するりと彼の指が頬を滑っていくと、片頬が彼の一回り大きな手のひらに包まれる。
その頬の感触に目を何度も瞬かせると、揚羽くんはふと笑みを零した。その表情にドキリとして、思わず名前を呼ぶ。
「あ、揚羽くん」
「なに?」
「……近い、です」
今にも鼻がぶつかりそうなほど、揚羽くんはわたしに顔を近づけている。身を引こうにも後ろにはベッドの柵と揚羽くんが用意してくれたふわふわのクッションがあるから逃げられないし、それがなくてもうまく抜け出せない気がした。
「そんなことない」
「そ、そうかなぁ…………」
変に動いてしまうと鼻先がぶつかってしまいそうで、うんうんと唸ってどうしてこの距離に揚羽くんがいるのと考えてみたけれどわかりそうになくて――わたしはすこし困ったように揚羽くん、と彼の名前を呼ぶだけになってしまう。
先ほどまで招かれた揚羽くんの部屋で世間話をしていただけのはずだ。今日は天気が荒れてしまったから行けなくなった遊園地には今度行こうね、とか見たいミュージカルがあるから一緒に行きたいねとか――たしか、そんなありふれた話。それなのにさっきまで隣にいた揚羽くんは、わたしの鼻先数センチの距離にいる。……状況がうまく飲み込めきれていないけれど、揚羽くんは言葉を続けた。
「名前の……」
「わたし、の……?」
じいと見つめられる視線に目をそらしたり伏せたりしたいけれどそれも叶いそうにない。頬に触れていた揚羽くんの指先はそのままで――すると揚羽くんがながい、と一つ呟いた。
「ながい……?」
「そう、まつげ」
思わずパチパチとそのまつげを意識して瞬きを繰り返す。……確かに、そう云われることもあるけれど、こんなに至近距離で見つめられて云われたのは初めてだ。じいと見つめられる揚羽くんの瞳が真っ直ぐで恥ずかしくて、わたしは言葉を詰まらせながらそれに返事をする。
「……そう、かな」
「そう」
有無を云わせないほどの頷きにわたしはぐうと言葉をなくし、もう一度ゆっくりと瞬きをする。でも瞬きをする度に揚羽くんに「ながい」と云われたことを思い出して意識してしまい、どんどん体温が上がっていく。
揚羽くん、そうもう一度呼ぼうとすると名前、と先に揚羽くんに名前を呼ばれる。
「ぶつかりそう」
「ぶつ……?」
「キス、したら」
へ、と声を発してほんのひとコンマ。意味を理解した途端、上がりきっていたと思っていた体温がもう一段階上がって後頭部を後ろの柵へとぶつけてしまった。けれどもそれを痛がってる場合ではなくて、耳元で鳴り始めた心音しか耳に入らなくなる。
揚羽くんとはまだ手を繋いだことしかない。わたしがそれだけでいっぱいいっぱいになってしまっているのがわかっているからか、揚羽くんからもデートで手を繋ぐことくらいしか求めてはこないし、それで十分なのかと思っていた。
でも今、目の前にいる揚羽くんは――揚羽くんの目は、確かに「男の子」だった。
「あ、げはく……っ」
「してもいい?」
キス、そう口にした揚羽くんは両手でわたしの頬を包んだ。その手は冷たいような熱いような不思議な感覚で、冷たいのは揚羽くんの手なのか、熱いのはわたしの頬なのかはわからない。そんな感覚にどぎまぎとしている間に揚羽くんとの距離はほとんどなくなって、はやる心音をそのままにぎゅうと目を伏せた。
感じられたのは、唇の熱さだけ。
「……わかった?」
「〜っ、な、うう……」
なにが、そう問うまでもなく訊かれたことはわかっている。けれどもそれどころではなくて、唇の感触が熱さでわからなくなる程にもういっぱいいっぱいで、ぎこちなく首を振る。すると揚羽くんもボクも、そう続けた。
「わからなかった」
「そ、れどころでは……ない、です……」
正直にそう告げれば揚羽くんはゆっくりと瞬いたあと、目元を緩めた。それからちょっとわかるかも、そう口にする。それに同意するようにわたしは慌てたように言葉を連ねた。
「ほんっ、とに、その、まつげどころではなく――」
「ドキドキした」
名前も? そう訊ねる揚羽くんにわたしはなんとか頷く。
手を繋ぐよりも、なによりも、こんなに心臓が高鳴ることなんてない。頬が熱くて、視界が潤みそうなほど――揚羽くんのことしか、考えられない。
「意識する。次は」
「つ、つぎっ!?」
「……名前は、もうしたくない?」
ほんの少し落ち込んだような声色でわたしに訊ねた揚羽くんに、咄嗟にそんなことない! と返せばまるでその行為を望んでいるようになってしまって、わたしは口を結ぶしかなくなる。揚羽くんはそんなわたしの表情を見て、目を少し見開いた。それからよかった、と口にする。
「名前」
「あげは、くん」
ちゃんと感じて、そう云う揚羽くんの声を合図に先程と同じように唇が重ねられる。
――わかったのは、揚羽くんの唇の温度だけだった。