足りなくて足りない
今日も。
後ろから自転車の車輪が回る音がした。
彼が、近づいてくる。
後ろを振り返ることはしない。
歩くのをゆっくりにすることも無い。
私はいつもの速さでいつも通り歩を進める。
そして自転車はいつも通り、するりと私の横をすり抜けて、車輪の音は遠くなる。彼の背中も遠くなる。
あぁ今日も行ってしまった。
会話はない。
2人とも前を向いているから、顔を合わせることも無い。
そもそも多分彼は私のことなんて知らない。
それでも、毎日この時間が一番幸せだなぁと思う。この時間を味わうために毎日学校に来てると言ったってきっと言い過ぎじゃない。
彼は、影山くんは、すごい人だ。
1年生なのにバレー部でかなり頑張っているらしい。前に放課後の体育館を興味本位で覗いた時に、とんでもない速さのサーブを打っていたことを覚えている。
しかも相当ストイックだ。多分彼はバレーのことしか考えていない。脇目も振らずバレーだけ。
だから、私は見てるだけでいい。
むしろ下手に会話して味を占めて、この放課後のつかの間の眺めを楽しめなくなっても困ってしまう。
誕生日プレゼントを彼氏に買ってもらったとか、デートをしたとか。
友達からそんな話も聞くけれど、正直そこまで大きな幸せを甘受すると、日常の幸せが薄れてしまうんじゃないか。と私は考える。
だから、見てるだけでいいの、と
小さな幸せに私は今日も酔いしれた。
最後の時間はホームルームだ。
席替えをするらしいと知ったのは今日の昼休み。極端に周りがうるさくなければいいかな、と大して気にしなかったが。
席を移動して、全くこの可能性を考慮していなかったことを悔やむ。
毎日後ろ姿を眺めていた彼が横に座っているのだ。席は窓際一番後ろ。しかも男子に周りを囲まれてしまった。
1人くらい女の子を周りに配置してくれたっていいじゃないか神様。
というか、昨日見てるだけで十分と言ったではありませんか神様。
ペア活動とかグループワークとかもきっとある。喋らないという選択肢など多分存在しない。どうすれば良いのだろう。
「コンチハ」
頭をフル回転させているとついにしゃべりかけられてしまった。
「こ、こんにちは」
「俺は影山飛雄。小日向だよな。ヨロシク」
「私の名前知ってたの?」
「いや、クラスメイトの名前くらいはさすがに覚えるだろ」
さらりと言った彼に少し驚いて、でも平静を装う。
「そ、そうだよね。小日向はるひです。こちらこそよろしくね」
「おう」
一通り自己紹介が終わり沈黙が落ちる。
何か言わなきゃ。
何とかしなきゃ。
わたしは再び頭をフル回転させる。
「そう言えば」
先に口を開いたのは彼で。
「小日向って徒歩通学だよな。帰りによく見てるような気がする」
なんと、既に気づかれていた。
気づいていたのは私だけだと思ってたのに。
なんだか彼が私を認識していたことが嬉しくて、同時に空気になりきれていなかったことに少し悲しみを感じる。
そんなことは、つゆとも知らず、彼は、「家近いのか?」なんて聞いてくる。
「遠くは無いと思うよ」なんて当たり障りのない答えを返したところで、チャイムがなった。
「お、終わったな」
「そうだね」
「部活に行ってくる」
「うん」
荷物を持ってクラスを出ていく彼を見届けたあと、私は机に突っ伏した。
「キャパオーバーだよ」
いつもひっそり眺めていた彼と初めて会話をした。
しかも何往復も。
初めてあんなに顔をまじまじと見てしまった。
整ってたなぁ。
こんな、こんな贅沢な日々が続いたら、続いてしまったら、
きっと私はとっても欲深くなってしまう。