12時の魔法



「ごめんな、明日…」


わたしには到底手の出せない高級焼肉店の、プライベートな空間。

目の前に座る彼は、男性にしておくには勿体のないくらいの そのきれいな手で掴んだトングで網の上のお肉―どこだかなんてわからない部位を見つめてひっくり返しながら その言葉を口にした。


「ううん、仕方ないよ。一郎太くん、一流のサッカー選手だもん。」


だからこんな、敷居の高すぎるお店に簡単に入れちゃって、全然緊張する素振りも見せないで。でもどんなに有名になって生活レベルが上がっても変わらないのは、几帳面に見えて実際は意外とそうでもないところ。(デリケートなところも少し。)

全部 一郎太くんのチョイスにお任せしたお肉達は、おいしそうな焼き目をつけて あぶらでキラキラ光っている。危ね、焦げる。と熱々のお肉をお皿に取って、ん。とわたしの目の前に置いた。


「ありがとう」


明日。何があるのかって。わたしの誕生日。
本当は今日お泊まりして、明日はふたりでゆっくりデートするつもりだった。
でも彼はプロのサッカー選手で、普通の会社員とは違うから急に何か入ったりすることもたまにあって。わたしには彼の生きている世界のことはよくわからないけど、ただ付き合っている恋人の誕生日だからって理由で彼の人生にとって大事なことを後回しにして欲しくない。それに、お泊まりは出来るんだもん。日付の変わる瞬間に一緒にいられるなら、それでいい。


「一郎太くんが連れてきてくれるお店は間違いないね!」

「◎のこと喜ばせたいからさ。行ったことないところはなかなか……」


明日お昼までしか一緒にいられないことをそんなに申し訳なく思っているのか、やっぱり一郎太くんはずーっとお肉を見つめて、網に置いて、ひっくり返して、お皿に取って、を繰り返している。


「お肉焼くのちょっと休憩して、一郎太くんも食べようよ。ほら、あーん」


直箸だった、とか、わたしのタレだった、とか、そういうことは全然気にしていなかった。でも何も言わずに素直に口を開けた彼も、多分相手がわたしだから気にしていないのかもしれない。そんなに神経質じゃないだけかもしれないけれど。

わたしの差し出したお肉を 長い髪をおさえながらぱく、と咥えた彼が ただただかわいくって愛しくって、好きーって気持ちが 同じ箸で自分も口に放り込んだお肉の肉汁と一緒に溢れてきた。


「うまい」

「んね」

「もう1枚。」

「えぇっ珍しい。はい、あーん」


普段と少しだけ様子の違う彼に若干 不安になるけれど、こうやって珍しくせがまれたら、そりゃあ嬉しいしかわいいしで。まぁいっか、って気持ちになる。

あぶらのついた彼の唇がもぐもぐと動く度に、わたしもこのお肉みたいに一郎太くんとひとつになってしまいたい、……なんて。子供の頃 意味もわからずただメロディーラインがかわいいそんな曲を聴いたことがあったなぁって思い出して笑った。


「ずーっと会いたくて、早く今日にならないかなーって思ってた」

「うん、俺も」

「デートするのも久し振りだし、お泊まりだし」

「日付が変わる瞬間は絶対に一緒にいたいと思ったからさ」

「うれしい。わたしもそう思ってた!」


やっとちゃんと目が合って、ふふっ と笑えば、片方しか見えない眉を下げながら彼も笑った。







ありがとうございました、店員の声を背に 俺は右腕に彼女の左腕を絡ませて歩き出した。

彼女を連れてきたのは、普段泊まらないような高級なホテルのスイート。
誕生日を祝いたいのもあるが、それだけじゃない。


「すごいね……こんなの初めて」

「どうしたら◎を驚かせて喜ばせられるかなって、ずーっと考えてたんだぜ」


もうすぐ日付が変わってひとつ大人になるというのに 夜景が一望できる大きな窓に駆け寄る子供みたいな彼女が可愛くて、俺はそっと近づいて後ろから抱きしめた。


「……」


自分の体に回っている俺の手をそっと触れて、鏡のように姿が映る窓越しに目が合った。


「今日、ちょっと様子がいつもと違ったから、大丈夫かなって思ってた」

「え…、……ああ。」


わかりやすい奴。中学の頃もそんなこと言われたような気がする。


23時38分。まだ早い。


「わたし、怒ってないからね。日付の変わる瞬間に一緒にいられるだけで十分 幸せだよ。」

「◎…」


45分。


窓の方に向けていた体をこちらに向けて 正面から抱きついてくる彼女は俺よりずっと小さくて。


「…はぁ。時間経つの遅いな。早く言いたいのに。」

「ふふ。そんなにせっかちだったっけ。」

「緊張で口から胃が出てきそうなんだ」

「えー?何の緊張よ、」


52分。

この日のために ずっと頭の中で予行練習して、たまにブツブツ独り言も漏れてしまっていたみたいで チームメイトに心配されたりもして。


59分ぴったりにこの部屋に彼女の生まれた年のワインが運ばれてくる、事前に預けておいた、もうひとつの魔法をかけた真っ赤なバラの花束と一緒に。

そこからは念入りに打ち合わせした従業員との連携プレー。短くて長い1分間のカウントダウン。

ごめん、ちょっと目を閉じていて。5秒前になったら数えるから、ゼロになるまで。


そうしてゼロになったとき、俺は片膝ついてバラの花束を彼女に……


ピンポーン。


「ん?なーに?ルームサービス?」


俺と彼女の人生がかかったカウントダウンが始まった。

さっきのお肉でお腹いっぱいだよ?という◎に言葉にできないくらいの愛しさを感じながら、絶対喜ばせるから目つぶってて、といい子いい子するみたいに頭を撫でた。