第3話
──見上げた枝葉の隙間からこぼれ落ちてくる陽光があんまりにも優しくて、眩しくて、私はそっと目を細めた。青く遠く晴れた空にひとつ大きな伸びをして、私は座り込んでいた芝生の上から立ち上がる。遠くから聞こえるのは、小鳥の囀る可憐な声。
そして、服についてしまった砂や葉っぱを払おうと手を持ち上げた、その刹那。
「 」
誰かが私の名前を呼んだ。
背後から聞こえたその声に、私は振り返って、
そして、……その人の名前を、
***
「──珠華さん、」
音を紡ごうと開いた唇が声を発することは叶わぬまま、私の意識は、私の名前を呼ぶその声によって急速に現実へと引き上げられた。
ぱ、と瞬時に開いた瞼の向こうから私の網膜を焼いたのは、木の緑でも空の青でもなく、リビングの方から差し込んできた光に薄く照らされた、天井のオフホワイト。
ぱちり、ぱちりと3度瞬きを繰り返してようやく、自分が夢を見ていたのだということに気付く。なんともリアルな夢だった。それが現実だと信じ込んでしまいそうになる程に。
──ただ、
上半身をむくりと起こして、視界に映った現実の世界を確かめた。
「ああ、起きられましたか。おはようございます」
真っ先に私の視覚を奪っていったのは、リビングに繋がる寝室の扉を開けてこちらを見つめている彼、ジェイドの姿。どうやら彼が声をかけて私を起こしてくれたらしい。
……と、そこでふと思い至る。
彼が私を起こしに来たということは、つまり。
「もうすぐ8時になりますよ。今日は確か朝番の日でしたよね。そろそろ起きて支度をしなくては、お仕事に遅刻してしまうのでは?」
まるで死刑宣告のように下された彼の言葉に、まだ寝惚けていた頭が一瞬にして叩き起こされた。呼吸が止まって、心臓が焦燥に跳ねる。
「ち、遅刻する……!!」
ベッドから飛び降りた私の姿に、彼がくすくすと笑っているのが視界の隅に見えた。ああもう本当に、この男はいい性格をしている。
朝番である今日の私の出勤時刻が8時半、通勤時間が徒歩で15分。そのため8時15分までに家を出なければ遅刻してしまうことも、15分あれば私が家を出る準備を終わらせてしまえることも全てを知ったうえで、彼は私を遅刻の不安に焦らせるためにこんなぎりぎりの時間に起こしに来るのだ。
彼を拾ったあの夜から、早くももう2週間余りの時間が過ぎた。それだけの時間を共にすれば、流石に彼というひとの特性にも気づいてくる。私がこれまでの時間から得た彼に着いての一番の学びは、──彼が実は計画的愉快犯であるということ。
今のこのどたばた騒ぎ──騒いでいるのは私だけだが──のように、彼は、私が彼を一方的に叱ったり非難したりできないような状況下で私を困らせ、そしてその姿を見て楽しんでいる節がある。いや、節どころではない。確実に楽しんでいる。
今日のこれも、私がもっと早く起こして欲しかったとぼやいたところで「すみません。目覚ましのアラームでも目覚めない程お疲れのようでしたので、可能な限り眠らせて差し上げたいと思って……」なんて何とも健気らしいことを、切なげな表情でいけしゃあしゃあと紡ぐのだろう。ああ、きっとそうだ。彼はそういう男なのだ。
「朝食、サンドイッチにしたので道中に食べられるように包んでおきますね」
洗面所へ駆け込む私の背中に、彼のそんな言葉が飛ばされる。有難いけれど、それを素直に喜べないのもまた事実。「よろしく!」とやや投げやりに声をあげれば、また彼の笑い声が小さく聞こえた。
本当に、手に負えない。
そう悪態を吐きながらも、腹を立てながらも、結局は彼を許してしまうのは、私がもう完全に彼に絆されてしまっているということの証明。つまり私に残された選択肢は、『諦める』のただひとつだけ。どうしようもなさすぎる。
顔を洗って、化粧をして、着替えて、彼から手渡された朝食の包みを手に家を出る。
「行ってらっしゃいませ」
「ん、行ってきます!」
──そういえば、夢の中で私の名前を呼んだあのひとは、一体誰だったのだろう。
そうして今日も、彼のいる私の一日が始まった。
***
「……え、金崎さん辞めちゃうんですか?」
平日のお昼時を過ぎ、お客さんの姿もまばらになった頃。厨房で作業をしていた際にふと店長から知らされたその言葉に、私は目を丸くした。
私の勤め先は、家の最寄り駅の近くにひっそりと存在する個人経営のカフェ。短大の頃のアルバイトからそのままの流れで正社員として雇ってもらっているその場所は、店長と正社員の私1人、そしてアルバイトやパートが数人という体制で経営されている。
駅に近く、かつ様々な会社のビルが近くに多いということで、ありがたいことに毎日それなりのお客さんが入るこのお店。お昼時や夕方などには満席になることも多いため、アルバイトやパートの手助けが必要不可欠となる。のだが。
「旦那さんが仕事で転勤になって、引っ越さなくちゃいけなくなったらしいのよ」
「ああー、それは仕方ない……ついこの間美沙ちゃんも受験勉強で辞めちゃいましたし、人手不足が深刻ですね」
パートの金崎さんに、高校生アルバイトの美沙ちゃん。常からあまり人数を雇わない少数精鋭派の弊店で2人がこうも短期間に辞めてしまうというのは、中々に大ダメージだ。
残されるのは店長と私と、大学生アルバイトが2人だけ。学生では入りにくい時間をサポートしてくれる金崎さんの存在には大変助かっていたのだが、これはどうしようもない。
「一応求人は出したり旦那の知り合いに探してもらったりしてるんだけど、最近はどこも人手不足だからねー……珠華の回りにいない? 他が入れないところに柔軟に対応できる人。人当たりが良くて接客が得意ならなお良し。新しい人が見つかるまででいいから」
やはり個人経営の店長というのは苦労が多いのだろう、どこか疲れの滲む彼女の様子に、これは唯一の正社員として役に立たねばと頭をひねる。知人、友人、様々な人の顔が頭に浮かんでは消えていくが、その中に条件に当てはまりそうな人はいない。
──そこでふと、あるひとの顔が私の頭に浮かんだ。
ああ、そうだ。何故最初に思い至らなかったのだろうか。これぞ灯台下暗し。人当たりが良くて、接客が得意そうなひと。私のすぐ傍にいるじゃないか。
ただ問題は、彼が了承してくれるかということと、あとは、
「どう? いそう?」
「……いるにはいるんですけど、ちょっと訳ありというか、なんというか」
「前科持ちとか?」
「いやそういうのではなくて。色々あって今私の家に居候? させてるひとで、悪い人では無いんですよ……何と言えばいいのか」
2週間ほど前から、道端で拾った名前以外のはっきりした素性を知らない男を居候させていて、そのひとにアルバイトを頼むことは出来るだろうけれど、履歴書などを書いてくれるのかは分からない。……いや、あまりにも怪しすぎる。頭の中にぼんやりと並べた説明文に、私は自らツッコミを入れた。
様々に問題はあるが、彼がカフェ店員に向いていて、かつ今のこの弊店の状況にうってつけな人材であるのは事実なのだ。しかし、そんなにも怪しさ満点な男を、私が信頼しているひとだからといって店に呼んでいいものか。
頭を捻らせる私の姿に、店長も不思議そうに首を傾げた。
「よく分からないけど……まあ、珠華が良い人だっていうなら大丈夫でしょ。履歴書とかも要らないから、とりあえずその人に話だけ通してみてもらえる?」
その信頼は一体どこから来るのだろうか。信頼されるのはありがたいが、そうも手放しに言われてしまうと少し落ち着かなくなってしまう。
「良いんですか、それで」
「まあ大丈夫でしょ。もし快諾もらえたら、面接だけするから都合良い時に来てもらって」
色々と思うところはあるが、店長が良いと言うのなら私が断る理由はない。
ひとまずは彼に相談だけしてみようか。
彼は一体どんな反応を返してくれるのだろう。カランカランと来店を知らせるベルの音に答えながら、私はそんなことをぼんやりと考えた。
***
「カフェでアルバイト、ですか。構いませんよ」
夜。朝番で帰宅の早かった私は、彼の作ってくれた夕食のカルボナーラをフォークでつつきながら、昼間に店長と話していたその内容を彼に打ち明けた。
すると、彼から帰ってきたのはふたつ返事のその言葉で、あまりの呆気なさに、逆に私の方が驚いてしまった。まあ、断られる予感はあまりしていなかったのだけれど。
「え、ほんとにいいの?」
「僕でお役に立てるのならば、全力を尽くしますよ。ただ、履歴書などは用意できませんが……」
「ああ、うん、それは大丈夫。面接だけ受けてもらえたら」
そうと決まれば、早速明日にでも彼を店へ連れて行こうか。食べ終わった食器をキッチンへ運んでいく彼の姿を見て、ふと思う。
毎日彼を見ているため、今でこそ私もその容姿の美しさに慣れたが、はてさてこの高スペック男がカフェで店員をするとなると、──うん、もう何も考えないことにしよう。脳内にふわりと浮かんだ光景を振り払うように、私は頭を左右に振った。
そんな私の想像が現実になったのは、その3日後のこと。
日曜日のお昼時。世間が休日であることも相まって、やはり週に一度のその曜日には、このカフェも平日以上に多くの人で賑わう。
特にお昼時からおやつ時にかけてはそれが顕著で、今日もそんな普段の例に漏れず、満席御礼という店側にとっては何とも有難い状況だ。……ただ、今までの『普段』と違う点を挙げるとすれば、それはどう考えてもただひとつ。
「すみませ〜ん、注文いいですかぁ?」
「はい、お伺いいたします」
4人掛けの席が4つと、2人掛けの席が3つ、そして食器や料理の出し入れをする一角を除いたカウンターに1人掛けの席が4つ。計26席が用意されたこの店中。
本日その約9割を占めているのは、若い女性のお客様ばかり。普段はどちらかというと家族連れや学生、サラリーマンなどが多く来店するこの店にとって、この光景はかなり珍しい部類に入る。
こんな状況を生み出したのが一体誰であるのか、もう何も言わずとも分かるだろう。
「いらっしゃいませ、」
「ここだよここ、今噂になってる超イケメンがいるカフェ!」
「あの、お席に……」
「どこどこ、どこにいるの? あ、あの人じゃない!?」
ホール組が揃って手が塞がっていたため態々厨房から接客に顔を出した私の姿も声も、イケメンを前にした彼女らには届かない。やはり最近のトレンドは恋とイケメンに一直線な肉食系女子らしい。知らないけれど。
高い背丈に目を引く色彩を宿した彼の姿は、混雑した店内でもすぐさま見つけられてしまう。現に私が今応対している彼女らも、一瞬で彼を視界に映し黄色い声をあげた。いやはや、カフェの制服である黒のシャツに黒のズボン、そして黒いエプロンという黒ずくめの状態だというのに、彼はどうしてあんなにも目立ってしまうのか。
流石にこのまま出入り口に立たれてしまうとこちらも困ってしまうため、半ば強制的に席へとお客様をご案内する。背後では、オーダーに呼ばれた彼がどこかの席に近づく度に、きゃあきゃあと黄色い声が店内を満たしていた。
メニューとお冷を提供して、私は本来の担当である厨房へと戻る。すると、私がカウンターに辿り着いたとほぼ同時に、今日のアルバイトであるホール担当の男子大学生、皆瀬くんもまた、空いた食器を手にして帰ってきた。いつもは溌溂としている彼の表情にも流石の今日は強い疲れが滲んでいて、思わず同情の気持ちが溢れた。
「あ、珠華さん、お疲れっす」
「皆瀬くんも。今日は人がすごいね」
「ほんと、ジェイドさん効果やばいっすね、これ。俺がオーダー取りに行くとがっかりした顔されんの、気持ちは分かるけど超ムカつく。何とかなりません?」
カウンターの中から彼の渡してきた食器を受け取り、それを流し台で洗いながら、彼のこぼす愚痴にあははと苦笑いを浮かべる。
皆瀬くんのルックスも実際は普通より上で、普段は老若を問わず女性たちに愛されているのだが、やはりあの化け物のような男が隣にいると現金な女性たちの視線はそちらに向いてしまうらしい。何とも非情な現実だろう。
「ジェイドがここで働き始めてまだ2日目なのに、噂が広まるのは早いね」
面接にやって来た彼を、店長が8割ほど外見一択で採用したのが2日前。早速彼がここで働き始めたのがつい昨日のこと。そして生まれたのが今日のこの有様なのだから、人の噂とは本当に油断も隙もない。
「確認はしてないっすけど、SNSに何か書かれたりしてるんじゃないですか? 最近はそういうの怖いからな〜」
皆瀬くんの言葉に、私もなるほどなぁと首肯する。そう言えば、そんなツールも世の中には蔓延しているのだった。
お冷のピッチャーを手に店内を回っている彼の姿をカウンター内から視界に映し、確かにあんな美形がカフェで働いていたらSNSに投稿もしたくなるよなぁと心の中に呟く。何とも恐ろしい世の中だ。
「てか、ジェイドさんってほんと何者? 普通イケメン店員目当ての来店客なんて注文もろくにしないくせに長く居座る喧しいだけみたいなものなのに、昨日今日のオーダー数に回転率、やばくないっすか?」
オーダーが落ち着いているホールを確認し、皆瀬くんもカウンターの中へ入って溜まっていた食器やトレーなどの片付けを手伝ってくれる。お調子者でおちゃらけた面が良く見られる彼だが、案外ちゃんと周りを見て必要なことをしてくれる優秀な人材だ。実力主義の店長が彼を手放したがらないのもよく分かる。
そんな彼の言葉に私が思い返すのは、昨日今日で私が目にしてしまった彼の巧言令色と人心掌握術のレベルの高さ。お客様の心を掴んで、優しく、それでも律するべきところは強く一線を引いて対応する彼の接客は、まさにプロのそれ。彼目当てのお客様からオーダーを途切れさせることはなく、そしてある程度の時間の滞在を過ぎれば次のお客様のためにとお帰り願う。怒りや不満を一切煽ることなく、だ。
あまり賑やかな店内を好まない店長がこの状況を看過している、いや、むしろ喜んでいるのは、彼が持ち帰ってくるこの店への利益があまりにも大きすぎるからだろう。
彼の働きぶりを見た昨日の店長から「良い仕事したよ珠華!」と今までにない程の笑顔で感謝されたことを思い出し、乾いた笑いがこぼれてしまった。何とも複雑だ。
「うーん、学生時代にカフェで働いてた、みたいなこと言ってたけど。どうなんだろ」
「そん時に特殊な訓練でも受けて来たんですかね〜?」
「あはは、かもね」
私が洗ったグラスを彼が拭いて、収納棚に戻していく。
彼の経歴は相変わらず謎のままだ。ただ、今回の出来事を通して、ひとつ彼についての情報を得ることが出来た。それは、彼が26歳で、私の1つ年上であったということ。
店長に聞かれて特に何の躊躇もなく答えていた様子からして、やはり隠していた訳ではなかったらしい。ちなみにそれに対する私の反応は、胸にこぼした「そうなんだ」のただひと言。驚きも特になかった。
そう、蛇足ではあるが、私が彼と同居していることは店長以外には伏せている。まあ、隠したところで、という部分は確かにあるが、まあ大っぴらに話すことでもないだろうと考えたためだ。今のところ、ここでの私と彼はただの知人同士となっている。
「はー、顔が良くて背も高くて仕事も出来る。とんだハイスペック男っすよ。軽々とハードル上げていくのほんとやめてほしい〜〜〜でもかっけ〜〜〜!」
男性の社会もなかなかに複雑なようだ。嫉妬と憧れの板挟みになっているらしい皆瀬くんのうめき声に、思わず笑いがこぼれてしまった。
と、そんな風に手を動かしながら彼と談笑をしていれば、ふとホールにいたジェイドがこちらへ向けて足早に歩いてきた。その手には伝票を持っているため、恐らくオーダーが入ったのだろう。
「珠華さん、こちら3番テーブルの方のオーダーです。それと皆瀬さん、お帰りのお客様がいらっしゃいますので、お会計をお願いしてもよろしいですか?」
この店では、1週間以上の勤務を経ないとレジに触ることを許されない。それを遵守して声をかけてきた彼に、「はいはーい」と軽い返事を残して皆瀬くんはレジへと駆けて行った。残された私は彼から伝票を受け取り、軽い労いの声をかける。
「お疲れさま。すっごい人気だね」
「ふふ、ありがたいことに。やはりこの地域にはお優しい方が多いですね」
慇懃に胸へ手のひらを当てて謙虚な言葉を吐いているが、内心では一体何を考えているのか分かったものではない。
今も多くの席から顔を赤く染めた女性たちが彼を見つめているというのに、当の彼はこの静かで澄ました表情。きっと中には彼のルックスや甘いマスク、そして優しい言葉遣いに淡い恋心を抱いてしまった人もいるのだろうに。
なんとも罪作りな男だ。いつか恨みを買って刺されたりしなければいいけれど。
私は胡乱な瞳で、再びテーブルに呼ばれてホールへと戻って行く彼の背中を見送った。
……それにしても、彼はやけにああやってホールで接客をしている姿が似合う。まるで熟練のスタッフのように、ずっとそこに存在していたのだとでもいうように。
彼は接客業に向いていると、確かに前々から思っていた。けれど、彼が働いている姿を見たのは昨日が初めて。それなのにこんなにも、──そう、いうなれば既視感のようなものを感じてしまうのは、やはり彼の実力によるものなのだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えながら彼の背中を眺めていた、その時。
「……なぁに、やきもち?」
「うわっ、店長」
突然背後から肩に手のひらを置かれ、びくりと肩が跳ねる。肩越しに顔だけをそちらへ向ければ、そこにいたのは厨房の奥で何か作業をしていたはずの店長の姿。にやにやと愉快そうな嫌な笑みと、先の言葉に彼女が何を考えているのかもすぐに分かった。
「って、なんでそうなるんですか」
「いやぁ、だって彼、今は珠華と一緒に住んでるんでしょ? 恋人ではないって言ってたけど、実のところどうなの? そういうのはないの?」
「そういうのってどういうのです……? 何もないですよ、ただの家主と居候ですから」
私の返答に、なんだぁ〜とつまらなさそうな声をこぼして、店長は私の肩からようやく手を離してくれた。自由になった身体で、手に持っていた伝票を店長に叩きつける。オーダーはドリンクがふたつにフードが3つ。ドリンクは私の担当だ。
「私があんたならもう唾つけて手もつけてるよ、あんな好物件。逃がさないようにちゃんと捕まえとかなきゃダメよ〜?」
余計なお世話だ。厨房の奥へと戻って行く店長をひとにらみして、私はドリンク作りに取り掛かった。エスプレッソがひとつに、ミルクティーがひとつ。まずはミルクティーから用意しようと、茶葉に手を伸ばす。
全く、店長ときたらあんなにも優しい旦那さんがいるというのにイケメンには目が無いのだから。それに、恋愛話にも敏感ですぐ全ての話をそちらへ持って行ってしまう。私も彼を紹介して以来ずっと彼女からの追究に追い回され、頭が痛い日々を送っているのだ。
用意できたエスプレッソとミルクティーをカウンターに出せば、丁度近くに戻って来ていたジェイドが歩み寄ってきて、そのトレーを受け取ってくれる。
彼を見上げるこの角度に身体が慣れてしまったのは、一体いつからだろう。じっと無言で彼を見つめている私に、彼が小さく首を傾げた。
「どうされました?」
いつもの表情。優しい瞳に、穏やかな笑み。胸がくすぐったくなるほどのその温かさに、じわりと心臓が震えた。込み上げてきた言い表せない感情を飲み込んで、私は答える。
「ううん、何でもない。あと15分したら休憩に入っていいよ」
「分かりました。ありがとうございます。──貴女も、少し疲れているようだ。無理はなさらず、ちゃんと休憩を取ってくださいね?」
するりと彼の手の甲が、指の背が、私の頬を撫でるように掠めていった。突然のことに言葉も呼吸も失ってしまった私には、ただただ何処か心配そうな彼の表情を見つめることしか許されない。
呼び声に応えてすぐさまホールへ戻って行った彼と、その場に残された私。
ようやく思い出した呼吸を深く深く繰り返し、どくどくと喧しい心臓の音を何とか治めようとする。這うように頬に集まって行く熱を何とか発散しなければ、と手のひらを頬に当ててはみたけれど、その手のひらも熱く火照ってしまっていて意味がない。
ああもう、本当に!
カウンターの中から、ホールに立つ彼を睨みつける。
穏やかで丁寧な物腰であの微笑みと共に女性たちの接客をする彼の姿に、何故か頭に響いたのは先程の店長の言葉。
──やきもち?
「……そんなのじゃ、ない」
ぽつりとこぼしたその小さな声は、誰に聞かれることもなく、賑やかな店内に溶けて消えていった。カランカランと、また来客を知らせる鐘の音が鳴る。
日曜日は、まだ終わらない。
2020.04.23
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