最初に甚爾君を見たのは、江ノ島だった。

 私は短大の友達に誘われて、江ノ島にある海の家にバイトに来ていた。
 普段はファミレスでバイトをしていた。一応、その経験を見込んで、ということで夏休みの間だけ海の家で働くことになったのだ。
経験者優遇というだけあって、夏休みシーズンの海水浴場は目が回るほどの忙しさだった。

 それは、ある程度海の家にも慣れてきたころだったと思う。
お昼どきのことだった。
店内はお客さんでごった返していて、私と友達は厨房と客席を行ったり来たりしていた。

「なに見とんじゃあ、文句あるんか」
ふいに男の人が声をあらげた。
店の中ほどの席で、中年の男性が二人、言い争っていた。
一人はタンクトップから見える腕に刺青が入っていて、もう一人は派手なシャツを着たパンチパーマの男だった。二人とも背が高かった。いかにもという雰囲気だった。
言い争う声は次第に大きくなっていって、もう少しで掴みあいになりそうだった。
 周囲のお客さん達は目を合わせないようにしていた。
私たちはレジの後ろまで下がって、小声で話し合った。
話し合ったといっても、ただうろたえていたようなものだ。店にいるバイトは私たちと、厨房に若い女の子が一人だけだった。
店長は買い出しに出ていた。
「こんな時に!」
「ねえ、どうしよう」
 その時、端の席に座っていた人が立ちあがった。
争っている人達よりもさらに体格のいい、若い男の人だった。水着の上に白いパーカーを羽織っていた。目つきが鋭くて、口元には傷跡があった。
その人は、喧嘩をしている二人の席へすっと歩いていき、腕まくりをしてテーブルに手をついた。
勢いでテーブルが揺れて、グラスがガチャンと音を立てた。
そして一言、二言、何事かを囁いた。
そのまま彼らは睨みあっていた。
しばらく睨みあいが続いたあと、喧嘩をしていた二人の男達の方が、派手な舌打ちをして、渋々という感じで店から出ていった。

 割りこんでいった男の人は、静かに自分の席に戻っていった。
連れらしい、女の人の隣に座る。その女の人は、黒髪のショートカットで、すごく可愛かった。
店内に少しずつ穏やかなざわめきが戻ってきた。

 友達が、いちごのかき氷を二つ作ってその人たちの席まで持って行った。「一緒に来て」と言われて、私もかき氷を運んだ。
「さっきはほんとにありがとうございました。これ、よかったら。サービスです」
 海の家の店長はこの子の親戚だったので、多少の融通は効いた。
「わあ、いいんですか?ありがとうございます」
でも、かえって驚かせちゃったかも、この人我慢できなくて、ごめんね、と女の人は付け足した。
男の人の方は、私たちに向かって会釈をした。
「騒がせてすまなかったな」
少し掠れた、落ち着いた声だった。
「いやいや、ぜんぜん、助かりました、ありがとうございます」
私と友達は何度も頭を下げた。

 二人が帰ったあと、友達は興奮した感じで話しかけてきた。
「ねえさっきの人すごいかっこよかったね」
「うーん、そうかなあ」
「身体めっちゃ鍛えてたね。腕とかすっごかった」
「うん」
「#name#はああいう人、あんまり?」
「あんまりかなあ。なんか怖かったよ。カタギじゃなさそう」
助けてもらったことはありがたかったけれど、私は、腕っぷしで威圧するような男の人がどちらかというと苦手だった。
「ちょっとワルっぽかったね。でもそこが良くない?」
「ああいうのがタイプなの?」
「タイプ!メアド訊けばよかったかな、いやでも一緒にいた子、彼女かな、彼女だよな〜」
「すごいかわいかったね」
本当に可愛かったのだ。かき氷を一口食べて笑ったその表情が、ぱっと明るくて、記憶に残る笑顔だった。



 次に甚爾君を見たのは、ファミレスだった。

 私は短大を卒業した後も、バイト先のファミレスでそのまま働いていた。
甚爾君がお店に来るようになったのは、私が卒業してシフトに沢山入るようになってしばらく経ってからだと思う。
 深夜や早朝の人が少ない時間帯によく来ていたから、目立っていた。接客をしながら、どこかで会ったことがある気がしていたけれど、最初は思いだせなかった。お店に来る度に誰だったかな、と考えていて思いだした。江ノ島の海の家で見かけた男の人だと。
 私が夏休みの記憶を思いだしたその時、甚爾君は、髪の長いすごく綺麗な女の人と来ていた。江ノ島で一緒だったショートカットの彼女も美人だったけれど、あの人とは全然雰囲気が違っていた。
甚爾君は、一人で来ている時もあったけれど、そんな風に誰かと一緒の時もあった。一緒に来るのは男の人だったり女の人だったり色々だった。女の人たちはみんな綺麗だった。ジーンズにスニーカーの女の子もいたし、赤い口紅の似合う、少し陰のあるお姉さんの時もあった。
でも、あの江ノ島の時の彼女と来たことは一度もなかった。

 甚爾君は、男の人と来ている時も女の人と来ている時も、その連れの人に会計を全部払ってもらっていた。
だから、甚爾君がレジの方まで来るのは一人の時だけだった。
そんな、何度目かの、一人での会計の時だった。

「あ、江ノ島」
甚爾君は私の顔を見て言った。
「どこかで見たことある気がしてた」
甚爾君は、私の制服の名札を指差しながら
「下の名前は?」
と訊いた。
「#name#、です」
私の答えを聞いた後、自分を指差しながら
「甚爾」
と言った。
「とうじ」
と私は復唱した。甚爾君。
「海の家と、ここ、どっちが本業?」
「ここ、ですかね。あれは、あの夏休みだけ、友達に誘われて少しバイトしてたんです」
「海の家と、ファミレスと。あんた、根っからのウェイトレスなんだな。海の家でもあんたが一番手際がよかった」
「別に、ウェイトレスなんか好きじゃない」
 そう、なんとなく口に出してしまってから、慌てて接客用の曖昧な笑顔を再び顔に浮かべ直した。
私は笑顔を浮かべたままレシートとお釣りを差し出した。
甚爾君はレシートと小銭を受け取って、帰っていった。

「さっきの人知り合い?」
甚爾君が店を出た後、テーブルの片付けが終わって戻って来た同僚にそう訊かれた。
「いえ、別に」

 甚爾君はそれから、一人の時と、男の人と来ている時だけ、私に話しかけるようになっていった。
何を話したか、詳しくは覚えていない。大したことではなかったと思う。天気の話とかを、オーダーの時に、ひとことふたこと喋るぐらいだった。


 そしてその日。甚爾君は昼過ぎにやってきて、窓際の席に座っていた。女の人と向かい合って、何時間も話しこんでいた。私がこの店で甚爾君に気がついた時と同じ、髪の長い綺麗な人だった。

 夕方になって、そろそろ混み始める時間帯だな、まだ席は空かないかなと思いながら、窓際の席をちらりと見た時。
女の人がグラスを引っ掴んで勢いよく中身を撒いた。
向かいの席の甚爾君は頭から水を被った。
女の人は席に置いてあったバッグを手にして、走り去るようにして店を出て行った。
甚爾君は追いかけるでもなく、水を被ったまま同じ場所に座っていた。
私は、とりあえず布巾を数枚掴んで持っていった。
一枚を使ってテーブルを拭いた。
もう一枚を甚爾君に手渡した。甚爾君はその布巾で髪を拭った。台拭きだけど、消毒して乾かしてるやつだし、まあいいか。

 その後、甚爾君はレジにやってきて、
「騒がせてすまなかったな、これありがと」と言って台拭きを差しだした。
私は、いえいえ、というようなことを言いながらそれを受けとった。
甚爾君は伝票を渡してきて、私はレジを打った。
「帰るところが無くなった」
そう言って、甚爾君は私の渡したレシートを裏返した。
「書くものあるか?」
私は自分のポケットに入れてあったボールペンを差し出した。レシートの裏にさらさらと数字が書かれていった。
「俺の。ここ終わったら電話してくれ」

シフトが終わって、店の裏口を出た。
すっかり夜になっていて、あたりは暗かった。
鞄から携帯を取りだした。
そして、私の指は、暗闇の中で11桁の番号を押していた。

 私は自分のアパートの部屋に甚爾君を連れて帰った。
それからセックスをした。甚爾君はセックスが上手かった。怖いくらいに気持ちがよくて、最後には声も出なかった。

 そのまま甚爾君は私のアパートに住み着いてしまった。学生の時からずっと住み続けている、エレベーターなんか無い、狭い、畳敷きの、でも日当たりだけは良い部屋。
 甚爾君は部屋にいる時はだいたい寝ていた。それか、テレビで競馬や競輪の中継を見ているか。
たまに仕事だと言って二、三日から一週間ぐらい家を空けることがあった。
家を出る時に、お金が必要だと言われて、お金を貸していた。一度に、一万円から三万円ぐらい。返ってきたことはない。


「あの人とは別れちゃったの?」
「目の前で見てただろ」
「あ、違う違う。江ノ島で一緒だった女の子」
「別れた」
「そっか。あの子が一番かわいかったのに」
本当だ。あれから甚爾君は色々な女の子と一緒にファミレスに来ていたけれど、あの髪の短い女の子といた時が、なんというか、自然な雰囲気で良かったのになと思っていた。


 甚爾君が私の家に住むようになってしばらく経った頃。
私は鎖で繋がれるようになっていた。

 手錠みたいな形で、鍵のついている金属の輪を片足に填める。輪の先には長い鎖がついていた。鎖の端は金具が付いていて、何かに固定できるようになっていた。
お風呂にもトイレにも行けるし、ベランダの窓には手がかけられるけど、外に出ることはできない。いつも適当にテーブルの足とかに金具を引っ掛けているのに、鎖の長さは測ったようにぴったりだった。
 鎖の鍵は甚爾君が持っていた。銀色の鍵。
鍵は小さくて簡単な造りをしていて、鎖も軽かった。多分、本気で引っ張ったら私の力でも外れただろう。
だからただの遊びのようなものだと思っていた。

 始めは、甚爾君が仕事で家を離れる時だけだった。次第に、ちょっとコンビニに行くときでも、私の足に鎖を付けてから出かけるようになった。
どうしてこんなことをするのか、甚爾くんに訊いたことがある。
「お前は俺のこと置いていくなよ」
そう言った甚爾君の瞳は静かだった。

 ファミレスは辞めた。
 鎖をかけられるようになる、少し前だったか、後だったか。覚えていない。
甚爾君が、次第に私が出勤することを嫌がるようになっていったからだ。
私が玄関先で靴を履こうとしていると、決まって後ろから腕をまわして抱きしめて、行くなよと囁いた。
「働かないとお金無くなっちゃうよ」
「いいだろ」
「良くないよ」
「いいから。まだここにいろよ。行くな」
「どうして」
「死ぬかもしれないだろ」
「死なないよ。普通にバイト行って帰ってくるだけだよ。なんで死ぬの」
私は笑って、甚爾くんの腕から逃れようとした。すると、じゃれつくように腕で抑えこまれた。
「道で通り魔に刺されるかもしれないだろ」
「大丈夫だよ。まだ外明るいし」
「コンビニ強盗に遭うかも」
「じゃあ、コンビニ寄らずにまっすぐ行くよ」
「客にフォークで刺されるかも」
「フォークじゃ刺されても死なないよ」
「フォークでも死ぬ。#name#はなにも知らないんだな」
甚爾君は優しい声でそう言って、私の首筋に歯を立てた。
それでも、最初の頃は、時間が来れば離してくれていた、はずだ。

 何日か続けてバイトを休んでしまった後に、店に電話して、辞めますと伝えた。
家に郵便で書類が送られてきて、名前を書いて返送した。
制服も宅急便で返した。それで終わりだった。

 チラシや、銀行や役所から送られてきた封筒がいつもテーブルの上に溜まっていた。
一度封を切ったものもあったけれど、読まずに積んであった。
紙を広げても、文字が頭に入ってこなかった。
「甚爾くん、お金払わないと、お水止まっちゃうよ」
たぶん、しがないアルバイトの私の口座は心もとないことになっていたはずだ。家賃の引き落としもある。
お金なくなっちゃうよ、と私が言っても、甚爾君は聞いているのか聞いていないのか分からない感じだった。ねえ、とうじくん、と呼ぶと、片腕で抱き寄せられてキスをした。そうされるとなんだかぼんやりした気分になった。甚爾君は私の足を縛ったりするのに、それ以外はずっと優しかった。優しくされると、どんどん頭に霞がかかっていくみたいだった。

でも、最後まで水道は止まらなかったから、知らないうちに振り込んできてくれたのかもしれない。


 日に焼けた畳の上を、鎖を引きずって歩くと、しゃらり、と冷たい音がした。
「甚爾君、私のこと、そんなに好きじゃないくせに」
「好きさ」
「いなくならないでほしかったのは、私じゃないでしょ」
甚爾君は、すっと目を細めた。最初は怖かった鋭い瞳を、私はその頃にはもう随分好きになっていた。
「おいてかれるのが怖いだけでしょ」


 私は軽い夏風邪を引いていた。
 ただぼんやりと畳の上に寝ていた。寝返りをうつと、ひんやりとした鎖が足に絡まった。
一人の部屋は静かで、空咳が響いた。夏の終わりの光が差していた。
甚爾君は何日も帰ってきていなかった。

「仕事行ってくる。しばらく戻らねえ」
そう言い残して甚爾君は家を出た。
私はその時から既に風邪気味だったけれど、食べる物は冷蔵庫にあるし、まあいいやと思っていた。
立ちあがって見送るのが億劫で、畳の上に寝たまま、「いってらっしゃい」と呟いた。
まだ暑い、午後だった。
甚爾君が玄関の扉を開けると、午後の光が差しこんできた。私はその後ろ姿をじっと見ていた。太い首筋にかかる柔らかい黒髪。日焼け止めを塗ってるところなんて見たことないのに、不思議に白い耳のうら。
 それが私が最後に見た甚爾君だった。


 微熱があって、うとうとしていた。
携帯の着信音が鳴った。半ば夢の中にあって、その音を聞いていた。
仰向けに寝たまま、携帯を掴んだ。そして画面に表示されている名前を確かめた。
「はい」
「#name#か」
「うん。そうだよ。どうしたの甚爾君」
「愛してる」
それだけ聞こえて、通話は切れた。
後から何度かけ直しても、甚爾君が出ることはなかった。

あの電話はなんだったんだろうとずっと考えていた。微熱は下がらなくて、浅く眠ったり起きたりしていた。


ドアの開く音はしなかった。
足音もしなかった。
寝返りを打って、仰向けになると、知らない人が私を見下ろしていた。
本当に全然知らない男の子だった。
真っ白な髪。
真っ黒なサングラスをかけていた。

 その人は学生服のズボンのポケットから、銀色の鍵を取りだした。私の足の鎖を掴んで、鍵を差しこんだ。
カチッ、と軽い音を立てて、鍵は開いてしまった。

「甚爾君はどこに行ったの?」
「死んだよ。僕が殺した」
「そっか」
甚爾君。死んでしまった。
「可哀想に」
甚爾君。
「どうしてあなたが鍵を持っているの?」
「あいつに渡された。ここの住所といっしょに」
 鍵を、甚爾君じゃない人が持っているということは、本当に甚爾君はもういないんだろう。ここじゃない遠くに行ってしまったんだろう。電話越しの、愛してる、という声がまだ耳に響いている気がした。涙があふれてきた。熱がどんどん上がっていくみたいだった。
「俺の最後の女だ、って言ってた。あんたのこと」
甚爾君。甚爾君。
「置いていくなって言ってたのにねえ。自分がおいてっちゃうんだ」


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