――ソワレが始まるまで、あと少し。



 初デートがミュージカル鑑賞だなんて四季と苗字らしいね、と春日野くんに云われて、わたしは思わず訊ねた。

「……デートっぽくない、かな」
「そう? 四季は気にしないと思うよ」

 楽しんで、そう笑う春日野くんにほっと息を吐くと顔を覗かせた入夏くんに苗字ちゃん! と声をかけられる。

「今からデート?」
「うん、そうなの」
「楽しみじゃんね! オレも行っちゃおうかな〜」
「ダメだよ入夏。二人の邪魔しない」

 じゃあ僕たちは行くね、と本当についてきてしまいそうな入夏くんを、半ば強制的に連れ去る春日野くんに手を振る。すると人懐っこい笑顔をわたしに向けた入夏くんからもぶんぶんとお返しがきた。甘味処にでも行くのだろうか、ふと思いを馳せると苗字、そう名前を呼ばれ振り返る。

「四季くん、お疲れさま」

 ――自分が舞台に立つわけでもないのに、いつもよりずっとずっと心臓は高鳴っている。
 ミュージカルが始まるまでには静かになっていますように、そうわたしは心臓を落ち着けるようにそっと息を吐き出して、いつもよりほんの少し近い、そんな距離で四季くんの隣に並んだ。
 



 観劇前の懸念は、ミュージカルの前では脳の隅の隅へと追いやられてしまう。
 劇場を出て、わたしは感動の熱が冷めないままに四季くんへと言葉を投げた。よかったね! 素敵だった! そんな散らかった言葉に、四季くんはそうだな、と柔らかく頷いてくれる。

 ――いつもの観劇後のやり取り。こうして舞台を見たあとは、初めに四季くんがわたしの拙い感想を拾い上げてくれて、それをいろんな風に広げてくれる。それが嬉しくて楽しくて、わたしはついつい四季くんに感想を思いつく限り伝えてしまう。

「初めからすごかったね!」
「そうだな。俺は特にあの――」

 そう云って四季くんが上げたシーンはわたしが一番最初に息を飲んで、魅了されたシーン。わたしも! と四季くんに身を寄せるととん、と腕がぶつかってしまった。思わぬそれに慌ててごめんと距離を取ろうとするとふと、四季くんの手が伸びてくる。
 そしてするりとわたしの手を取り、そのまま手を握られてくん、と引っ張られた。

「……苗字もか」
「うん。……四季くんも、そう思ったならうれしい」

 そのまま四季くんはあのシーンのセリフの間がよかったよな、と話を続けるのでわたしもその声に耳を傾ける。案の定わたしも引き込まれたシーンで、こくこくと頷いた。
 ……いつもよりずっと饒舌な四季くんが有難いほどに、わたしからすぐに感想を発することができない。先ほどまで伝えたいことが指折り数えそうなほどあったはずなのに――四季くんに伝えたかった感想は、繋がれた手に半分くらい奪われてしまって、うまく言葉にできない。

「苗字?」
「は、いっ」

 しばらく相槌を打つだけになっていたので、不意に呼ばれた名前にぎゅうと力が入り、四季くんの手を強く握ってしまう。慌てて肩の力を抜くと、少し不安そうに四季くんの表情が揺れた。

「いつもなら苗字からいろいろ話してくるのに、珍しいな」

 なにかあったか? と四季くんはわたしに訊ねる。確実にこの繋がれた手が原因なのだけれど、そんな手を繋いだだけでいっぱいいっぱいになってしまった、とは云いづらくてなんとか言葉を捻り出した。

「そんなことない、よ? えーっと、わたしはね……あと好きなのはラストシーン、かな」

 やっと両想いになった恋人がまた再会するところ、そう話すと四季くんはふと、笑みを零す。その反応にぱちぱちと瞬きを繰り返すと、四季くんは目を細めた。そしてそうだと思った、と口にする。

「すごく嬉しそうな顔してたからな、そのシーン」
「なっ、ん、前見ててください……っ」
「苗字が好きそうだなと思って、盗み見たくらいだぞ」

 はずかしい、そうふいっと四季くんから視線を外す。
 何年越しに再会したふたりは、やっと会えた嬉しさから愛しさが溢れ出したかのように、優しくお互いを抱き締める――そんなシーンだった。その込み上げる涙を堪えるように笑うふたりにドキドキして、胸がきゅうとなって――「いいな」と思ってしまった。そんなことを四季くんに云えるはずもない。
 うう、と空いた手で頬を押さえる。自分でもわかる高い温度に、四季くんの顔を見ることもままならない。繋がれた手も、そのおかげで歩く距離が近くなったことも――全部、堪らなくなる。

 知らないこと、ばっかりだ。

「――苗字」
「な、に……っ!?」

 俯いていたら先程よりもずっと強く四季くんに手を引かれた。そのまま歩いていく四季くんにどうしたのかと訊こうとしたけれど、先に場所――建物の陰に着いてしまう。疑問符を浮かべながらもう一度四季くん、そう名前を呼んだ。

「どうし……っ」

 息を飲んだ。わたしが頬を押さえていた手の上から四季くんの手が重なって、無防備に晒されていたもう片頬は直接四季くんの手のひらで押さえられる。そのまま四季くんの方に引き寄せられ、四季くんと目線がまっすぐ合った。あ、だめだ。

「あ、こら。目つぶるな」
「まって、まってこれなに……!?」

 なんで今こんなことに? そうわたしが目をぎゅうとつぶったまま訊ねればそうか、と四季くんから一言。

 そして一拍置いて、もう一言。

「キスするぞ」
「えっ、ん!?」
「……なんてな?」

 とてつもない威力の言葉に思わず目を開けば、目の前には意地の悪い笑みを浮かべた四季くん。騙された、そうボヤけば勝手にそんなことするわけないだろう、なんて四季くんが笑う。……恋人だからいいんじゃないかな、なんていうのはもちろん飲み込んだところで四季くんがふと、安堵にも似た息を吐き出す。

「やっと目が合った」
「え」
「目が合うとすぐ逃げるからな。……強硬手段だ」

 ちょっと嬉しそうな四季くんにきゅうと胸が音を立てたのがわかった。それから心音がわたしの鼓膜を支配する。それは次第に音を大きくしていく――そこで「まずい」と思った。でも気づくのが遅く、彼の手から逃れられるわけもなく、「それ」が四季くんに気づかれてしまう。

「…………苗字」
「や、えっと、その……っ」
「……はやいな」

 心臓、そう口にする四季くんはどこか楽しそうで、可笑しそうで。わたしはバレてしまったことでますます早くなる心音にばか! とどうしようもないことを思って、唇を歪ませた。

「誰のせいですか……」
「俺、か? ……それは悪いことをしたな」

 する、と脈を計るかのように僅かに首を滑る指にひゃ、と首を竦めてぶんぶんと振るとやっとのことでその手はわたしから離れる。ほんの僅かにゆっくりになった心臓をそっと撫でてやると、四季くんがこれまた楽しそうに笑った。

「そんなに早いと寿命も縮むんじゃないのか?」
「……じゃあ四季くんといるとわたし短命になっちゃうね」

 意地の悪いことを云うから、わたしも少しだけそんな意を込めて返したのに、真面目なトーンで苗字がいないのは困るな、なんて云われてしまうとまた心臓が跳ね始めてしまう。

「……意外だったな」
「うん?」
「付き合っても、今までとあまり態度が変わらないと思ったんだが」

 何回も観劇したり話したりはしていたから、そう四季くんに云われて、いやもう全然違うよ、そうわたしは首を振った。

 四季くんがわたしにそういった「好意」を持ってると知った今では、何もかもが違う。……自分も四季くんに対してそういった「好意」があることを自覚した、というのもあるけれど。

「四季くんと手繋いだり、四季くんに触れられたりしたら、それはもう……」
「それはもう?」
「…………どきどき、しますよ?」

 蚊の鳴くような声でそう口にしてからふと目をそらすと、四季くんの手が頬に触れた。そろりと視線を上げれば唇を緩ませた四季くんがそれなら、とわたしの背中に手を回して引き寄せる。
 そのままわたしからぼふ、と四季くんの胸元に頭を埋めてぎゅうと抱きつく。これまた意外だったようでどうした? と少しよろけた四季くんを横目に、わたしは唸り声をあげた。

「……落ち着いてるね」
「――ははっ、そんなことないと思うけどな」

 四季くんの心音はわたしよりずっとずっと落ち着いていて、もっと早くなってしまえばいいのに、とほんの少し唇を歪ませた。そろりと四季くんの胸元に手を添えたところで、すっと伸びてくる四季くんの手。上を向かされて、四季くんがわたしを覗き込む。

「――俺だって、早くなる」

 それからさっきは重ねなかった唇がわたしのそれと重なる。わたしの手のひらは確かに四季くんの心臓が早くなったことを教えてくれたけれど、たぶんそれよりもわたしの心臓の方がずっとずっと、早い。

 ――ずるい、わたしばっかりだ。

「……勝手にしないって、云ったのは四季くんだよ」

 悪かったな、そうほんのちょっと嬉しそうに四季くんがわたしの頬を包んだまま、目を細める。

 ――四季くんのせいで、わたしの心臓は正しい音を刻むことができない。