波が光っている。車窓の外には海が広がっている。
彼女は白布の包みをひとつ、膝の上に載せている。平日の真昼、ローカル線の車内は空いていて他の乗客は見当たらない。
 彼女は膝の上の包みに声をかける。
「ねえ、夏油、海が見えてきたよ」
 白布に覆われたそれは答えを返さない。ガタン、ガタン、と電車の走行音だけが響く。
「海だよ、綺麗だねえ、夏油」


「行ってしまうのかい」
黒衣の男に後ろから声をかけられて、彼女は足を止める。彼女は透明な標本瓶を手にしている。標本瓶を揺らさないようにそっと振り向き、黒衣の男と向かいあう。
「君はこう考えるわけだ。人間の本質は精神である。本質たる精神は脳に宿る、とね。”私”の声帯や顔や腕や脚ではなく、そちらを選ぶということは」
 瓶の中の、ホルマリン液に浸されたひとつの器官が、そちら、と差されている。
「分かりません。これは彼じゃないかもしれない。でも、少なくともあなたはあの人じゃない」


 そして彼女は海沿いを走る列車の切符を買った。どこでもよかったし、どこに行くあてもなかった。いつの頃からか、夏油は海を見ると苦しそうな顔をするようになっていたことを思いだした。何かを後悔するような表情。いつからだろう?知り合った頃はそうでもなかったはずだ。いつからだろう。何年生の頃からだった?記憶を巡らせる。彼女が最後に夏油に会った時、彼はまだ制服を着ていた。
 車窓から海が見える。電車が揺れる。膝の上の布に包んだ標本瓶を引き寄せる。揺れに身を任せて、リズムをとるように表面を撫でる。彼女は昔から海が好きで、今もそれは変わらない。波の音を聞くと、心が広々としてくる。

 同じ世界に生きていて、同じものを見て同じものを食べて同じ音を聞いても、違うふうに感じてしまう。夏油傑にとってこの社会の仕組みは正しいものではなかった。彼女はそう感じなかった。ひとつの世界を人それぞれに感じる器官が、それぞれの脳ならば。これは夏油の本質、ではないかもしれないけれど、彼の地獄はこの脳のなかにある。あった。
「どこへでも連れていってあげる。あなたの地獄を、どこまでも連れて行ってあげる」


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