現実は容赦なく
昭和12(1937)年の春、「大東亞文化協會」と掲げられた札を確認してから、煉瓦造の建物を見上げた。今日から此処が私の職場になるのだ──
一階は一般企業が一部入っており、二階から上は表向き「大東亞文化協會」という企業が入ってることになっている。
だが、実際は違う。
「本日よりD機関の世話係として派遣されました井原と申します。どうぞ、よろしくお願い致します、結城殿。」
一礼し、見据えた先にいるのは凄腕のスパイと言われた、帝国軍人である結城という男だった。窓を背にしているため、その光で表情を伺うことは出来なかったが、その目線だけで相手を萎縮することが出来るのは、やはり只者ではない。
D機関と名付けられたその組織は、帝国陸軍内に最近設立されたスパイ養成学校の通称である。
「…特務課がうちに興味を持つとはな。種田は元気か?」
「ええ。結城殿から代理人(エージェント)に必要な技術を学んでこいとも言われました。」
その言葉に、ふんと鼻を鳴らした目の前の男に苦笑いをする。特務課とD機関の担う役割は似ているようで、似ていない。しかし、スパイとエージェントの役割は似ている。日本語表記するならば、諜報員と代理人である。スパイである彼らは、他国に溶け込みその情報を収集することが仕事である。対して、この国でのエージェントは国内の異能力者を監視するために様々な組織に潜入していたりする。対象が国内なのか国外なのか、と異能を持っているのか、という二点が主な違いと言えるだろう。最も、昨今は国内に潜むスパイに対して注意を払う必要があるから、明確な違いと言えるのは後者だけだろうが。
「お前には訓練生の世話役をしてもらう。」
来年からここで共同生活をするのは、スパイのたまご達である。講義内容は多岐に渡っていて、鍵開けや医術、心理学、ジゴロといった特殊な内容まで学ぶという。となれば、私生活であるご飯や洗濯などまで手が回らない、いやその時間を取らせることも惜しいというのは納得出来る。最も、彼らの雑務をこなすのは表向きの理由であり、実際はこの機関の情報流出の阻止と異能力者が紛れ込むことを防ぐといったのが任務の目的である。
「分かりました。」
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それからの日々は、訓練生を迎えるための雑務の毎日であった。元々受け持っていた特務課の仕事は続行したままだから、仕事が増えた感が否めないが仕方ない。
最近は、専ら日々運ばれてくる備品などを搬入に当たり指示を出している。搬入を行うのは、一般の業者に一見見えるが、結城殿が抱え込んでいる協力者である。そして、運び込まれる家具は大体が中古品である。陸軍本部から予算が下りなかった為に新品を買う余裕がなく、その結果が中古品の搬入となった。
それから、だいぶ日が経ち学校としての体裁が整ってきたある日、結城殿の執務室に呼び出された。ノックをする時に、何やら話し声が聞こえてきた。不思議に思いながらも、呼び出しをこのタイミングでしたということは、顔を見せても良い客なのだろう。
「失礼します。」
視界に入ったのは背広を着た男性と、その奥に執務机のを挟んで結城殿がいた。男性は人が入ってきたことにまず驚き、私の顔を見てから更に驚いたようである。同様に私も彼の顔を見て驚いた。
「…なぜ、朔が?」
「それはこっちの台詞なんだけど?」
その男は幼馴染である佐久間であった。彼が軍に入ってからは、以前のように頻繁に顔を合わせることはなくなった。一連のやりとりに結城殿はため息をついたあと、気を取り直したように口を開いた。
「参謀本部から連絡係として、これからこの機関に出入りする佐久間中尉だ。」
「………世話役の井原です、はじめまして。」
結城殿の言葉に秘められた意味は、言外に初対面として振る舞えということなのだろう。結城殿程の情報網の持ち主であれば、こちらの素性に関することは全て調べ上げているのだろうが。
何か言いたそうな顔をしたが、言葉を飲み込んだ佐久間は一言名前を名乗るだけに留めた。
「井原、建物の案内をしろ。」
「はい、分かりました。」
結城殿に一礼して、佐久間を扉へと促した。
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