明け方近くにサーっという音が、ぼんやりとした頭の中に入ってきた。夢と現の間にいるような穏やかな空間に入り込んできた音。
ああ、この音は――。
うっすらと目を開ける。白い天井に薄日がほんの僅かなカーテンの隙間から溢れていて、それはまだ夢の中にいるのかと錯覚してしまうほどにどこか幻想的だった。
「雨、か‥」
遮光カーテンではないから雨の日の光でさえ漏れてしまう。今の季節、本来なら昼間の殺人的な猛暑ではあり得ないくらい膨大な紫外線が部屋に入ってくる。別に紫外線100%カット!を謳う少々値の張るカーテンはヨークシンならいくらでも手に入れやすい。けれど、私は朝のこの薄日がカーテンを通して部屋全体に溢れ出る感じが堪らなく好きで、どうしても薄いカーテンを買ってしまうのだ。
雨は降っているけれど、外はそれほど暗くはないらしい。
掛け布団を避けて、そのままキッチンへ。
冷蔵庫の中に飲みかけのメロンソーダが入っていたはずだ。
思っていたところにそれはあって、しかも想定より多く残っている。ほんの少しだけ抱いた勝負に勝った時の気持ちと共に蓋を開けてみると、プシュっという音を立て勢いよく中身が上へと上昇する。
それをぐびっと一飲みし、喉奥でしゅわしゅわ感を楽しみながら窓辺に立つ。すると、昨日取り込み忘れていたらしいタオルが雨風の言いなりのように縦横無尽にはためいているのが見えた。
「あー‥やっちゃった」
今更びしょ濡れになったタオルを回収する気なんておきなくて、もういいやとそのままにしておいた。
雨が上がったら自然と乾いてくれる。それで良い。
ふと、窓に映った自分の姿は思っていたよりも疲れた顔をしていることに気がついた。
雨の滴が止めどなく窓に張り付いていき、それが窓の中の私の頬を濡らしていく。まるで本当に泣いているみたいに。
そういえば昔もヨークシンで、けれどあの時は通るような雨ではなくバケツをひっくり返したような、そんな雨の日があった。
そう、あれは確かクラピカと久しぶりに会った日だったはずだ。
あの日は昼間はとてもよく晴れて気持ちも清々しかったのに、夕方にかけて曇りだした。クラピカの念の話が難しくてよくそんな複雑な能力が思いついたなと感心さえしていた頃、ぽつぽつと窓に水滴がつくようになった。
しだいに水滴の量も速度も激しさを増して、クラピカがヒソカからメールを受け取って取り乱した辺りには土砂降りの雨に変わっていた。
私が窓の外にばかり気を取られていたせいで、あれよあれよと話が進み、気づいたら私はゴンとクラピカと共にレオリオの車に乗り込んでいた。
帰宅ラッシュの時間帯は車や街灯のライトやネオンが折り重なるように光っている。そんな少し寂しげな雰囲気のある光景をレオリオの運転する車の中から私はずっと眺めていた。
「名前」
クラピカが私を呼ぶ。ゆっくりと顔を横に向ければ、彼はキルアからの電話を切ったところで、何か言いたげな顔をしながら私を見つめていた。
「何?」
「もしも迷っているのならやめておいた方がいい。奴らはそんな甘い連中ではない。隙あらばすぐにでも殺そうとしてくるだろう。ほんの少しの迷いが命取りになるぞ」
クラピカは決して冷たい人間ではない。むしろ情に脆いし他人を思いやれる心優しい人間だ。冷たく言い放つ言葉も言い換えれば私を気遣い心配してくれているからこそ出る言葉達だった。
「知ってるよ。‥それくらい分かってる」
本当はついてくるべきではない。私がきたところで、キルアのように尾行も出来なければレオリオのように運転もできないし、ましてやゴンのように時間稼ぎを買われることもない。そこまでの技術は‥悔しいけれど無い。
そんなことは分かっていた。私がここにいたところで出来ることなど何もないなんてことは。
だけど、私はどうしてもついて行きたかった。
キルアが既に旅団の近くにいるから。1番危険なポジションに自ら買って出ているから。なるべくキルアと距離を空けたくなかった。
彼が強いことは百も承知しているけれど、旅団相手になれば彼の強さが活かされる前に殺されることの方が確率としては高いはずだ。現にたった1人のチョンマゲ(ってキルアは言ってた)から逃げるだけでも命辛々だったと聞いている。
なのに、キルアはまさかの私が少し電話をするために席を立っている間に行ってしまった。なにも告げずに。これが最後かもしれないのに。
また後でなどの言葉も何も無しに。
それからクラピカは何も言わなかった。
足手まといのくせについていきたいと言う私のわがままを彼は突き放すことは決してなかった。
そのあとクラピカは単独行動し始めるし、ゴンは追って行っちゃうし、残された私とレオリオはラッシュで進まない車の中で苛立ちながらなんとか前に行こうとした。
そしたらあの電話がかかってきたんだ。
「ゴンが‥」
クラピカらしくない、なんとも歯切れの悪い言葉だった。
え?と続きを促したけれど、クラピカが話しているのかどうか判断出来ないほどに向こうもこちらも雨の音が雑音となってとてもじゃないけど聞き取りづらい。
そうしてそのまましばらく沈黙が流れたが、待ちきれなくなり私が口火を切った。
「ゴンが何?‥何があったの?」
少し大きめの声になったのは気のせいではない。先ほどから妙な焦りが全身を駆け巡っているせいだった。
そして私はなんとなくこの時すでにクラピカの言わんことを頭の中で理解していたのだ。
「ゴンが奴らに捕まった‥キルアもだ」
驚きの中にやっぱりかといった気持ちが入り混じっていたのは、いつもならそんなことしないくせにこの時ばかりはクラピカがレオリオではなく私の携帯にかけてきたからだ。
**
「クラピカ何だって?」
「‥‥‥」
「おい名前」
「‥ベーチタクルホテルに今すぐ来てくれって」
「ベーチタクル?」
「そこに向かってるみたい。奴らが」
「そう‥か」
「ゴンとキルアを連れて」
「‥は?」
レオリオが驚いてばっと後ろを振り向きこちらを凝視しているのが俯いてても分かった。ちらりと彼の顔を見ると、何言ってんだと顔に書いてある。
そんなの、私が1番知りたい。
そんな私の気持ちを察してか、レオリオはそれ以上深く追求することなくそれからホテルまでの移動中一言も話さなかった。
窓に映る私の顔に雨が叩きつけられていき、涙を流しているようだった。私はそんな雨の音とクラクションの音が耳の中を通り抜けるのを感じながら、キルアのことをずっと思っていた。
キルアが殺されたらどうしよう
キルアがいなくなったらどうしよう
キルアが、
「死ぬなんてこと、ないよね‥」
その時キキーッと急ブレーキがかかった。
「っ‥!」
ガクンと前に押し出されるのを反射的に踏ん張って耐える。シートベルトをしていたから大事には至らなかったけれど、そうじゃなかったら‥きっとフロントガラスを突き破るくらいに飛んでいっていたかもしれない。
何するの、とレオリオをキッと睨みつけ更に口を開こうとした時、レオリオはそれまで俯いていた顔をゆっくりと上げそのまま前を見て一言。
「ったりめーだろ、バカ」
そう放った。まるでレオリオが自分自身にも言い聞かせているみたいで、胸の奥がギュッと締まる。途端に胸のもっと奥の、喉元あたりを締め上げられているような、なにかそこにこみ上げてくるような、言葉にし難いそんな何かに襲われる。
そうだね、レオリオ。キルアは強いもん。ゴンだっている。2人が一緒ならそれはもう無敵だもんね。
「レオリオ‥うん、そうだよね」
でもね、レオリオ。
それでも心配でたまらないの。不安で仕方がないの。
キルアを失うかもしれないのがこんなにも怖くなることだなんて知らなかった。
ただの、ただの仲間だったはずなのに。
「おい!クラピカ!」
いつの間にかホテルの裏側に到着していて、クラピカと小柄な人が立っているのをレオリオが呼んだ。
「‥すまない」
「何があった?え?何で2人が捕まった?!」
「‥‥‥」
「黙ってちゃわからねぇだろうが!!」
レオリオは車を降りるや否やすぐさまクラピカの元に走り寄って胸ぐらを掴んだ。レオリオに胸ぐらを掴まれるなんて、普段のクラピカだったら吐き気がするほど嫌がるだろう。それが今や悪態の1つも付くことなくされるがままになっている。
「2人は自ら捕まりに行ったわ。クラピカを旅団に捕まらせないようにするために」
「‥あんたは?」
「クラピカの仕事仲間よ。センリツというの」
「あぁ‥」
センリツと名乗ったその女性はレオリオを止めようと必死になっている。だけど、レオリオは振り上げた拳の落とし所が分からないみたいに、あるいは私と似たような感情のために殴ろうとする手を止めることはなかった。
「くそ!クラピカ!!」
レオリオが拳をあげる。
センリツさんが必死で止めようと叫んでいる。
クラピカは何もしない。何も言わない。
これから起こることをただただ受け止めようとしているみたいだ。
「‥なにそれ」
レオリオの拳はクラピカには届かなかった。レオリオの背丈だと振り上げられた腕を掴むのは難しかった私は勢いよくレオリオの背中を押した。そのままクラピカを押し倒すような形で雪崩れるように倒れていった。
「ってー!!なんだ名前!なにして‥!」
レオリオが顔を上げたのと同時に今度は私がクラピカの胸ぐらを掴んで、そのままの勢いで彼の左頬を全力で叩いた。
「‥‥っ」
オーラを纏っていない私の平手打ちなんて、クラピカにどれくらいのダメージを負わせたかなんて分からない。だけど、私がそんなことをしたのが意外だったのか、目を見開いて固まっている。
「おい、名前‥」
「ごめんね、レオリオ‥」
「なにがだよ?っつーか、いい加減クラピカから離れ‥」
「私やっぱり不安で仕方がない!」
「‥‥‥」
「名前‥」
「キルアが死ぬかもしれないって思ったら‥私、私‥っ」
こんなことを思ってるなんてキルアが知ったらきっとめちゃくちゃ怒るに決まってる。
死ぬわけねーだろ!って、バカにすんな!って呆れるに決まってる。
この考えは前線に立つキルアに対して酷く失礼な考えだ。
分かってる。
分かってるよ。
でも、でも。
この憤りを一体全体どこにぶつけたらいいの。
勝手なことしたクラピカに?
追いかけていったゴンに?
自ら捕まりにいったキルアに?
心配すんなといったレオリオに?
ちがう。
キルアとゴンは自分から捕まりに行った。
2人は今この状況から自分にできる最善の行動に出ただけだ。
クラピカだって勝手な行動とはいえ、私たちは彼が虫の蜘蛛を見ただけで逆上することを知っていたのだから、旅団を前に冷静になれるはずがないのをきちんと理解しておかなければならなかった。
レオリオは優しさからくるもの。
怒りの矛先は彼らでは無い。
私が腹立つのは‥この怒りに似た感情は‥
「私もゴンとキルアを取り戻したい!!」
不甲斐ない自分に対してのものだ。
**
よく考えたらこの手でクラピカのことぶん殴ったんだなぁ私。
後にも先にもクラピカに怒りをぶつけたことなんてあの時だけである。
右手を閉じたり開いたりして、あの時の自分に思いを馳せた。
ゴンが既にこの街にいるのはきっと間違いない。
だとしたらキルアも‥。
迂闊に外を出歩くと、思わぬところで鉢合いそうだ。
そんな気がする。
雨はだいぶ細くなってきている。遠くの空がだんだんと明るくなってきて、これだと昼過ぎには雨は上がるだろう。
そういえばあの時も、ゴンとキルアと再会できた時も既に雨は止んでいたんだった。