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劈くような蝉の鳴き声が体感温度を上げる茹るように暑いある8月の午後。扇風機の生み出す生ぬるい風に当たりながらも、わたしは縁側で高い高い青空を見つめながら、額に流れた一筋の汗を首に下げたタオルで拭った。じんわりと体に纏わりつく暑い空気が気持ち悪く感じる。

1ヶ月前、父が亡くなった。
と言っても血の繋がりのない義理の父親で、両親のいないわたしを18歳になるまで男手一つで育ててくれた人。凄く豪快な人で、最後まであの人らしく死んでいった。

何か縁があった訳ではなかったらしい。父は「お前は橋の下で拾ったんだ」なんてよく言っていた。子どもを騙す大人の悪ふざけだと思われるけど、わたしは案外本当なのかも知れないと思っている。なぜかと言うと父はあまり嘘をつけるタイプではなく、嘘を言おうとするとすぐにバレるから。実直な性格なうえに何よりも仁義や不正を嫌うから、この世の中にはあまり馴染めずにいたようで、父は仕事をせずわたしと二人で田舎の山奥にあるこの家に暮らしていた。とはいえ真っ直ぐな性格が功を奏して、近所のおじいちゃんおばあちゃんからは好かれており、野菜や日用品、たまにお肉なんかも差し入れしてもらっていて、生活の大部分は自給自足で暮らしていたから、生活は正直苦しかったけどなんとかやってこれた。いい加減だとかろくでなしだなんてたまに言われたけれど、わたしにとってはすごく立派で尊敬できる人だった。

いつもわたしを猫可愛がりしていて、色々な知識を教えてくれて、側で優しく見守ってくれた。そんな父が急に居なくなってしまった悲しみは未だ抜けない。これからどうやって生きていけばいいのかも分からないままなのに、残酷に平等に時は過ぎて行く。いつも悲しい時は側に居てくれたのに。寂しい時は笑わせてくれたのに。今ここに、父は居ないんだ。…父に、会いたい。
お葬式をしたときに近所の叔母さんからは1週間も経てば少し落ち着くわよ、なんて言われたけれど、もう1ヶ月も経つと言うのに涙はちっとも枯れない。少しでも父のことを思い出せば、すぐに流れてきて止まらなくなってくる。さっきは汗を拭いたタオルで今度は目元を覆った。

父がいないにもかかわらず、世界は変わらなくて、夜が過ぎればまた新しい朝が来る。
まるで初めから父が存在していなかったかのようで、時の流れを恐ろしく感じる。いつか、忘れてしまう時が来るんじゃないか。そんなことを考えていたら怖くて何も出来なかった。
でも、いつか必ずお別れの時は来る。築ウン十年というこの古い平家も老朽化が進んでしまい、この家に住み続ける事が難しくなった。立て直すか取り壊せと行政から迫られて、立て直すお金もないわたしは、この18年父と住み続けてきた思い出の詰まった家ともお別れしなくてはならない。神様は残酷だなぁとつくづく思う。

今日は父が残していった遺品を整理しようと家を片付けていた。収集癖があったのか、家の中は物で溢れていた。日用品から嗜好品、ガラクタまで。様々な物で埋め尽くされたこの家の中を片付けるのは至難の業だ。一体何年かかるのやら。そんなことを考えながら、押入れの奥の方から父のものらしき箱を取り出して、開けた時だった。


「………ん、?写真…」


ふちがボロボロになった古びた写真が、中に一枚だけ入っている箱を発見した。普段はガサツで色々なものをそこら辺に散らばしておく癖に、この写真だけはやけに厳重に保管されていた。それに、文明の機器が苦手だからなんて言って写真などあまり撮っている様子も今までなかったのに。写真が取ってあるなんて、ものすごく珍しい。パッと見ただけでも大事に保管されているものだと分かるのに、はたして故人の大事なものを覗いていいものなのか一瞬戸惑った。しかも、こんな風に仕舞っておくほどなのだから、きっと大事な思い出としてとっておいてあるものなはずだ。でもやっぱり大事なものほど受け継ぎたい気持ちもあったし、何より好奇心には勝てなくて、わたしはその写真を手に取った。印刷部分はだいぶ擦り切れていて、ぼんやりとしかその様子を見ることが出来なかった。それでも薄目でじっくりと見つめると、何となく輪郭だけは認識できた。

どうやら若かりし頃の父と、誰かが映っているようだ。
若かりし頃の父は普段もよく被っていた帽子に似たものを被っていて、わたしの知ってる満面の笑顔で写真に写っている。そしてその隣には、オールバックの髪型をしていて、あご髭が生えた眼鏡の男性が笑っている。


「…友達、かな……?」


あの一匹狼の父に、友達が居たとは。しかも、こんなに肩を組んで満面の笑顔を見せるほどに心を許している友達が。
今までの18年間の中で父が誰かと遊びに行っている様子は一度も見たことがなければ、父を訪ねてきた人も誰一人としていなかった。人付き合いが苦手な父の事だから友達も居ないんだろうと勝手に思っていた…けど、もう少し若い頃はちゃんと人並みに暮らしていたんだなと思うと、何だか安心を覚えた。でも、この人たしか葬儀にはいなかったよな…親友だったなら、父が亡くなったこと、教えてあげた方がいいんだろうか。もし会えたとしたら若い頃の父のこと色々聞きたいし…とはいえ、この人の情報何もないしなぁ。何か名前とか大まかな住所とかが載ってないかな。ふと写真を裏返して見る。

…まぁ、そう簡単にうまいこといくわけないか。
写真の裏地は真っ白で、何かが描かれていた訳でもなく、写真に写っている人物の顔がはっきりと写っている訳でもない。相当年季の入った写真だし、あの父が丁寧に何か残すとも思えないもんなぁ。残念だけど諦めるしか…そこまで考えて、少し昔のことを思い出した。
そういえば、わたしが9歳のころ。夜中にトイレに行きたくなって起きて、自分で用を済ませて帰りに居間を何気なく見ると、電気のついているなか父が何かをしていたのを見た。わたしの方から見て背を向けるようにして座っていたから何をしているのかまでは分からなかったけど、何やら手に何かを持ってジッと見つめているような様子だった。あの時、確か父がボソッと人の名前のようなものを呟いていた様な気がするんだけど…何だったっけ。
首を捻り、必死で思い出そうと唸りながら写真を見つめて立ち上がる。

バキッ

よそ見をしていたからか身体のバランスを崩して一瞬押入れに倒れる形で手を付くと、何かが尋常じゃない音を立てる。反射で音のした上の方を見上げると、押し入れの棚が老朽化の影響で腐りつつあり、そこにわたしのダメ押しが効いたようでバッキリと割れていた。上の段に積んであったものはバラバラと落ちてきており、その中には父が何か物を弄る時によく使っていた工具箱があった。

あ、ヤバい。あれ重いのに。頭に当たったら死ぬかも。

重さも相まって物凄いスピードで工具箱が落ちてきているはずなのに、呑気にそんなことを考えていた。恐らく死を意識した局面だからなのか、いまわたしの目には全てがスローモーションに見えていて、余計なことばかりが頭の中を駆け巡る。わたしが死んだら孤独死になるんだなぁとか、庭の野菜収穫するの忘れてたなぁとか、いつも庭に遊びにくる野良猫はわたしが餌をあげなくてもちゃんと生きられるかなぁ、とか。きっといま足を一歩でも動かしたら最悪の事態は免れるはずなのに、身体はピクリとも動かない。怖いとかきっと痛いとか、そういう思考にすらならずに工具箱をジッと見つめていた。もしかしたら、わたしもどこかでずっと「死にたい」と思っていたのかもしれない。

ゴン。
鈍い音を立てて、工具箱は思った通り頭に直撃した。くらっと歪んだ視界に耐えられず、その場に倒れこむ。頭から暖かい何かが垂れた感触があり、震えて上手く動かない手をなんとか患部に添えると、ぬちょっとした上手く表現できない触感がする。その手をゆっくりと見ると、見たことのない大量の赤黒い血液が付いていた。
あぁ、そうか、死ぬのか。そんなことをぼんやりと考えていた。頭の中はやけにクリアで気持ちも凪いでいた。程なくして腕には力が全く入らなくなり、そのままパタンと床に落ちる。離れゆく意識の中、思った事はただ一つ。

これで、父に会いに行けるー…

23.07.22