「あ、やぁべ」
 わたしが一人暮らしをするとなってすぐに、お母さんに無理を言って買ってもらった真っ赤なソファベッドで、たまにケラケラ笑いながらテレビを見ている和泉くんが言った。わたしは隣で作業いいね巡りをしていたところで、どれくらいぶりかに顔をあげると、画面にはふんわり甘そうなたくさんのスイーツと、それに似合うアイドルが2人映っている。
「和泉くん、浮気だあ」均一なトーンでからかい混じりに口にすると、和泉くんはこれまた事も無げに「そっちじゃねぇし」鼻で笑う。

「見てたらプリン食いたくなった」
「コンビニ行く?」

 遊園地の待機列にいるのだという、男女グループのわちゃわちゃとしたストーリーを最後に、親指でぷちり、独特の音を鳴らす。外に出るならと、壁にかかった最近お気に入りのテディベアライクなニットコートを取ろうと立ち上がるのは、肩に乗った和泉くんの頭で阻止された。

「どっちかっつーと、スーパー?」
「ええ、遠いよ?お散歩?」
「んーん、名前ちゃんが作ったのが食いてぇだけ」
「コトコト?」
「そぉ。コトコト鳴って楽しいって言ってたの思い出した、し、単純に名前ちゃんの手作りが食いたくなった」

 本当に本当にやることがなかったいつかの休みに、突然プリンが食べたくなって、時間もあるしと、普段めったにお菓子作りもしないのにプリンを作ったことがある。和泉くんが言うのはその時のこと。難しかったらやめようと弱腰でインターネットでレシピを検索して、びっくりするくらいの工程の簡単さにテンションの上がったわたしは、やけに奮発して黄身の濃いたまごと普段は使い切れないから避ける大きな袋の砂糖と、それから耐熱容器を複数買って帰った。一人暮らしなのに。
 部屋にある鍋のサイズをすっかり忘れて買った容器はギチギチどころか、一つだけちょっと角が浮いて揺れていて、殊更コトコトと震えるように鍋底にぶつかって音が鳴っていた。調子に乗って作りすぎたプリンは、冷蔵庫でたくさん寄り添っていて、それから数日の主食になっていた。

「和泉くん途中で飽きちゃいそう」
「ま、否定はできねえケド」

 そう笑った和泉くんは「来週ハロウィンじゃん?」言って、背もたれににかけてた鈍いシルバーのスカジャンを手に取りスッと立ち上がる。結局出かけたいんだな、と思いながらわたしもコートを手に取って「お菓子はプリンかあ」相槌を返す。

「ドンキ行こうぜ」
「おうち飽きちゃったんでしょ。いいよ」

 笑いながら、上着のもふりとした感触を楽しむ。和泉くんは軽そうなボディバッグを身につけて、スカジャンに袖を通しながら側にくる。

「プリンの材料買えるし、あと仮装すんの買おうぜ。名前ちゃん何か着てよ」
「え、いいよ今年もう買ったもん」
「え」
「あ」
「うっそ、マジで?31、夜来っからパーティな」
「友達とー!着るのー!」

 小さな抵抗のように−−実際和泉くんに見られるのは恥ずかしいから嫌なだけなんだけど、指でバツを作って「だから、和泉くんは.......ダメです.......」言うと珍しく和泉くんが食い下がってこない。わかってもらえた?と指をそのまま前にぐっと出すと、それを雑にまとめて掴まれて下ろされる。
 拗ねていますと顔に書くように口を尖らせて「友達ずるくね?俺はどんなイベントでも名前ちゃんと過ごしたくって予定いれてねぇのに」言う。あ、違う、和泉くんとハロウィンを過ごしたくないわけでも、予定を空けていないわけでもないのだと早く伝えたくて、その誤解だけは解きたくて、被せるように「あっ、30だから友達はっ」口にすると、わかりやすく和泉くんの目が開く。
「31は、和泉くんと、いっしょにいる」そう口が動き終わるより早く、掴み直された腕が引かれて和泉くんに抱き締められて、一度瞬間的に力が強くなって距離ができたあと、軽くキスをされる。「出かけるんでしょお」と身じろぐと、楽しそうにしらを切る声が返ってくる。

「わりぃ、すげ、かぁわいかった」

 姿勢は変わらず、頬にキスをされて、にこにこと目を合わせられる。隣にいたときはそれぞれの時間を楽しめていたのに、出かける、つまりは余所行きの気持ちになってから、こうして二人の甘い空気を作ろうとされると、余計に顔に熱が集まってしまう。いつも優しくて気が利くくせに、いちゃつくだとか、わたしを可愛がるだとか、要するに今のようなときの和泉くんはちょっと、ううん、かなり意地悪で、そっと胸を押しても回された腕が解ける気配がない。

「ねーっ、プリンはー!」
「はは、照れてやんの」

 くすくす笑う声が耳にかかる。こそばゆくて離れようとするのがただ見逃してもらえなかったのか、そんなことをすること自体がお見通しなのか、片手は頭に移って「ね、何着んだよ?教えてくんねぇの……?」耳元で和泉くんが続ける。「写真、送るから」――死ぬほど加工して。そう冗談めかして言いたいことも言葉にうまくなってくれない。
 わたしが和泉くんにこうされるのをすきなのを知っていて、和泉くんはこうしているし、なんならわたしが本気で怒ればきっと和泉くんはぱたりとやめるはず。でもそうしないのはわたしが少なからず、やめないで欲しいと思っているからで、きっとそれだって伝わってしまっていて、この話題が引きずっているのだろう。用意した仮装を見られるのも、だけど、何を用意したかを知られることこそ躊躇ってることだけは、きっと知らない。
 けれど、今のこの状況ではさくりと言って楽になるかを考える余裕もなく、和泉くんは「メイドとか?んー、ナース?違うか、そんじゃテッパンで魔女?」とひとつひとつ答え合わせを狙ってくる。魔女は友達が着るものだし、ええいままよと「惜しい、それは、友達、で」告げれば、「近くて名前ちゃんに似合うの俺知ってっかも……当ててい?」妙に確信めいて和泉くんは言う。そう、和泉くんなら短絡的にそれだと決めたわたしのことくらい、わかって、そしてはやく離れて欲しい、この部屋を出て、材料買いに行こう。100人前でも、今なら作るから。

「黒猫とかだろ、な。子猫、ちゃん」

 鼓膜に触れるみたいなリップ音に、耐えられなくなって反射的に後ずさるとあっけなく和泉くんの手も身体も離れる。近づいてくることに構えていると、「行こーぜ」頭をポンと触って、わたしを過ぎて玄関まで向かっていく。こういうのがうまくてくらくらするなあ、もう、急いで後を追えば、ちょうど履きたいと思っていたムートンブーツの履き口が、きれいにこっちへ向けて揃っている。
「行ってきまーす、の」ちゅ。かかとを直している間も開けてくれていたドアから部屋を出て、完全に油断していたわたしの唇にキスをした和泉くんが、慣れた手つきで鍵を閉めた。


HAPPY HALLOWEEN!2019