舞台上のドライアイスよろしく、観劇後特有の高揚感と名残惜しさがふわりとかすかに残っている。わたしは静まり返った歌劇場で、今日まで知らなかった形の余韻に浸っている。
  Caribbean Groove。
 入学前も観たことのある、これまで幾度も様々な形で披露されてきた綾薙の伝統的な演目。今日はここでteam柊が、辰己くんが、演じきった演目。
 陳腐な言葉かもしれないし、演者に対する贔屓目かもしれない、それでもひどくひどく、そう、感動してしまった。いつまでも海の上に居たいと思った、なんてセンチな思いでわたしは今も席を立てずにいる。

 わたしは辰己くんに憧れている。
 セットの整ったままの舞台、中央を飾るに足る存在感を持つ船の、船頭に目を配る。辰己くん演じるクリスの大好きな場所。きらきらしていたな、すごく、すごく。
 初めてではないCaribbean Grooveが、こんなに特別なものに思えるくらい辰己くんが輝いていたし、表現が失礼で本人には言えないけれど、かっこよかったと心から初めて思ったのだ。
 わたしは辰己くんに憧れている。それは、辰己くんも時折思い出話として口にする、いわゆる「辰己姫」を観てのことだ。だからこそ、どうしても、気品があり、美しく、たくましく、輝いていたとしてもわたしの中の辰己くんは「かわいい」がよく似合う人だったのだ。そう、今、公演を観るまでは。どくどくと脈を打つ心臓は、彼に似合う形容詞が変わるのと同時に憧れの形をも変えてしまう。「すきだなあ」そう、思うたびに、このあと辰己くんに会ったとしてCaribbean Groove観たよ。さてその後、どう感想を述べていいのかわからなくなってしまう。思案しても思案しても、どうしたことか彼でいっぱいになってしまったわたしの頭は、演者としての彼に伝えるには相応しくない言葉ばかり引っ張り出してきてしまう。
 観劇の余韻に対しては冷静になれば現実の問題が付きまとう。次の演目の準備まではまだまだ時間のぽっかり空いた、一人ぼっちの歌劇場に凛とした、それでいて柔らかい声が響く。

「苗字?来てくれたんだね」
「辰己くん!」
「撤収作業に入ろうとしていたら姿が見えたんだ。裏に来てくれてよかったのに」

 ふにゃりと笑う姿からは、さっきまで勇敢で無邪気で誰よりも王として船長として毅然であったクリスを演じていた彼からは想像がつきにくい。でもそれが、わたしの知る辰己くんをたらしめていた。

「船、見ていたよね?立ってみる?」

 え、とかいいの、とか返事にならないような声をあげるわたしの手を自然に取る辰己くんは、長らく一つになっていた歌劇場の椅子とわたしとをいとも簡単に切り離して、軽やかに静かなステージの上へと連れ出す。波の音もないのにざあざあと鳴るのは、きっとわたしの心臓が色々とうるさいからだ。
 こともなげな辰己くんは「実はあまり段数がないから気をつけてね」と、先導し、袖からでも視線がわかりやすかったのだろう、わたしが先ほど眺めていた船頭に案内してくれた。足と目で確かめた船の階段は確かに普通の階段よりも高くてこれをするすると登って降りて駆けていたってすごいな、かっこいいな、と必死に飛ばそうとしていた感情をずるずると引き連れてくる。わたしはまだ大仰なセットを使った動きの多い演目をやったことがないから、勉強になります。と、心臓を撫でつけて辿り着いた船頭から、今度は逆にわたしの座っていた席を見つめる。

「クリス船長の景色……」
「ふふ、クリスを通して俺にとってもお気に入りの景色になったんだ」

 「俺はクリスになれていた?」そう、わたしの感じたクリスのように無邪気に辰己くんは尋ねた。「勇敢で無邪気で誰よりも王として船長として毅然で、あと……かっこよかった」口から滑り出た言葉に加速度を増した羞恥が押し寄せて「あ、あのっ辰己くんってやっぱり姫のイメージが!あったから!びっくりしちゃって!」墓穴に墓穴を掘り進めるわたしに辰己くんが言う。

「ふふ、未だに印象に残る役柄が出来たことは光栄だと思ってるよ」
「……わたしね、憧れたんだ、辰己くんのやった姫に」
「嬉しいな。でも苗字には負けるだろうけどね」

 ご冗談を、と思うわたしとは対照的に辰己くんは至極自然なことのように言い放つ。辰己くんには適わないよと笑って言うはずだった言葉をすっと飲みこむ。ピンスポットに視線を移してしまったのは、照れと、気恥しさと、喜びを隠すため。

「いつか姫役をする時が来たら、辰己くんに観にきてほしいです」

 ぎこちなくなった言葉が揺らした空気は、一呼吸分だけ静けさを取り返す。静かに踵を返した辰己くんに、動揺を隠せずにいるとくるりと向き直られ、「なら俺は」わたしの歩みはすんでで止まる。

「その時は君の前で王子になれるかな」

 姫じゃなくてね、と笑う辰己くんがあまりに自然に手を取るから、もうとっくになれているのだとか、今日実はあなたをわたしの王子様にしたくなってしまったのだとか、言いたいことばかりが募る。でもそれは、きっといつかのために取っておこうと思うから、とりあえず今はこの階段を降りきったら辰己くんに公演お疲れ様って伝えて、それから。