※共学
ジリジリと焦げるような熱線は感じなくなった。茹だるような熱も、目に入ればしみる汗も、けたたましいセミの声も、今は遥かとは言えないにしろ、気づけばもう昨日のことではなかった。
この間、雨の叩いていた窓には乾いた水滴がついている。今のような茜さす時間になれば、肌寒くなった風が少しだけ開いた隙間から、薄ぼんやりとしながらも澄み切った秋空のような薄水色の軽やかなカーテンを揺らす。空の隣に時間をずらした空がもう一つあるみたいで、なんともちぐはぐに思えた。
長い夜にはまだ遠い、けれども日中のようにはひと気のない放課後の教室には俺、それと、もう一人だけ。
俺と同じくクラス委員を担っている彼女、名前はほんの少しばかり、必要な書類を華桜館に提出して教室に戻るまでの間−−といっても、道中チームメイトに捕まり、職員室では雑務を頼まれたせいでざっと30分強は経っているのだけれど−−ここに一人にしただけにも関わらず、待ても出来ずにすうすう息を立てている。ちっとも気を遣わずに近づいても反応はない。疲れているのはわかるけどと、吐いたため息さえも行き場を失う。枕代わりにされているぐるぐる巻きのキャメルのカーディガンが、名前の居眠りが確信犯であることを物語っていた。呆れるというか笑えるというか、俺を数段程度の棚に上げてもなんともいい性格をしている。
秋はせわしい。中学の時も、今も。先人は何が嬉しいのかこの季節の過ごしやすさにやられてなのか、やれスポーツの、食欲の、読書のと秋は何かの旬の季節にされている。とはいえ俺も好き者であることには間違いなく、ご多分にもれず芸術の秋といった風にここ数年は学園祭運営なりなんなりに身を投じている。もちろん今年も例外なく、自身のミュージカル学科入りをかけた演目がビッグイベントとして控えている。
正直クラス発表に付き合っている暇はないけれど、2年次も声楽科に在籍予定の名前は自身の発表に精を出しても俺たち程には切迫した状況ではないらしく、クラスの出し物にも力を入れたいとのことだった。そうなんだ、頑張れと思っていないわけではない激励に「南條も事務仕事くらいは手伝ってよ」と食い下がられてはクラス委員の宿命かと、しぶしぶ俺は書類を提出しに行ったというのに。
「ちょっとソレはさすがにないんじゃない?って思うけど」
いつだか、かわいいとは本人談でお気に入りなのだと言っていた名前の手元にあるプラスチック製のピンクの魚型ペンケースを、さらけ出されたつむじ目掛けて軽く振る。シャカと数の少ない中身が揺れる音か、なんとも鈍い衝撃のせいか、まだ眠いとモーションが訴える名前の頭が上がる。
「なんじょ、はやい」
「ん〜、今何時だと思ってる?」
頭をもう少しだけゆるりと上げて黒板の上の時計を見た名前は目を丸くする。眠気は未だ残っていそうなものの、その中でころころ表情が変わって面白い。「枕まで作っちゃってさ。それ脱いで風邪ひいたら元も子もないでしょ」と嫌味のつもりで続ければ、懲りていないのか「南條が遅い……」と悪態をついてくる。早いとか遅いとか苦情が的を得ていない名前に、もう1回目覚ましが必要かもしれないと未だ握られたままのペンケースをこつりとぶつけてはみたものの、先述した通りいい性格なのだ、もう驚きもしなければ痛くないことも既にわかっているからなのか、顔をうずめまでしないものの、開き直って自作枕にだらりと引き寄せられていった。
これはしばらくダラダラさせないと動かないかな、置いて帰ろうとしたら立ち上がるかな、そう思案している間にも二波が来たのかうつらうつらと瞼を重たそうにしている。シャッターを上げ下げして、次第に瞼を上げる方が重そうな動きになり、両のまつ毛が離れがたそうにする。普段まじまじと見る機会もないので見えたまんまに、名前まつ毛長いねと事実を告げた瞬間だった。閉店しかけていた目はぱちくりと開き、ぱたぱたとしばたたかれた。跳ねるように急に動いた名前の膝が、天板を思い切り揺らす。
「え、何。地雷だったんなら謝るけど……」
「南條最近!近い!」
「ええ〜……?」
実はコンプレックスだった?本当は短くて化粧に困っているとか?困惑しています、と、隠さずに示す俺に対して、大声を出し、魚の尾びれを掴む名前の顔は赤らんでいる。今に殴りますといった姿勢に、握りやすそうな形のペンケースを憐れむ。ああ、そういう。意識してるってやつか、と合点がいく。元々ならこんな、机一つの距離くらいどうってことなかったくせに、関係が変わればそうもなるのかと目の前の名前を見て悪戯心が湧いてくる。
ひと気のない放課後の教室には俺、それと、もう一人。俺と同じくクラス委員を担っている名前は、つい最近もう一つ俺の知ってる肩書を得た。
「俺的には彼氏だからって意識しすぎって思うけど」
名前の前の席の椅子を乱雑に引き座って目線を合わせれば、名前はなんとも居づらそうにしわくちゃのカーディガンを盾にする。
「あと普通に避けられてんのかって傷つくよねぇ」
責めるようにからかえば、「それは、ごめん…」といじらしく顔を覗かせる。まあそんなに傷ついてはいないというか、面白がって言っているだけなのはまだ名前には伏せておく。俺の動向が気になって仕方がないのだと見張る両の目を裏切ってやりたくなって、堅く握られていないのはわかるカーディガンを掴む片手を取る。呼ばれた俺の名前には、枕を奪うなといったような抗議の色が滲む。帰らせるためにじゃれたのだとこの期に及んで思っているらしい。そうじゃないんだけどまあ、とするりと指の間にそれぞれ指をねじ入ってやわく握れば対照的に名前は固まった。
「まだこうやって繋いだことなかったっけ」
当事者なのだからもちろんわかっていてやっているし、より意識を強めるためだけに言っている。女子の手入れのされた手指はどちらかといえば節の目立たない俺の手にも随分と収まりがいい。俺は別段奥手な方ではなくって、むしろ恋人繋ぎがしたいのだと申告する名前の顔が見たくって、敢えてとっておいていたようなものだった。だけれど別の楽しみ方があるというならそのチャンスはやすやす見逃さない。乗り出すように机一つ分を詰めて、確かめるようにするにらめっこには名前が簡単に折れる。体感コンマももっていない。
「……やっぱりまつ毛長いね、名前?」
口の端はきっと上がったまま。気づけば風は凪いでいる。