変わらないもの

「昔さ、晴矢とここの焼肉食べに来た時、レモンサワー品切れになるまで飲んだの思い出した」
「さっさと手を動かせ」
「わかったからトング向けないで」

冷えたグラス同士を重ねると気持ちのいい音がする。乾杯、と声に出してグラスに口をつけて喉を鳴らした。久しぶりのお酒、そして目の前で網が温まっていくのを見て思わず涎が垂れそうになったところを、幼馴染である目の前の冷徹な男に呆れた目で見られた。
この焼肉店のメニューはとうの昔に制覇しており、学生時代サッカー部に所属していたわたし達は試合が終わった後度々足を運んでいたのである。お酒が飲めるようになった頃からは『いつもの店』という愛称で呼んでいた。ああ、ここに来るのも久しぶりだ。幼馴染と言えどもこうして対面したのはいつぶりだろうか、6年ほど時間が空いているように思える。

6年ぶりにおひさま園に帰ってきた、とでも言おうか。20歳を超えて次々と独り立ちをしていくおひさま園の仲間達であったが、住む場所は案外近くで常に支え合って生きてきた。わたしもその一人であったが、5年前わたしは皆と違って遠い場所に引越しを決めたのだった。しかし結局、戻ってきたのだけど。
此処に戻ってきた事を最初に連絡したのは、目の前で呆れたようにトングを動かして肉を焼く彼、涼野風介であった。

「風介は変わってないね」
「…?変わるわけがないだろう」
「いや、でも結構久しぶりだよね」
「久しぶりでも行く場所も変わってないだろう」
「帰ってきたら、絶対此処の焼肉食べたくなるんだもん」
「お前はいつも見ているだけだな、焦げた肉を食べたいのか」

やだー、と声に出して言えどもわたしはトングを弄るだけで網の上の肉には手を出さない。わたしは風介には昔から甘えたがりで、我儘だ。そんなわたしの気持ちを汲み取ってか彼は何も言わない。

絶品のタレの隣に効率よく置かれていく程よい焼け具合の肉を頬張る。恐らく美味しそうに食べているであろうわたしの顔を見て、いつも風介は子供を見るような目で笑った。

「◎も変わってないよ」

もぎゅ、と口の中で好物を噛む音が聞こえる。口を動かす私を頬杖をついて眺める風介は少し見ないうちにさらに大人になったような気がする。対するわたしは学生の頃から時が止まっているかのように思えた。「わたしはいつまでも子供っぽいっていいたいの」「そういうわけじゃない、褒め言葉だよ」ふ、と笑って息を吐く風介は子供のような言い訳を優しく咀嚼していく。

「でも、人って変わるから」
「それはそうだね」
「外見は変わらないかもしれないけど、気持ちなんて、すぐ変わってしまう」
「急にどうしたんだ」

何でもないわけじゃない、と呟き思わず視線を落とした。

わたしは6年前、慣れ親しんだ土地を去った。それには大きな理由がある、当時付き合いを始めた彼氏の転勤が決まり、悩んだ結果着いていくことを決めたのだった。片道3時間以上の距離の引越しを簡単に決めるのは容易ではなかった。仕事も人間関係も0からのスタートで、最初は玲名や風介と連絡を毎日していたように思える。風介は彼氏に着いていくと言った時も、さほど驚かず背中を押してくれた。『困ったことがあればすぐに連絡しろ』と言ってくれたのに、わたしは幸せを掴めずのこのこと帰ってきてしまった。6年後には仕事も人間関係も上手くいき始め、結婚も意識していた頃、彼氏の浮気が発覚し簡単に6年間築き上げてきた全てが崩れ落ちたのだ。

そして慣れ親しんだ場所に帰ってきても、寝ても覚めても幸せだった頃のことを思い出し体調を崩す毎日。背中を押してくれたお日さま園のみんなにまだ報告が出来ていないことが、なによりもストレスだった。住む場所は瞳子さんに相談して空いている賃貸を安く借りた。あとは転職だ、と行動を起こせば目まぐるしく環境が変わって行った。

「だから戻ってきたのか」
「…いろいろあったから、それも含めて話したくて、風介のこと誘ったの」
「お前は昔から何かあれば焼肉、と言い出すからな」
「本当分かりやすいね、わたし」

あはは、と乾いた笑いが響く。プロとして活動している風介はわたしなんかより数億倍忙しいのに、わたしが訳を話せば時間をかけてくれる。話してしまえば、浮気という事実を認めてしまうことになる事が嫌だった。しかしもういい加減前に進むべきである。ゆっくりと話し出したわたしを、風介は終わるまでずっと待ち続けた。漸く要所要所の部分を話すことが出来ると、今日1番のため息をつく。「頑張ったじゃないか」そう言われると、煙が目に入ったわけでもなく涙が出そうになった。

「◎はもう結婚するんだと思っていたよ」
「わたしもだよ、まさかダメになるなんて一ミリも思ってなかった」
「痩せたね」
「つい最近まで玲名のお粥以外何も食べれなかったのに、ここの焼肉は食べれるの不思議」
「末恐ろしいな」

彼氏について行った6年間が無駄だったなーとは思わないけど、まだ一カ月足らずの事であるから気持ちの整理が付かないのは確かである。希望に満ちて遠い土地へと着いていったわたしを知る、風介。失敗を話すことは恥ずかしいと思いながらも風介は何も言わずに頷きながら聞いていた。

話が弾みすぎて箸が止まっていたことに気づきメニューを見始めるが、どうせ頼むのは同じメニューである。風介に目配せして店員さんを呼ぶ。

「ハラミと、あとあれ」
「シマチョウか」
「うんシマチョウと、あと」
「本日の三点盛り」
「流石」

スムーズな注文はこちらも気分が良くなる程だった。思わずハイタッチをしたくなる。

冷えていたグラスも七輪のせいで汗ばみ、少し熱くなっていた。それも醍醐味である。一口またアルコールを口に含めば今度はわたしからの質問が始まった。

「風介は最近どうなの」
「今は何もない、恋愛する気が起きない」
「でも付き合ってた子いたでしょ?」
「3年付き合って別れたよ」
「3年も、どうして」
「全国でプレーすることも多いから会えないし、なにより私の家庭環境も気にしていたからね」

淡々と答える風介は、寂しそうでもなくただ質問に答えているというような感じであった。家庭環境、と考えるとわたしも同じような境遇である。考えを張り巡らせるがどうも納得がいない、というような顔をしていたのか、彼は「◎が気にすることじゃない」と笑った。タイミングよく注文したメニューが届けられ、彼は手際よくトングを動かしていく。

「まあ嫌なことを言ったが、良い女の子だった。サッカーの拠点がもう少し彼女と近かったら、まだ付き合っていたかもしれないな」

そっか、と自然と声に出した時、自分の顔が引きつっているように感じた。やはり10年以上付き合ってきた友達の恋話は寂しい気持ちが出てくるのだろうか。あれだけ恋愛に疎かった風介もちゃんと恋愛していたんだなあ、と少しだけ嫉妬したような、気持ち悪い胸の痛みを感じた。美味しそうな煙が上がる。そんな気持ちを隠すようなに美味しそうに焼けていく肉に視線を向け、気分を紛らわそうと初めてトングを動かした。

昔は此処へ大人数で来るのが当たり前だった。わたしが引っ越しする時も最後に食べたのは此処の焼肉だった。煙が吸い込まれる景色も少し古びた店内も、昔から変わっていない。味なんて言うまでもなく変わらずわたしを虜にする。

「誰か紹介してよー」
「どういうのが良いんだ」
「変わらず、好きでいてくれる人なら欲なんて言わないよ」

変わらない、って凄いことだと思う。シマチョウは変わらず焼きにくいけど美味しいし、レモンサワーは変わらず酸っぱくて飲む前に唾を飲み込んでしまう。風介も変わらないと思っていたけれど、会わない内に素敵な恋愛をして、サッカーでもさらに活躍して、手の届かない所に行ってしまったように思えた。心の何処かで彼は変わらないと思っていたのだろう。久しぶりに会った彼はよく笑うし、店員さんともよく喋る。昔は注文するのも苦手でわたしが頼んでいたのに、とか。小さな事がわたしの心をぎゅっと苦しめていた。

対して、わたしはどうだろうか。彼氏との別れをまだ夢だと思いたくて仕方ない。塞ぎ込んで、一人で歩こうとしていない。新しい恋愛をしようともきっとまた相手を繋ぎとめておく事が出来ないと思った。やっぱり、今のなしで、と手を振郎とした瞬間、風介は大きくため息を吐いてわたしを見つめたのだ。

「ど、どうしたの」
「じゃあ私でいいじゃないか」

時が止まったように感じた。風介がこんな冗談を言うのは初めてだったからだ。しかし状態だと分かっていても動揺が隠しきれず、肉を何度も何度もひっくり返してしまう。「え?で、でた酔っ払い」「酔いもあるけど、嘘じゃない」「いやいや、ないよ」無駄に肉をひっくり返したことで肉の旨味が逃げてしまったなあ、と違うことを考えようとしてもわたしの心臓はうるさい。相手は風介なのに、いや風介だからなのかもしれない。焼きあがった肉を彼の器に置くと、彼はとんでもないことを言ってのける。

「私は焼肉があまり好きじゃない」
「え!?」
「冷たいそばやうどんの方が好きだ」

昔あれだけ一緒に行っていたのに!週1で行っていた時があったのにも関わらず突然の苦手な食べ物のカミングアウトに周りが凍りついたように体が冷たくなった。「な、なんで言ってくれないの!」知らなかった、では済まされない。今日だって二人が好むといったら焼肉が頭の中に即座に浮かんできたというのに。今日も苦手な食べ物を食べてくれていたのかと思うと、身体中から冷や汗が吹き出す。

「◎が好きだから来ていたんだよ」

落ち込んでいた様子のわたしへ風介がかけた言葉は、まるで子どもをあやすかのように優しかった。涙が出てしまいそうなくらい嬉しかった。しかしわたしは今まで何故風介の気持ちに気付かなかったのだろう、今日も二人きりで飲みにいくなんて失礼だと思ったのだ。そんな気持ちも分かっていたのか、風介は優しくわたしの名前を呼ぶ。

「こんな事言うために会ったわけじゃないよ」
「私が誘ったから」
「普通に相談のるつもりでいただけだ、こんな気持ち一生言うつもりなかったんだ」
「…え、」

初めてみる苦しそうな表情は、わたしのためを思ってのことだったのだろう。しかしただただ風介の口から溢れる、所謂口説き文句、という言葉を受け止めることしか出来ない。

「正直弱みに付け込んでるようで反吐が出るが、こんなチャンスなんてないと思う」
「ま、まってこんな事言う人だっけ?」
「成長しただろう?」

風介は変わったけれど、変わっていない。変化は見方を変えればさらに好きになる要素なのかもしれない。
気付けば彼の視線から逃げられず、思わずグッと口を結んだ。

「もしかしたら、最後のチャンスなのかもしれないからね」
「ま、まだ正直信じられない」
「分かってる、だから待つよ、信じられるまで、あいつのこと忘れるまで」
「う、」

恋を失って何キロも痩せた身体を思わず摩る。信じる、という言葉はずっしりとわたしの心に響く。動揺は既に伝わってしまっているだろう、だからこそ風介はゆっくりとわたしに伝えるのだ。

「私と付き合おう」

焼肉屋での告白なんてムードもかけらもない。網の上でおそらく焦げているであろうハラミを横目に、アルコールのせいではない体の暑さを感じた。風介は変わってなどいなかったのだ。この店と同じように昔から変わらず、好きでいてくれていた。恋で疲弊したわたしの心は、もう恋なんてしばらく要らないと思っていたけれど、この日の風介の言葉がわたしに魔法をかけた。

ああ、もう、ドキドキする。