「恋」はぬホタルは言葉を焦がす

「俺達もさ、別に、踏み出したっていいと思うんだけど」

どう?

煙のにおいと、独特のにおいと、舌に残る後味と。賑わう周囲の音が一瞬だけ遠くなってすぐに戻る。目の前で小首を傾げた筈の奴は、なんと椀と箸を持ったままだ。かくいう私も銀のトングを持ったまま。

ーー講義がだるい。バイトも面倒。先のことを考えるのが嫌になる。何もせずに眠っていたい。同時に、眠っていると不安になる。季節の一つや二つが過ぎてしまえば、いつの間にかこの状態を脱せているような、きっと深刻な鬱だとかそういうことではなくて、どこか五月病と名指される時に似た気分の落ち込み。けれども確かに今日、私は、とてもしんどい夏の始まりを迎えていた。

「次のバイト、いつだっけ」

今日まで追われていた期末のレポートは、とりあえず、文字数については問題ないだろう。内容の精度は気にしていない。万作辺りに聞いたら怒られてしまうのだろうが、今更だ。不可でなければなんだろうと構わない。そういえばこのレポートの件で連絡したのに、一向に既読をつけない明日人は…今もサッカーしてるんだろう。馬鹿みたいに暑いのに、とんでもない。

さて、バイトの確認ーーぱらりと開いたスケジュール帳を開く前に思い出す。明日から、三日くらいは休みなんだっけ。
何しよう。今年、テストのある講義はない。その講義もさっき、前期の課程を満了した。なんだ、面倒臭いと思うこと、大半は今日でしばらくおさらばだ。
かつり、サンダルのヒールが音を立てる。校外の白い階段が陽の光を反射させ、目や手足を焼くような錯覚。たぶん実際、焼けているのだろう。

課題も提出して、就活も終わって、明日から自由。あって良いはずの開放感はどこに行ったんだろう。代わりに胸に居座るのは、ふてぶてしい顔をした寂しさだ。

明日から、夏休み。だのに私のロクに開かれないスケジュール帳にあるのは、ただただバイトの時間と、たまに家族との用事くらい。連絡を取っているはずの友人達との用事がまるでない。色々とタイミングがあわなかった。例えば、のりかは恋人と旅行なんて行ってしまうらしい。こんなことなら就活をもう少し続けてもよかったかも。あるいは、そう、もっと日々が充実するように、先手を打っておくべきだったのだーー恋の話なんて、紫式部や夏目漱石、はたまた現代のラノベ作家に任せきりだった結果が今の私なのだから。

帰り道の暑さが憎い。蝉はまだまだ元気だし、夕方の日射しは、昼から続いて相変わらず脳みそを蒸発させようとしてくる。ぼんやり手に持ったまま、勿論ピクリともしないスマホ。周りの名も知らぬ学友達は、連れ立ってどこそこへ向かうという。妬ましいとは思わない。ただひたすらに気分が落ち込む。ああ、いい加減既読をつけろ明日人、レポートもう提出しちゃったけど見るくらいして欲しい。虚しくなる。何もないとはわかってもちら見してしまうスマホ。…はて。

目をやった先の、画面の上。通知ランプが、ちかちかしていた。
ああ、そういえば…講義中からずっと、マナーモードにしていたのだった。それでもさっきまでは何も無かったはずで、さて、何だろうか。

まず、明日人。
『ごめん、見てなかった!レポートって何時までだっけ?!今から出しに行く!』
返信ーー『今日の夕方、六時までに研究室のポスト。頑張って』。

もう一通、万作。
『レポート提出したか?明日人の奴が今慌てて走っていった』
返信ーー『大丈夫、私は出したよ。ありがとう。明日人は…頑張れ』。

確認の最中に、焼肉屋の公式アカウントからの通知。確認してみると、半額の抽選クーポンが当たっていた。そして下に小さく、二名様からご利用可能の一文。独り身に厳しくはないだろうか。

画面を消した所で、続け様に通知ランプが光る。明日人か万作からの返信だろうという予想は半分当たっていて、再度画面を開けば、一通は明日人から感謝スタンプ。それと新たに一通、氷浦から。

『◎、今日バイト?』

ーーどうしたんだろう。

『ないよ。帰って夕飯』

すぐに既読がつく。

『じゃあ暇?』
『まあ暇。そっちは何してるの?』
『明日人がレポート出しに行ったから解散して、今一人で歩いてる』

なるほど、三人でサッカーしてたと。揃ってタフなものだと感心してしまった。納得して数秒、『ねえ』と一言が送信された。一拍置いて。

『暇なら夕飯一緒に行こうよ。何か食べたいものある?』

私の方でも、少し間を置いて。

『なら焼肉行こう』

ーーとにかく暇で、一人でいるのがしんどくて、余りにも虚しい気分であったものだから、正直どうでも良かったのだ。とにかく誰かと居たかったから、誰の誘いでも二つ返事で出掛けたと思う。
でも、同時に、何も期待しない訳じゃなくて。今までは他にも人がいる場での集まりばかりだったから、こうして、恐らく一人で誘われたことに、期待しないと言ったら嘘だ。反対に、中学からのそこそこ長い付き合いで、今更何かある筈もないと冷めた考えもあったが、いずれにせよ、少しだけ浮き足立った状態になったのは間違いない。

クーポン対象の焼肉屋前で待ち合わせた。初めの連絡から少し経っていて、太陽は概ね地平に隠れた頃合。合流した氷浦の方は恐らく、時間までに家でシャワーでも浴びたのだろう。ちょっと良い香りがした。お疲れ様、と顔を合わせて、店の中へと足を進めた。
そこそこ混みあっている様子に、先に電話しておいて良かった、と氷浦が零す。全くもって同感である。せっかく来たのに入れなかったら悲しいことこの上ない。ご予約二名様ご来店でーす、元気よく声を上げた店員に案内されて無事着席。どちらもあんまりアルコールは頼まなくて、ソフドリのページから開く。

「烏龍茶ふたつでいい?」
「うん。肉何頼む?私タン塩食べたい」
「タン塩とカルビ二人前にしとこうか。あと豚トロと、ホルモンと、馬刺しとかある」
「今の全部一人前…あ、やっぱり豚トロも二人前。サンチュも頼もう」
「あとライス。スープ少し飲みたいんだけど、分けない?」
「たまごかワカメなら手伝う。あとライス少し分けて」
「了解」

浮き足立っていたのはどこかに飛んでいって、とりあえず先に一通り決めた。色気もへったくれもなく、わかったのはお互いかなりお腹が空いてるってことと、スープがたまごになったってことだ。机の上の端末を開いてメニューを注文する。一々人を呼ばなくても注文ができるなんて便利な物である。

「あー、今日も暑かった」
「三人とも、朝からサッカーしてたの?講義は?」
「俺と万作は水曜で終わった。明日人は知っての通り」
「羨ましいね。私もやっと今日で終わり」

真っ先に届いた烏龍茶で乾杯。
当たり障りのない話をしながら、他の注文が届くのを待つ。尋ねたいことはある。「なんで突然誘ったの」、「万作も一緒に居たんじゃないの」、エトセトラ。つまり、期待に浮つく気持ちに紐づいた疑問類。しかしながら、私にそれらを口に出すだけの勇気はない。真っ先に想像するのは大ハズレした時のこと。一人で勘違いしていたと相手にバレてしまう、その恥ずかしさといったら!

「◎、今年はどこか行ったりするの」
「今の所、全く。バイトくらいしか予定がない」
「そうなの?」
「そう。みーんな予定が合わなかった。聞いた?のりか、明日から彼氏さんと旅行だって」

注文が届き始めて、タン塩から網の上に。続いてカルビ、ホルモンと、各種少しずつ。ーーこういう時、氷浦に任せると完全に無言になるか、少々焼きすぎの物体が完成してしまうのを経験上知っているので、トングは私に任せてもらっている。一度トングを箸に持ち替えて馬刺しをつまむ。おいしい。タン塩も焼けたので取り分けて、レモンをかける。おいしい。

「氷浦はどうなの?夏休み」
「俺も、特には」
「サッカーするの?」
「うん。でも万作も海外旅行行くし、明日人も本格的にプロチーム入りの準備とかあるから…去年ほどではないと思う」
「サッカー以外になんかないの」
「んー」

一気に焼き出したせいか、冷房のきいた店内でも首筋が少し汗ばむ。食べ終わる頃にはまた肌寒くなるだろう。焼けた肉とご飯とを綺麗に咀嚼しながら、涼し気な容貌の氷浦の髪が揺れる。細い印象を受ける体で、雰囲気に似合わずよく食べる。なんとなしに見ると、筋張った手首や腕がある。男の子というか、男の人なのだなぁと再認識した。飲み込んだらしい氷浦が、ぽつと零す。

「こいびと」

はあ。
箸を一瞬取り落としそうになる。まじまじとその顔を見直した。驚くこちらに対して、顔色は変えずに僅かに首を捻って、恐らく言葉を考えながら、奴は肉を食べ続けている。

「作るって、なんかヘンだけど。恋人作る」
「夏休みに?」
「ダメかな」
「あー…うん…?ダメとかはないんじゃない?相手いるの?」

縦に振られる頭。唐突な話題転換に振り落とされそうだ。とにかく、浮かれた質問をしなくて良かった。つまりこの相談で呼ばれたんだろう、私は。明らかな人選ミスだと思う。そっと、でもしっかりとその旨をお伝えした。

「相談なら人選ミスです。私、知っての通り、独り身」
「そうだね」
「そういう話なら、のりか呼ぶ?それか小僧丸とかも彼女いるよね?」
「いい」
「えー、後悔しないでよ…あ、ごめん、サンチュ頼み損ねてた」
「キムチと一緒に頼んで欲しい」

あー、豚トロおいしい。箸を置いて端末から注文を打ち込み、そのままトングに持ち替える。空いた所に追加で豚トロを並べた。こういうのは食べられるうちに食べたいものを食べるのが良い。後になると胸焼けするのが目に見えている。そして間違いなく太るだろう。サッカーに混ぜてもらうべきだろうか。

さて、ざっくりお相手の情報と、夏の予定とをまずは聞き出して、そこから計画を立てていこう。身内、そう、友人としての贔屓目なしに、氷浦は顔もいいし性格も良い。むしろ今まで何故いないのかという話であるから、ぶっちゃけ困ることはないだろう。場合によってはすぐ終わる。この話が終わったら、ついでに私の分も、時すでに遅し感のある独り身脱出計画立案を手伝わせてーーああ。

「で、相手はどなた?大学の子か、バイト先の子か、それとも合コンでも行った?」

ーーああ、だるいなあ。勝手に少し舞い上がった分、その三倍は気持ちが萎えた。楽しい夏が始まる周りと比べて、私の楽しくない夏の始まりがとても惨めである。しんどい。寂しい、虚しい、今日だけで何度も胸を過った感覚だった。しんどい。なんでこうなったかなあ。こんな私だからこうなるのだ。原因は怠惰な自分である。ああしんどいなあ。すごく。

網の上で焼ける肉に、昼の日差しに焼かれた肌のことを思い出した。俯いてひたすらトングの先を見つめて、家に帰ったらさっさと化粧水をぶちまけることだけ考える。コッ。氷の溶ける音ですら、今はとても、耳障りな音でしかない。

ーー返事が来ない。肉なりご飯なりを口に含んだタイミングだったか。隣や奥や、そこかしこの席から流れてくる喧騒が恨めしい。今なら何にだってげんなりできる。みんなサンチュに包んで燃やしたい。
いい加減飲み込んで回答を寄越しなさいと、のろのろと目線を上げる。少し眉間に皺を寄せながら、ちょうどようやっと飲み込んだらしい、喉が動く様が目に入る。

「相手は」
「うん」
「◎」

ジジッとぼたついた油が炭に落ちて、一際焦げたにおいが強くなる。どこかズレたような回答を返しがちなこの男は、しっかり付け加えてきた。「今日誘ったのはそういうこと」、と。
ーー氷浦自身、自分がたまにズレているらしいという事実についてこの数年で少しばかりは自覚したことを私は知っていた。

「もういいかなって、思って」
「…………何が」
「もう、我儘はやめよう。始めてみないとわかんないよ」

前からーーだから、そう、短い付き合いではない。中学から縁は続いて、そして何も変わらなかった関係だった。少し前に成人してからも変わらなかった関係だった。お互いに共通の交友関係を持つから、それはそれは環境も似たりよったりで、ことある事に集まるものだから、趣味趣向を少しだけ理解している。見知らぬ他人よりは明らかに近くて、そのままで触れない関係だった。合間に期待を挟んでも、特に変わらなかった関係だった。

赤い肉をひっくり返す。届いたスープを小皿で分けている氷浦は、一体何を考えているのだろう。
私は何と返せばいいのだろう。

ーー相手がいて幸せな人のことを散々羨ましいと思っている。我が身の独りと、原因となる何もしない自分の怠惰を悔やんでいる。事実だ。でも、一部訂正する。そうですとも、私だって、機会がなかった訳ではなくて、お誘いを貰うことは、確かにあった。
ただ、なんというか、知らないことに触れるのが嫌だった。先のことを考えるのが嫌だった。だから今まで、自分から全部遠ざけてきた。実際に自分に機会が巡ってくると、恐ろしいくらい臆病風に吹かれるのだ。今もそう。

自分からは動けない。相手からの動きには期待する。で、いざとなると遠ざける。アホみたいに我儘を通してきた。氷浦も多分、それを知っていたのに。

「私なの」
「そっちだって知ってたでしょ、色々。俺、昔から好きだったよ」
「…うん…うん」
「怖がるの、やめよう。このままじゃ俺達、ただ終わっちゃいそうだ」
「お見通し過ぎない…」
「ずっと◎がいいなって思ってたから」

回答になっているかは別として、とにかく、たぶんというか、ほぼ知ってるんだろう。それだけの時間と機会はあった。ジリ、と、炭が焼けて崩れていく。焼けすぎた豚肉が茶色くなっていく。渡されたスープの取り皿で、たまごがゆらついた。豚トロの食べ過ぎか、胸焼けし始めたような気がする。

「俺となら、知らない同士だよ」
「ずっと独り身同士ってこと」
「そう。◎的には、他の人を選ぶより、その辺も考えるとかなり易しいと思う。絶対。試すなら俺がおすすめだよ」
「待って。プレゼンされてる?」
「してる。で、あとはほら、万作とか、のりかとか、いつもの皆も、何かしら進んでるだろ」
「そう、だね」
「周りに合わせるわけじゃないけど…うん。一人が嫌なら、俺達もさ」

顔色ひとつ変えずに、焦げかけの肉を回収しながら声を出す。いつもとまるきり変わらないトーン。
知っている。きちんと考えて行動に移している時の氷浦貴利名は、大抵こういう顔をしている。そうして口を開くのだ。

「踏み出したっていいと思うんだけど。どう?」

煙のにおいと、独特のにおいと、舌に残る後味と。賑わう周囲の音が一瞬だけ遠くなってすぐに戻る。目の前で小首を傾げた筈の奴は、なんと椀と箸を持ったままだ。かくいう私も銀のトングを持ったまま。

今までと変わらなくて、これから変わらなきゃいけない時間。しんどい夏の始まりか、手探りの夏の始まりか。選ぶにあたって、あと三パターン程はプレゼンを聞かせて頂きたいし、その間に、先程から焦げている肉の処理もお願いしたい。
ーー先程よりも、幾分か軽く。それでいて、心做しか怖々と遠慮がちな雰囲気で、氷の溶ける音がした。