わたしはなにも与えられずに生まれてきた。ずっと暗いところにいた。その時には、暗い、ということも分からなかったはずだ。なぜならわたしには目が無かったから。わたしには耳が無かったから。足を持たずに生まれてきたので立つことができなかった。腕が無いので這うことができなかった。骨が無いので座ることができなかった。わたしはなにもないところに捨てられていた。どこへも行くことができなかった。だれかを呼ぶこともなかった。わたしは舌を与えられなかったからだ。だれかがわたしを呼ぶこともなかった。わたしには親が兄弟がいなかった。わたしには時というものがなかった。始まりも知らず終わりも知らず、そこにいた。

 言葉があらわれた。わたしはそれまで話すことも書くこともなかった。ただ、なにも与えられずにあるというわたしはいた。いる、、わたしに言葉が入ってきた。外から。
「哀れなものだ。恨みと憂いに沈み、しかし恨みを世にあらしめるにはあまりにも弱すぎる」
耳が無かったので聞くことはできなかったが、わたしのなかに入ってくる言葉があった。言葉はわたしの心を言い当てていた。わたしは哀れで、悲しく、恨んでいた。悲しいので泣きたくなった。泣くために必要なものがないのが口惜しかった。
「泣きたいか。歩きたいか。声をあげたいか。己を捨てた人間が憎いか」
わたしは言葉に答えるために身悶えをした。
「ならば教えてやろう。お前はとうの昔に肉のからだなど無くしているのだ。お前は死んだのだ。無い、、身体がもう無い、、のだから、あるようにあらしめることなど容易い」
 わたしは力なく伏せていた。
「立つ者が妬ましいか。ならば立つ者を呪え」
 わたしは呪ってみた。呪うことならばなにもなくてもできた。泣いて恨んで悔いて妬んだ。はじめはただ泣くだけだった。
「世話のやける」
 わたしのなかに腕が入ってきた。腕はわたしの。ない、、からだを搔きまわし、捻り、そこからなにかをつかみ出した。わたしはわたしの中から掴みだされたなにかを支えに立った。わたしは足を得て立った。
「走る者を呪え。飛ぶ者を呪え。泳ぐ者を呪え。笑う者を呪え。泣く者を呪え。美しい者を呪え。呪えば同じものが手に入る」
 わたしは呪った。わたしにはないものを呪った。飛ぶ者を羨んでは翼を生やし、泳ぐ者を妬んでは鰭を得た。呪うたびに得た。
 見えるものを呪った時、わたしは目を手に入れた。わたしが目を開いて最初に見たのは、あまりに荒々しく、美しく、強いものだった。
「かみさま」
 わたしが持たずに生まれてきた目や口や腕を、かみさまはとても沢山持っていた。わたしはわたしのかみさまの背中を追いかけて歩きはじめた。




朝、目が覚めてまず、鏡を見る。綺麗な顔だと思う。櫛で長い黒髪を梳る。床に届くまでの長い長い黒髪がお気に入りだ。  
 部屋を離れて、厨の方へ回る。竈のそばに裏梅がいる。昨日の夕餉の片付けをしているみたいだ。
「おなかすいた、それ食べていい?」
「これはもう美味しい部分は使ってしまいましたからね。今から燃やすところです」
「だめ?」
「駄目です」
 裏梅は籠に山盛りになった人間の腕や足の骨をどんどん竈にくべた。あれは昨日宿儺様がさらってきた御姫様の骨だ。裏梅が膾にしてくれて、とても美味しかった。若い女は美味しい。子供も美味しい。骨だけでももう一度しゃぶりたかったけれど、駄目だと言われてしまった。
 人間の衣や帯も竈の火にくべられていく。その中に、とても綺麗な紫色の布があった。昨日の御姫様が着ていた表着だ。
「頂戴!」
 裏梅の手からそれを取る。今身につけている薄い緑色の単衣の上に着てみた。
「いいんじゃないでしょうか。萌黄に薄色で、丁度今の季節にふさわしい藤の重ねですね」
「ふうん」
季節にふさわしいことがどうしていいのかはあまり分からないけれど、綺麗な衣が手に入って嬉しくなった。紫の衣の裾をもっとよく見たくてくるくる回ると、いい匂いがあたりに広がった。
「素敵、すてき、きれいねえ」
「まったくいつまで経っても子供ですね。宿儺様もどうしてこんなちんちくりんを拾ってきたのやら」
「子供?」
 私は自分の手のひらを見た。白くて綺麗な女の手だと思った。
「十七ぐらいに化けてるつもりなんだけどなあ。手はもっと大きい方がいい?髪をもっともっと長くしようか」
「はあ……そういうことではありません」
「宿儺様にもお見せしてくる」
 私は宿儺様のいらっしゃるお部屋へ向かって駆けだす。透廊の板が軋んで鳴る。空はよく晴れていて、燕が高く飛んでいた。
 宿儺様は寝殿にいらっしゃった。
私は宿儺様の前へいざり出て一礼をする。
紫の衣を翻す。長い長い、足元までの黒髪が揺れる。いつか都の祭りを襲った時に見た、舞を真似る。髪には花の飾りをつける。宿儺様は若い女が美味しいと言う。悲鳴が愉快だと言う。だから私は若い女の姿でいるのが楽しい。
いつか聞いた悲鳴を真似る。喉を震わせて、小鳥のように頼りない声で。
「あれぇ、どうか、どうか、おやめくださいまし。ああ恐ろしい……」
 顔を覆って悶える。
 宿儺様は盃を片手に笑ってくださった。
 紫の衣を上へ放る。私の姿がほんの少しの間隠れる。衣が床に落ちるまでの間に、私は子供になっている。宿儺様の膝にも届かない小さな背丈。頬のふっくらとした稚児になっている。頬を大粒の涙が流れる。うすい紅の単衣を着ている。肩のあたりで短く揃えられた髪を振り乱し、怯え騒いでみる。
「ととさま、かかさま、かかさまはどこ。いたい、いたい」
 かかさま、と泣きながら、宿儺様の前へ一歩進む。宿儺様は盃に目を落としている。もっとこちらを見てほしい。
 私は太った老人になっている。醜く老いた男だ。これはこの間宿儺様と共に襲った金持ちの屋敷の主人を真似た。実に滑稽な男だった。額いっぱいに汗を滲ませる。
「ええい、物の怪め。誰か、誰かおらぬか。早うこやつを捉えてしまえ」
赤ら顔を引きつらせてわめけば、宿儺様はこちらに目を向けてまた笑った。
「やめてくれ、止めてくれ、助けてくれ、……そうだ、金をやろう、銀もやる、この家にはなんでもあるぞ、お望みのものがあるのなら何なりと差しあげますからどうかどうか……」
 肥えた足を折って拝む。
 次に私は若い男に姿を変えた。束帯に太刀を佩き、弓矢を帯びている。まだ元服を終えたばかりの初々しい若者になる。髪は黒々として、肌は白く、眼は切れ長の美しい男。私はなんにでもなれる。
若者は静かに座して、弓矢と太刀を傍らに置く。前をひたと見据える。
「ひとおもいに首をとれ」
 宿儺様が立ち上がる。宿儺様はこちらに来て私の首に手をかける。力をこめて締めあげられる。細くて若木のようにしなやかな首に爪が食いこんで血が滲んでいく。強い力で上に引かれて爪先が床を離れる。だんだんにぼんやりとした心地になる。笑い声が聞こえる。私も楽しい気持ちになってきた。もっと笑ってほしい。もっと強く絞められたい。
気を失う寸前に、ふっと力が抜かれる。私の体はどさりと下に落ちた。
「どうしてやめてしまうの」
「お前を殺してもつまらん」
「どうしてつまらないの」
「苦しまず、嘆きもしないものを殺して何が楽しい」
「ではもっと苦しめばよいのね」
私は若い女の姿に戻った。頬や腕に傷を作る。顔を隠して涙をこぼし、哀れな泣き声をあげた。
「いかがでしょう」
「やはりつまらんな」
「まあ、どうして。泣き声が下手かなあ」
「分からぬか。お前の悲鳴は心の底から出でた声ではないからだ。お前には真の恐れがない」
「なぜ私には真のおそれがないの」
「お前は人間ではないからだ。呪霊を、俺を心の底から恐れるのは人間だけだ」
「人間ではない」
慌てて自分の手を見た。指が白くて長い、人間の女の手にしか見えなかった。着物をたくしあげて足を見た。傷ひとつない高貴な姫君の足だと思った。
「どこか化け忘れたところが?腕が二本に、足が二本に、首と……頭もあるのに。尻尾も羽根もつけていないのに」
「目に見えるかたちではなく魂のありかたの話だ。人に化けようとも、お前の霊魂と心は人のそれではないのだから当たり前であろう」
「たましい」
 庭に出て、池の水に映して顔を見た。どこが間違っているというのだろうか。でも宿儺様が言うのならば間違っているのだろう。
 人間ではない。頭のなかに、いつか聞いた声がよみがえってきた。遠い遠い昔に言われた言葉。お前は人間ではない。おぞましい。これは人間ではない。こんなものは人間とは呼べない。物の怪だ。災いをもたらす前に捨ててしまおう。川に流してしまえ。なんて醜い子だろう。
 気がつくと私は駆けだしていた。私は人間ではない。どうして人間になれなかったのだろう。声を振りきろうとして走った。どこまで逃げても声はついてくる。お前は人間ではない。お前は何でもない。私は人間のたましいを持っていない。私は何も持っていない。
谷川を越えて、草を踏みしだき、走り続けた。野を過ぎて、山を過ぎて駆けていく。夜を越えて、昼を越えて、どこまでもどこまでも走り続けた。




 鬼神、もののけ、妖しのもの共が世を騒がせている時分のことでした。都のある家に、噂に名高い姫君がありました。顔かたちのうるわしく、御心も清らかな姫君でいらっしゃいました。御殿には姫君を慕って多くの人が集っていました。広い御殿の庭には藤の木があり、季節になると見事に咲き誇りましたので、いつしか姫は藤の姫とも呼ばれるようになりました。
 姫は元々高貴な生まれというわけではありませんでした。それというのも、姫はまだ赤子だった頃に、この邸の藤が枝垂れかかる門の下に捨てられていたのです。その頃はこの家もめざましいところがなく、草に埋もれるようなところでありました。この家の女とその夫は年をとっていて、子供がありませんでした。常ならば捨ておくものを、赤子を憐れにお思いなされて、家に上げて育てることにしたのです。二人はこの子をたいそう可愛がりました。そして赤子を迎えてから、この家は不思議と豊かになっていきました。例えばこの家の夫、赤子の親となった男はその年になるまで見栄えのしない官職であったのが、ふとしたことで御出世をなさりました。それまで仕えていた人が病に倒れ、その位を継ぐことになったのです。また女親の一族の者で、落ちぶれて都を離れた人があり、その荘園を受け継いで家は裕福になりました。邸が賑やかになり、教養ある人々も集まるようになり、いっそう評判が高くなっていきました。その中で子はすくすくと成長し、立派な女君になられました。お歳よりも大人びて見え、箏なども長けていらっしゃいます。一目姫にお会いしたいと望む若者からの文や贈り物引きもきらず届けられました。姫を迎えてからの変わりようを指して、なよ竹のかぐや姫のようだと言う者もございました。しかし、物語のかぐや姫と違ったところには、この藤の姫は数多の若者のなかから一人のまめやかな若者を選び、夫にされたということです。姫は父母と夫と、穏やかに暮らしていらっしゃいました。

 ある望月の、夜更けのことでございました。御殿に押し入る者がありました。それは近頃都を騒がせている鬼神で、名を両面宿儺といいました。鬼神は次々に人を斬り、邸内を荒らしてゆきました。
「父様、母様、ああ、あなた」
 姫君は一人逃げ惑っていました。
「誰か、だれかありませんか」
 姫の声に応えるものはありませんでした。姫は母屋まで追い詰められました。蔀は開け放たれ、月の光だけが差しこんでいます。庭のそこかしこに家人たちが斬り伏せられていました。折しも藤の花が咲く頃で、はなやかな香りをのせた風が吹きこんできました。月にかがやく花と声もなく倒れている人々とで、まったくすさまじい有様なのです。
両面宿儺を前にした姫は、震えることしかできませんでした。
「噂を聞いて来てみれば。なるほど上手く化けたものだな」
「ああ、ああ、おやめください。ととさま、かかさま……」
「どうした、俺が分からぬか」
両面宿儺は姫の顔に手をかけ、書物を読むかのように目の中を覗きこみました。
「俺が分からぬか。全て忘れて、忘れたことまでも忘れてしまったか。良い良い。ここまで深く完全に自らを呪うことができるとは」
「どうか、どうか、ああ……」
姫はただ怯えて泣くばかりでありました。
「そうか、お前は人間になりたかったのだな。喜ぶがいい、今こそお前は一人の哀れな人間に成り果てたぞ」
 両面宿儺は姫の首を絞めあげました。少しずつ力をこめてゆきます。姫の黒髪と、薫物の香る御衣が広がります。姫は泣いていました。あたりはしんと静かで、月明かりが降り、藤の花が風に散るだけでした。


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