この身をかざす炎の祭壇

神様がなぜ彼女を人の形で僕の前につかわしたのかはわからない。
けれど繊細な骨細工を包む肉をすべてこの口に入れたいのは、
血のみなぎった肉を骨の外にまとうことが誰かにその身を捧げるためであるからだ。
青い水槽の中では色も形も異なる熱帯魚が、互いに興味を示すこともなく変わらない表情で泳いでいる。
ロビーの中央に置かれたソファから蛍光色たちを眺めていると、回転扉がまわって大通りの街路樹の匂いが吹き込んだ。
熱帯魚の青も橙も取り込んだ真昼の光と影が彩ったのは、僕を見つけて足を速める◎だった。

「待たせてごめんね!」

「君の都合がついてよかった。練習のない日曜日は意外に皆忙しいものだね」

「プレーヤーの方が適任なのに私でいいのかな……」

◎が不安げに伏せた睫毛の間から見る先では、GodBullのロゴが掲げられた受付で女性が整った微笑を浮かべている。

「君が聞いているとおりだ。

 スポンサーがエナジードリンクメーカーとしてアスリート向けレストランを展開したいらしい。

 グループ向けメニューの開発にあたって僕達の意見を聞きたいと言っているんだ。

 料理の雰囲気や、皆が普段口にするものとのギャップについては、マネージャーだからこそ気付くことがきっとある」

世宇子中サッカー部の立場でスポンサーに協力するために、休日であるけれど互いに制服を着ている。
いつもどおり世宇子として誇りをもって振舞えばいい、とその肩を叩くと、彼女は胸元に手を当てて深呼吸した。
その唇からこぼされる彼女が抱えていた緊張を掬い取りたくなる。
彼女の欠片すら食べてしまいたいのだ。

「行こうか」

「うん。来られなかった皆の分までしっかり味見しないと」

「味をよく感じるためにも気を楽にするといい。僕だって◎とデートする気分でいるんだよ」

その喉を行き交う深い呼吸が止まってしまった。

「デートって、私達そんな……!」

彼女の緊張を取り払うためだとして、どこまで許されるだろうか。
胸に置かれていた彼女の手をとり指を絡めたのに、重力に任せて手を揺らすふりで解かれてしまった。

   ***

 受付の女性よりもたくましい、エナジードリンクメーカーらしい女性スタッフに案内されてガラス張りのエレベーターへ乗り込んだ。
行先ボタンを操作する女性は、おそらくは大人に向けるよりも気さくな口調で僕達に話し掛けてくる。

「このビルの最上階がレストランになるんです。

 その下の階にはスポーツウェアのショップとジムが入る予定なので、一日中このビルで過ごせますよ」

「いずれ伺うのが楽しみです」

そう返しながら、女性の視線が行先ボタンへ向いているうちに、
緊張を解けずに足元へ遠ざかる景色に背を向けている◎の肩をデートらしく抱き寄せた。
彼女は今更景色へと振り返り、僕の腕から脱け出した。

「あの、このエレベーターは何人乗りですか?」

景色とは関係のない彼女の質問に、腕にあたる透明な陽射しを冷たく感じる。
空の広いところへ二人で食事に行く機会などそう訪れないのだから、◎にも楽しんでほしい。
そこに少しだけ足した自分の望みが、マネージャーとしての彼女の誇りとぶつかってしまう。
緊張からか、誇りからか、彼女は背筋を伸ばしたまま質問を続ける。

「うちのチームのメンバー全員が乗れるでしょうか。
 体が大きい子もいるんですけど……種目が違ってもチームで来るときは、はぐれないよう注意していると思います」

「そうですねえ、他の階のお客様も乗ってくるし、荷物用のエレベーターを使ってもらうか、うーん……」

ポケットから取り出したメモ帳へペンを走らせる女性を前に、◎が僕に横目を向けた。
僕の手が向かう先を警戒する鋭さはない。
僕をどうしたいのか、教えてはくれない。

  ***

 壁の絵画はビニールに覆われ、窓の開かない店内を潤す観葉植物もまだない。
食欲の背中をそっと押す薄黄色の壁をのびる真新しい白い柱。
高層階のレストランと聞いて想像する都会の色ではない。
土の匂いが立ちのぼる芝生を駆け回った後に空腹に誘われて入る温かなキッチンの色。
サッカー部である僕達にとって、その雰囲気の中でとる食事にはサッカーを始めたばかりの頃を思い出す懐かしいものだった。
女性スタッフが置いていったレポート用紙へそう書き込んで、テーブルの向かいに座る◎へと視線を移した。
グループ向けメニューのメインディッシュは焼肉だ。
テーブルの中央に置かれた焼き網の上に、◎が手にした銀色のトングで肉を並べていく。

「熱そうだね。代わろうか?」

「照美くんは待ってて。皆の飲み物や食べ物を準備するのはマネージャーの頑張りどころだから」

焼き網の隙間からのぞく灼熱が肉に黒い焦げ目を刻む。
肉を裏返す◎の手つきは覚束ない。
焼き付いた肉が千切れそうだ。
裏返したばかりの肉がまた裏返される。
最後に程よく火がとおることを祈りながら、翼の飾り枠に囲まれたメニューカードを眺めた。
「“絆を深める焼肉”か」
グループ向けメニューらしい文句だ。
その言葉に従って、この場にいない皆を彼女は思っているようで、二人で食べるには多い量の肉を一度に網にのせている。
デートだと思っているのは僕だけだ。
それでも、好きな人から肉を与えられることの意味は変わらない。
澄んだ朱色の炭火が白い手に照る。
もうすぐ食べられるようになる。
テーブルの下で脚を伸ばして彼女の脚に絡めた。
掴みかけの肉がぼとりと網の上へ落ち、はねた脂が炭火の上で炎に変わる。

「もう、照美くん、火があるのに危ないよ!」

「だったらトングを手離せばいい」

その手からトングを奪って厚さも大きさも異なる肉の並びを整えた。
立ちのぼる香ばしい煙の中を役目を果たしたげにさまよう彼女の手を、自由な手で捕えた。
◎の肉が僕の手の中にある。
先ほどまで焼き網の間近を行き交っていた肌は熱くて、脂の飛沫をあびて滑らかだ。

「神は愛する者に自分の体を与える。聞いたことがあるだろう」

熱がとおり端のまるくなったロース肉を彼女の皿へおろした。

「釈迦は虎の親子に」

次には脂のぷつぷつと泡立つ厚いハラミを重ねた。

「キリストは血と肉をワインとパンにした」

遅く火にかけられたタン、カルビ、癖のあるレバーも嫌いとは言わせない。

「照美くん、自分の分も忘れずにとって!それと、話……」

「聞きながらすべて食べて。
 僕は君に与えたいんだ、自分の体にかえて焼いた肉を」

僕は◎の神になりたい。
いくつもの勝利を得てきたこの体をいつか本当に彼女に与える覚悟だ。
神が人に許した力である炎が、彼女の頬から僕に握られた指先までを染めぬく。

「私の気持ちは、どうすればいいの……」

「君の気持ちの与え方かい?
 では腕の力をぬいて。
 君の肉を端から僕が食べられるように」

握った手を引き寄せて、先のまろやかな親指を唇の中へ導いた。
獲物を射るために弓をひく指は、彼女の口へ向かう肉と同じほのかな塩味で潤っていた。
さらなる味を求めてそのつけ根まで舌を添わせる。
焼肉をメニューから外してもらおう。
メニューが決まった暁には世宇子中サッカー部全員がグループ向けメニューを楽しむ様子を宣伝に使われるだろう。
そこで彼女が誰かに肉を振舞うことは許さない。
次はデザートの時間だ。