとマンドラゴラの根を一緒にすり潰してみたり、植物園の一角にミントを植えてみたりとしている内に『お前はもう手に負えないから他を当たってくれ』と言われるようになってしまいまして」
「爆発物に毒薬に他の植物を駆逐するテロじゃないか。君、何をやっているんだ? 1年生と言っていた言葉が正しければまだ入学して2ヶ月も経っていないよな?」

 正直その担当教員が自分であっても匙を投げるだろうラインナップに、思わずリゼットも頭を抱えてしまった。しかもそれらの内容──ミントについては覗くが──は、カレッジの3年生以降に学習するもので。もちろん本や文献を調べれば知識自体は得られるが、文献を調べ、さらには実行するなんていう行動力が何故カレッジに入学して2ヶ月足らずのいち学生にあるというのか。
 きっちりと着込まれた制服に、丁寧な所作と穏やかな物腰、そしてリゼットの目の前でにこにこと微笑んでいる学生の柔和な表情と声色は、一見すれば『優等生』とも呼ばれるに値するもの。──しかし、これは違う。

「陸の植物とその生態は僕にとってどれもこれも珍しくて、お恥ずかしながらつい好奇心が理性に勝ってしまったんです」

 照れ照れとしながらそう言ってみせる姿に、反省の色も後悔の色もありはしない。彼の口振りに少しの違和感を覚えたけれど、それにも今は意識が回らなかった。
 カワアカネとマンドラゴラの根を一緒にすり潰すことでできる毒薬については、まあ摂取さえしなければ特別何も起こらないため、よくはないがいい。
 けれど、ミズビ草を塩酸を始めとする強い酸性の液体に浸すというのは、ミズビ草の量にもよるが、下手をすれば教室のひとつやふたつが吹き飛んでもおかしくない程の威力を持った爆発を起こす非常に危険な調合であって。どんな文献にも『危険、絶対に混ぜるな』と書かれているはずのものを、目の前の好青年を装った男は嬉々として混ぜてみせた、と。
 そもそもで取り扱いの難しいミズビ草を1年生に使用させるに至った学校側の管理体制にも物申したい部分はあるけれど、何よりもそれを実行してしまった彼に頭が痛くなる。
 なるほど、優等生の皮を被った問題児とはこのことか。

「……君、見た目によらず随分とクレイジーだな」
「いえいえ。学生の時に『塩酸ではなく硫酸ならどうなんだ』と言ってミズビ草を硫酸に浸して実験室を爆発させた貴女ほどでは」
「おい待て、何故その話を知っている」

 男の口から飛び出してきた予想外の言葉に、リゼットは思わず食い気味の姿勢で彼に噛みついてしまった。
 それはリゼットが目の前の男と同じ年の頃、当時通っていた男女共学のとある学園で起こした事件のこと。とはいえ、それは放課後にリゼットがひとりで勝手に行ったことであり、軽傷を負ったリゼット以外の怪我人もなく、ただ学園の実験室が少々焦げ付いたりした程度に終わったため、それほど大きな話題にもならなかったはずの過去であるというのに。

「当時貴女の通っていた学園に勤めていたという先生が、今ナイトレイブンカレッジにいらっしゃるんです。その方から伺いました」

 あの小さな辺境の学園から名門ナイトレイブンカレッジに転勤とは、随分と大きく出世したじゃないか。なんて、顔も名前も忘れたその誰かに対する届かない皮肉をこぼす。
 この様子では、きっと好奇心に弱いリゼットがこれまでにやらかしてきた様々な事件についても全て調べ尽くされていることだろう。ちなみにカワアカネとマンドラゴラを一緒にすり潰すことも、ミントを植物園にこっそりと植えることも、リゼットは学生の時分に全て経験済みである。つまり、リゼットは彼のことを何ひとつ言えはしないのだ。

「そして貴女のことを紹介してくださったのもその先生です。同じ好奇心モンスター同士気が合うのではないかとおっしゃっていました」
「劇物同士が反発し合ってさらなる劇物が生まれるとは考えなかったのかその教師は」
「あえて中和の可能性に賭けてみたのでは?」

 つまりはこの好奇心モンスターの手綱を、元祖好奇心モンスターであるリゼットに握らせてみようという話だろうか。全く、本当に馬鹿げた迷惑な話だ。

「……はぁ、分かった。分かった。釈然としないところはあるし言いたいことも山ほどあるが、君と私の思考回路が多少似ていることも、君には何かしらの手綱が必要であることも分かった。ひとまず君の書いた嘆願書を読ませてくれ」
「ありがとうございます」

 素早く手渡された1枚のA4用紙を手に、そこに並んだ几帳面な手書きの文字を視線で追いかける。丁寧な言葉で連ねられた、彼がリゼットの下で学びたいと考えた理由たち。その中にふと、リゼットの意識を捉える一文が現れた。
 それにぴたりと視線を止めて、数秒の思考。

「……君は、海の出身なのか」
「はい。その点については学園長からの手紙にも記されているかと思います」

 返答の言葉と一緒に手渡された黒い封筒を受け取って、躊躇することもなくその封蝋を破り中から便箋を取り出した。白地に罫線だけが伸ばされたシンプルな紙面に並んだ文字列へ、再び静かに目を通す。重ねられた2枚の内の1枚目に、彼の言う通り、リゼットが一番に興味の惹かれた内容についての詳細が記されていた。

 ──なるほど。ディア・クロウリーと件の教師は、リゼットがこの事実に興味を惹かれると予測して彼をここへ送り込んだようだ。よく分かっているじゃないか。素直にそう称賛すると同時、相変わらず手口が姑息だなと内心に罵った。

 教師の方は、話に聞いた通りただ単純にこの生徒の扱いに匙を投げて彼をここへと送り込んだのだろう。けれど、ディア・クロウリーは違う。
 あの男のことだ。自分の学園の生徒を弟子に取らせて愛着を抱かせれば、リゼットの意思も変わり、『あの話』が前向きに進むとでも考えているに違いない。随分と甘く見られているものだと苛立ちが募るけれど、もちろんリゼットには思い通りに動いてやるつもりなどひとかけらもありはしない。

 ──精々思い通りにことが進まずやきもきとしていればいいさ。

 いつものくだらない内容が書かれた2枚目は意図的に無視して、リゼットはその視線を手紙と嘆願書から持ち上げ目の前の男へと向ける。

「珊瑚の海出身の人魚、か……」

 そこでふと思い出したのは、つい先ほどの彼の発言だった。
 陸の植物とその生態は、自分にとってどれも珍しい。それは確かに、生まれてからこれまでの時間を陸に生きてきた者が紡ぐには、いささか違和感の強い言葉だ。

「ふふ、興味がおありですか?」
「正直に言うと好奇心はとてつもなく掻き立てられるな。人魚の存在は知っていても今までお目にかかったことはないから、その姿かたちや生態には興味がある」
「──では、御覧に入れましょうか?」

 うっそりと細められた瞳に宿るのは、酷く蠱惑的な光。随分と取引慣れしたその様子は、まだ15、6歳であるはずのその年齢にはあまりにも似つかわしくなくて。

「……君、自分が見世物のように扱われていることに対して何も思わないのか」

 リゼットの言葉は、言ってしまえば『願いを叶えて欲しければ人魚の姿を見せろ』と脅しているようなものだった。それなのに、当の本人はけろりとした表情。そんな問いかけをしてしまいたくなるのも、仕方のないことだろう。

「おや、そのような気遣いをしてくださるとは。お優しい方ですね」
「流石に私ももういい歳だからな。学生の時ならどうだったかは分からんが、今はそれぐらいの倫理観はちゃんと持ち合わせているさ。それに、何より君はまだ学生。後々変な問題になっては私も困るんだよ」

 人魚と人間との間の溝は、今でこそそれほど険悪ではないにしろ、かつてはそれなりに様々な問題が巻き起こされていた。人間と比べると希少であり、さらには人間から見るとそれは不思議な見目をしている人魚を相手に下卑たことを考える人間というものが、残念なことにやはり一定数は存在してしまっていたためだ。
 問題の芽は早期に摘んでおく必要がある。変に陸や人間に対するトラウマや嫌悪を年若い人魚に植え付けてしまうことなど、流石のリゼットも望んではいない。
 けれど、リゼットのそんな懸念も結局はただの杞憂でしかなかったようだ。

「ご安心頂いて大丈夫ですよ。貴女がただ学術的な興味から僕の人魚姿を観察したいだけであるということは理解していますし、そもそも先に無理なお願いをしてしまっているのは僕の方ですから。──それを叶えて頂くために相応の対価をお支払いするというのは、当たり前のことでしょう?」

 ……なんて食えない子どもだろうか。
 まるで生粋の商人のような言葉を吐いて、それが当然でしょうとでも言いたげに彼は笑ってみせる。底の知れないその笑みに、脳内で警鐘が鳴り響き背筋が小さく震えるけれど、何を隠そうこのリゼット・ヘリオトロープという人もまた、どうしたって『普通』ではいられなかった人種に他ならず。
 目を覚ました好奇心の怪物を止めることは、もう誰にもできない。飢えた獣がどんな行動をとるかなんて、生まれたばかりの赤子でも本能的に理解するだろう。

「人魚の姿にはいつでも戻れるのか?」
「ええ。準備と場所があれば」
「……そうか」

 深い笑みと共にもたらされた彼の答えに、リゼットはひとつ頷いて席を立った。
 そうして向かった先は、部屋の壁を覆っている本棚の前。床から天井までほとんど隙間なく書籍の並んだそれを見上げて、彼女は顎に手を当てて何かを考え始める。
 数秒の沈黙の後、おもむろにその手を本棚へと伸ばした彼女は、どちらかといえば小柄なその背丈でも届く場所に収められていた一冊の本をそこから抜き取った。その中身を確認する様にぱらぱらと数ページを捲り、くるりと男の座るソファの方へと向き直る。

「課題だ。……そうだな、2週間後の日曜にするか。それまでにこの本の172ページに書かれている『ヤヅミバナ』について可能な限り詳しく、レポート用紙2枚以内にまとめてこい。1年生の授業でも使われるポピュラーな植物だから、図書館で文献を調べればいくらでも情報は出てくるはずだ」

 リゼットから差し出された本を受け取って男は笑った。聡い彼は、それが『試験』であることを一瞬にして理解したらしい。

「提出時に人魚に戻るための準備もして来い。場所は私が用意しておく」

 レポートの出来を確認した後、合格であればリゼットに人魚の姿を見せることを交換条件として彼の望みを叶える。
 それでいいだろう? リゼットは視線だけで彼に問いかける。

「──ええ、分かりました」

 うっそりと細められた瞳に宿った光の鋭さが、獰猛な肉食魚の姿を連想させた。
 彼が一体何の人魚であるのかをリゼットは知らないが、きっと観賞魚のような可愛らしいものではないのだろうと直感的に考える。そしてそれが正しい見解であるとリゼットが知るのは、それから丁度2週間後のこと。


 偶然か必然かと問われれば、きっとこの出会いは必然だった。
 混ぜ合わされてしまったふたつの劇物が、一体どんな化学反応を起こすのか。
 どんな結果を世界にもたらしてしまうのか。


 これは、その答えを辿るお話。



20200716

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