去年の冬、お母さんが死んだ。
私が小学校の三年生の時から病気で、長く入院していた。そして私が六年生の冬に死んだ。
春が来て、私は中学に入学した。色々なことが慌ただしく進んだ。

 中学に入学してから、ずっと体の調子が悪かった。
 頭が痛かったり、お腹が痛かったり、吐き気やめまいを起こすことがあった。病院で検査をしてもらったこともある。検査をしてもこれといった病気は見つからなかった。でもお父さんは難しい顔をして、病院の先生にもう一度よく見てくださいと頼みこんでいた。そしてもう一度検査をしたけれど、やっぱり異常はなかった。しんいんせいでしょう、と言われた。
 
 夜はあまり眠れなかった。私は、眠れなくても、頭が痛くても、とにかく朝には家を出て学校に行くことにした。学校へ行って、保健室で眠ることにしたのだ。
保健室の先生は特に何も言わずにベッドを貸してくれた。女性の先生だ。
 保健室に通うようになると、他にも保健室の常連の生徒がいることが、なんとなく分かってきた。お互い話はしない。でも部屋の出入りの時にすれ違う顔をぼんやりと覚えていった。先生がそっとしておいてくれるからだろうか。保険室の常連は、けっこう多かったように思う。

 その保健室の常連の中に、加茂憲紀君がいた。
 同じ学年だけれど、クラスは違う。直接話したことはない。小学校も別で、向こうは私の名前は知らないだろう。でも、私は加茂憲紀という名前を知っていた。
 加茂君はちょっとした有名人だった。成績が良くて、運動神経が抜群。中学に入学して早々に弓道部に入部して、上級生を圧倒したとか。私の友達の真実ちゃんは、小学校の頃から加茂君と同級生だった。だからこの話は真実ちゃんが話してくれたことだ。
「なんか宗教やっとるウチなんやって」
真実ちゃんは声を潜めて言っていた。
「あの家の子みんな霊能力があってお祓いとかできるんやって。それで儲けとるんや。ね、これ私が話したって黙っといて」
 加茂、という名字の人はうちの中学に何人かいた。この街の外れには大きなお屋敷ばかりの一角がある。加茂家はそのお屋敷町の、お金持ちの家なんだそうだ。
 真実ちゃんはそういう、いろいろな内緒の話が好きだった。
 霊能力のことはよく分からない。でも加茂君は運動ができて部活もやっているのに、よく保健室に来るのは不思議だなと思っていた。

 私は部活に入らなかった。入学式の説明では基本的に部活に入ることが推奨されていたはずだけど、今はちょっと大変なので、と担任の先生に相談するとそれ以上深く追求されなかった。うちの中学は他と比べると色々とゆるいところがあった。
 部活をやらずに、授業が終わったら家に帰る。うちはおばあちゃんとおじいちゃんとお父さんと私の四人暮らしだった。ご飯はもうずっと前からおばあちゃんが作ってくれている。お父さんの仕事が忙しい時は、近くに住んでいる叔母さんが様子を見にきてくれたりもする。そうやって私の一日は回っていた。


 その日も、私は一時間目の授業を受けた後、ふらつきながら保健室に向かった。
 先生に、しばらく休ませてくださいと言った。保健室にいる生徒は私だけだった。
三つ並んだカーテン付きベッドの、廊下側の端を使った。
身体はだるかったけれど、眠れなかった。たまにそういうことがあった。意識ははっきりしたまま、ベッドに寝て天井を見上げていた。

 しばらくそのままでいると、引き戸の開く音がして、誰か生徒が入ってきた。
その誰かと先生が会話をしている気配があった。
「貧血で」
というところだけわずかに聞こえた。男子の声だった。
カーテンを引く音がした。その人は、私の寝ているベッドから一つ挟んで、端の窓際のベッドに入ったみたいだった。
一時間ほど寝たままでいると、カーテンの外から先生に声をかけられた。
「先生ちょっと出てくるけど、寝てていいからね」
先生は窓際のベッドにも同じように声をかけると、保健室を出ていった。
その後は新しく入ってくる人はいなかった。窓際のベッドも静かだった。

 何度か寝返りをうった後、落ち着かなくなってベッドを出た。
薬棚の横に、ソファと低いテーブルの応接セットがあった。そのソファに深く座って、薬棚なんかを眺めていた。
 相変わらず誰も入ってこなくて、部屋は静かだった。
 窓際のベッドのカーテンが開いた。制服をきっちり着た、色白の男子生徒が出て来た。
加茂君だ。
加茂君は部屋のドアの方へ向かおうとしていた。
私は顔を上げた。
「加茂君って、幽霊が見えるって本当?」
いきなり声をかけられて、加茂君は怪訝な顔をして立ち止まった。
「それは噂だ。私にそんな力はない」
加茂君は落ち着いた声で答えた。
「私の家は古い家だから、近所の神社の管理を任されているんだ。だから地鎮祭などで御祈祷をすることもある。でも私に霊感があるだとかはただの噂だ。それに私の家族や親戚も普段の仕事は会社員だ」
国語の教科書を朗読するみたいに、すらすらと加茂君は続けた。
「私のお母さんね、去年死んじゃったの」
加茂君は驚いた顔をした。
「それは、気の毒だったな」
「ううん。平気」
「大変だっただろう」
「うん、まあね」
私はどうしていいか分からなくなって、妙な照れ笑いをした。
「だから、お母さん、幽霊になってまだこのあたりにいるかなって、思った」
加茂君は真剣な表情でしばらく黙っていた。
それから、
「すまない。さっきのは嘘だ。私は幽霊を見ることができる」
と言った。
「私は霊感があって、霊が見える。信じてほしい。それを踏まえて、言うんだが、君の周囲にお母様の幽霊はいない」
加茂君は真剣な表情のまま言った。
私はその言葉をゆっくりと頭に染みこませていった。
お母さんはいない。
「幽霊でもいいから会いたかったな」
そう口にしたとたんに、泣きそうになった。でも泣かなかった。
加茂君はちょっと慌てたように言葉を続けた。
「その、これは良いことなんだ。霊になるのは、悲しい気持ちや苦しい気持ちのまま死んでいった人だけだから。つまり、君のお母様が幽霊になっていないということは、そういう苦しみがなかったということだ」
「そうなんだ、ありがとう」
「見たところ、君にはそのほかの悪い幽霊も憑りついていない。だから君はこれからも大丈夫だ」
「大丈夫なんだ」
「うん」
「ありがとう。私は、」
私は自分の名前を名乗った。
「私はこれから授業に戻るけど、君はどうする」
「私はもう少し休んでく」
 加茂君は他の同級生とは違って、自分のことを「私」と呼ぶけれど、それがごく自然に響いた。
加茂君は保健室を出ていった。私はベッドに戻って、眠った。久しぶりに、深い眠りだった。

 それから私は少しずつ体調が良くなって、だんだんと保健室へ行く機会が減っていった。保健室で加茂君に会うことは少なくなったけど、廊下などですれ違ったりすると挨拶をするようになった。真実ちゃんは、いつ知り合いになったの?と不思議そうな顔をしていた。二年生になって真実ちゃんとはクラスが分かれた。加茂君とは中学の三年間で一度もクラスが一緒になることはなかった。でも私はふいに、あの時の、大丈夫、という言葉を思いだす。


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