桜の下に帷は落ちない


それは、貴方が放った一言から始まった。

「今夜、一緒にお花見に行きましょうよ!」

それは暖かな気候に恵まれ、桜の花も満開を迎えたある日のことだった。


春。卯月。
寒さから解放され、人々の心にも明るい色が差す季節だ。

しかしそんな春の訪れを喜ぶ余裕もなく、宮田は今年も診療所で働いていた。
のどかで平和としか言いようのない穏やかな日々が待っていると思ったのだが、そう甘くはなかったようだ。

「宮田さーん、行きましょうよ! 新しいお酒もあることですし」

医院長室の革張り椅子に座っているのは、村唯一の病院の医院長・宮田司郎だった。

彼は困ったように眉を寄せて目の前の男を見つめる。

そこにいたのは、宮田より少しほど若い男――石田徹雄だった。
彼の年齢は二十代前半で、酒に関することを黙っていれば好青年である。


何しろ今はこの男はいつもこうやってやってくるのだ。仕事中に何度も話しかけてきては、しつこく誘って来る。
そのたびに断っているというのに、懲りない奴である。


「石田さん、少し考えてもみて下さい。村の警官ともあろう方が、きちんとした巡回もせずこんな調子で宜しいとでも?」


呆れた口調で言うと、石田はむっと口を尖らせた。

「大丈夫ッスよ。駐在所は先輩に任せてきましたし、ちゃんとパトロールしてますって」

そう言って胸を張る彼に、宮田は大きくため息をつく。
確かにここ最近は大きな事件もないせいか、あまり真面目な勤務態度とは言えないだろう。

この村じゃなかったら、すぐにでも辺鄙へんぴなところに飛ばされているだろう。


「ははっ……」


思わず笑みを浮かべると、石田は不思議そうな顔をする。


「何笑ってるんですかあ?」


職務怠慢で色々なところをタライ回しにされていることが容易に想像できる、なんて言ったらどんな反応をするだろうか?

それにしても、どうしてそこまで花見に行きたがるのか不思議でならない。

どうせなら可愛い女性と一緒に行けばいいものを……と考えたところで、宮田は自分の思考を打ち消そうと首を振った。

(何を考えているんだ俺は……)

そんなことを考えている場合ではない。
とにかく彼をどうにかしなければ……。


宮田は再び大きく溜息をついた後、諦めたような表情を浮かべながら言った。

「はぁ……分かりましたよ、一緒に行ってあげますから」

途端に石田の顔がぱあっと明るくなる。
子供のように無邪気に笑う姿を見ると、つい許してしまいそうになる。

これがいわゆる"惚れた弱味"というものなんだろうか。

「ですが、飲みすぎても俺は介抱しませんからね」

釘をさすことも忘れずに言うと、石田は笑顔のまま答える。

「あ、えーと……なるべく、慎みますよ」

まるで子供のような人だ。
だが、そんなところも含めて彼に惹かれてしまっている自分がいることを自覚している宮田であった。

「じゃあ、また夕方くらいに迎えに来ますね!」

嬉しそうに手を振り医院長から去って行く背中を見ながら、宮田は小さく呟く。

「本当にあの人は……俺が断ることなんか予想していないんじゃないか」


診察を終えた宮田は、患者のカルテへの書き込みや整理をし終え、戸棚にしまいつつ窓の外を見やる。

地平線に太陽が少しずつ飲み込まれていくように沈んでいる所で、空の上の方を見ると徐々に濃紺に染まっていき、もうじき夜の帳が落ちることを示していた。

すると医院長室の扉がノックされる音が聞こえてくる。
宮田は慌てて書類を棚の中にしまうと返事をした。

「どうぞ」

入ってきたのは石田徹雄だった。

彼は手に紙袋を持っており、それは恐らくこれからの花見のつまみや酒が入っているのだろうと宮田は思った。

石田は部屋の中に入ると、早速本題に入る。
彼は宮田の机の上に持ってきたものを置くと、満足げな顔をしながら口を開いた。


「じゃあ、行きましょうか!」


その様子からは、今日も今日とて自分の誘いに乗ってくれたことに喜んでいるのだと分かる。

そんな石田の様子を見て、宮田は何度目になるか分からない苦笑いを浮かべていた。



そして夜になり、二人は連れ立って近くの公園へとやってきた。

そこは小さな児童公園だが、桜の木が何本も植えられており見頃を迎えていた。

昼間とは打って変わって静まり返った園内には誰もおらず、時折吹く風によって花びらが舞っていた。

そんな幻想的な風景の中を歩いていると、石田は足を止めて感嘆の声を上げる。


「うわ、っはぁー……すご」


宮田もつられて立ち止まり、辺りを見渡した。


「幻想的ですね……」


そこには満開を迎えた薄紅色の木々たちが、月明かりを浴びて仄かに輝いており、れはまさに絶景と呼ぶに相応しいもので、宮田はしばしの間言葉を失ってしまった。

隣にいる石田も同じようで、目の前に広がる景色に見入っているようだった。


しばらく二人でその美しさに浸っていると、石田は我にかえったかのように声を上げた。


「あそこの端のベンチに行きましょう!」


そう言って指差したのは、ちょうど木陰になっている場所だった。宮田も異論はなく、素直に従うことにする。

石田に促されて先に腰掛けると、少し遅れて彼が横に座る。

すると早速、宮田にも一本手渡すとプルタブを開ける。
プシュッという小気味よい音と共に、ビール特有の芳しい香りが漂ってきた。
そのまま缶を口に当てると勢いよく流し込み、ゴクッという喉が鳴る音をさせながら飲むと、ぷはぁと息を吐いた。

その様子を横目で見ていた宮田は呆れたような視線を向けると、一口飲み込んだ。


「石田さんも、たまにはいい仕事しますね」


少し皮肉めいた口調で言うと石田は、仕方なく笑うと肩をすくめた。


「たまには、って……ほんと、宮田さん厳しいなあ」

「まあ、褒める気はさほど……」

「ないんですか!?」

「冗談ですよ。……今日は、誘ってくれてありがとうございます」


そう言って微笑む宮田の顔を見た瞬間、思わずドキッとする。

普段は無愛想で無表情なことの多い彼の笑みはとても貴重で、それが自分に向けられていると思うと、どうしようもなく嬉しく思ってしまう。

そんな感情を悟られまいと誤魔化すように、再びビールを煽った。


「いやぁ……それにしても、本当に綺麗ですねぇ」

「ええ、本当に……」


それからしばらくの間、二人の間に会話はなかった。

しかし、不思議と居心地の悪さを感じることはなく、むしろ穏やかな時間が流れていく。

ふと、宮田が思い出したかのように言った。


「石田さん、俺は嬉しかったです」


「え?」


唐突な発言に、石田は目を丸くする。


脈略もなく語りだした宮田に戸惑う彼に構わず、この雰囲気によって饒舌になっている自分を自覚しながら、宮田は続けた。

伝えなければ、後悔して一生引きずってしまいそうな気がしていたからだ。


「落ち着くんだ、石田さんといると。全てのしがらみを忘れて、素の自分になれる気がする……」


石田は月明かりに照らされた、整った宮田の横顔を見つめている。

「……」

その瞳はどこか熱を帯びていて、まるで自分に恋をしているかのような錯覚に陥りそうになる。


「だからって別に、あなたを感情の捌け口にしようとかではないんだ。ただ単に──」


すると宮田はゆっくりと石田のほうを向くと、星の光を集めたような煌めく瞳で見据えてきた。



「……あなたのことが、好きなんだ」



一瞬、時が止まったように感じられた。

心臓が早鐘のように鳴り響き、呼吸が荒くなるのが分かった。それは決して、アルコールが回っているからだけではなかった。

「…………」

宮田は何も言わずにじっとこちらを見てくる。
その眼差しは真剣そのもので、冗談などではなく本気で言っているのだということが分かる。


「あ、あの、その……俺も宮田さんと、同じ気持ちです……!」


石田は緊張のあまり、裏返ってしまった声で答えていた。

そして自分の想いを伝えるべく、必死に言葉を紡ぐ。


「その……最初は確かに、宮田さんのことは苦手だったけど、でも今は違う! 宮田さんと一緒にいて、すごく楽しいし、頼りにもしてくれるし……そう、好きです!宮田さんが!」


宮田は驚いた様子だったが、すぐにいつも通りの冷静さを取り戻すと静かに口を開いた。


「そうか。なら、良かった」


「……へっ?それだけですか?」


あまりにもあっさりとした返事だったので拍子抜けしてしまい、つい間抜けた声を出してしまう。

そんな石田の様子を見てか、宮田はクスリと笑うと立ち上がった。


「嘘ですよ。こっちに来てください」


「えっ、ちょっ、ちょっと待っ……」


宮田は有無を言わせぬ態度で石田の腕を掴むと、強引に立ち上がらせる。

そして抱擁を交わすかのように、その身体を強く引き寄せた。
バランスを崩した石田は彼の胸の中に飛び込む形になるが、宮田はしっかりと抱き留めると耳元で囁いた。


「好きですよ、石田さん」


そして赤く染る頬に手を添えると、優しく唇を重ねた。
それは触れるだけの、優しいキスだった。

やがて名残惜しそうに離れると、二人はお互いの顔を見る。


「宮田さん、これってお酒のせいですか?」


「そうかもしれませんね……」


そう言って宮田は、恥ずかしそうにはにかむと抱擁を解いてベンチへと座り直した。

すると石田は、先ほどまでの感触を確かめるように指でまだ熱の残る自らの唇をなぞりながら、呟いた。


「なんか、夢みたいです」


宮田はその言葉を聞くと、彼の手を取って握り締めた。


「これからもよろしくお願いしますね」


「はい……!」


満天の星空の下、二人の影は再び一つになった。


幻想的な世界に浮かぶ二人を切り取るようにして見守る月が白く仄めき、それに合わせて薄桃色の花弁が舞う。


その光景は、言葉では言い表せないくらいに美しく、そして彼らを祝福しているかのようであった。






fin.




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