時の流れ
「法正さん、桃の花が沢山咲いてますよ!」
そう嬉しそうに話す彼女を見て、法正も微笑む。
このところ忙しく、なかなか外出することが出来なかったからだろう。今日は朝からずっと上機嫌だ。
そんな彼女が愛おしくて仕方がない。
(……やはり、似合うな。)
彼女の髪には先日贈った櫛が挿されている。
屈託のない笑顔を見ると、こちらも自然と笑みが零れてしまう。きっと彼女は気づいていないだろうが、その櫛を挿している姿と桃の花の背景がとてもよく似合っているのだ。
昔、街で見掛けた時とはまるで別人のように可憐に見える。だが、それを口にするとまた照れて逃げてしまうだろうから、何も言わないことにするが。
それにしても……と法正は目を細めて思う。彼女は何よりも心根が良い。そして誰に対しても分け隔てなく接する優しさがある。だからこそ皆、彼女に惹きつけられるのだろう。
もちろんそれは自分にとっても例外ではないのだが。
所謂、独占欲。こうして彼女が忌避せず傍にいるから、余計にそれを駆り立ててしまう訳で。
無情にも己の手は、無防備な彼女の身体へと伸びていく。
「わっ!……えっと、どうかしましたか?」
気づけば強く抱き締めていた。
驚いた様子の彼女だったが、すぐにこちらの意図を理解したのか腕の中で大人しくなる。
ああ、今度ばかりは逃げないのだな。
それをいいことにしばらく抱き締めたまま過ごすことにした。
「ああ、やっぱり貴女は暖かいですね。」
「……そうですか?自分ではよくわからないですけど……。」
「いえ、とても心地良いですよ。」
「なら良かったです。私もこうしてると落ち着きます。」
そう言って小さく笑う彼女に口付けをしようと触れる寸前まで迫る。
熟れた果実のような甘い唇を目の前にして、無意識に喉が鳴る。このまま攫われてしまってもいい程に、花のように儚く、ひどく美しい。自分とは正反対の、純粋無垢な存在が、己の荒んだ心を満たしていくのだ。
…ここで掻き抱いて、彼女の甘い声を紡ぎたい。幾度となく欲をぶつけて、自分の証を満遍なく与えたい。
それと同時に思うのが、万が一、自分の元からいなくなったら。そう思うだけで、法正の鉄壁心は呆気なく乱されてしまうのだ───
「…………。」
ぱちりと短く瞬きして、巡った思考を止める。
あり得ない事を考えるなと。彼女限ってそんな事をする筈もない、と。分かっている、分かってはいるのだが。
どうしたものかと考え倦ねて、少しの間そのままでいたが、
「法正さん。」
紡ぐように名を呼ばれ、逆に袖を掴まれ引き寄せられた。
驚いているうちに彼女の方から唇を重ねてくる。
突然の出来事に呆気に取られていると、顔を真っ赤にした彼女が言った。
「その、私が傍にいますから。」
どうやら今のは彼女なりの気遣いだったらしい。
「……そういうことは不意打ちでは駄目ですよ。」
もっと触れたくなってしまうでしょう?
耳元で囁くように言うと、ますます赤く染まる顔。ああ、本当に困る人だ。だが、その一言で何もかも安心したのも事実だ。何もかも愛おしくて仕方がない。
それからしばらくの間、二人は身を寄せ合いながら花を眺めていた。
数多の桃色の花弁が風に揺れ、ひらひらと舞う。その光景はとても幻想的だった。
「思えば、出会って随分と年月が経ちましたね。」
「はい。もうすぐ十年になりますね。」
感慨深く話す彼女に対し、法正は小さく微笑んだ。
あの日、自分が見初めた時から変わらない姿のまま、彼女はそこに居る。
散々悪党として名を馳せてきたというのに、忌避するどころかより一層傍から離れようとはしなかった。今思えばあの頃から変わった娘だと思った。
まともな人間であるならば、自分の真っ当な人生に関与したくないと思うだろうし、逆に近寄ってくる女は上辺だけしか見ていないであろう碌でもない存在ばかり。媚び売る女を抱く気すら起きず、冷ややかな目で遠ざけていた日々だった。
しかし、彼女だけが特別だった。毎日話しかけてきては、色んな顔を見せてくれた。喜んだり、悲しんだり、怒ったり、心から笑ってる顔を見て、ああ、共に添い遂げる事が出来たのであれば、この上なく幸せなのだろうと。
そうして想いを告げた時の顔は今でも忘れられない。こんな嬉しい事があっていいのかと、わんわん泣きながら俺に聞いてきたのだ。
「私は、誰よりも貴方を慕っていたから。」
この先どれだけの時が過ぎようとも、きっとその姿は色鮮やかに記憶に残るだろう。そして自分はこれから先も変わらず、彼女を愛し続けるのだろう。
「貴女のいない世界なんて考えられないんですよ。だから……。」
「……法正さん?」
首を傾げると同時に、法正はそっと口を開いた。
「俺を置いてどこにも行かないで下さいよ。」
いつもの調子で言うつもりが、思った以上に弱々しい声が出てしまったことに驚く。ああ、何とも情けないな。
そんな様子を見て、彼女はくすくすと笑った。
「大丈夫ですよ。私だって、法正さんの傍にずっといたいんですから。」
そう言って、彼女はまた柔らかく微笑む。頬を撫でる手つきが心地よくて、思わずゆっくりと瞼を閉じた。
(ああ……全部敵わない)
「ありがとうございます。俺は、貴女に救われていますよ。出会ったときから、ずっと。」
「ふふ、それは私もですよ。法正さんがいなければ、私はこんなに幸福ではなかったと思います。」
続けるように唇を小さく開き、
「大好きです。生きている中で一番、貴方を愛しています。例えどんな事があっても、私は最期まで法正さんの隣で笑っていたいです。」
その眩しい表情に、つい口許が緩んでしまう。
「…ええ、知っています。俺も、貴女をこれ以上ないと言うほどに深く愛していますから。その笑顔、他の誰でもなく、俺だけに向けていてくださいよ。」
彼女の額に優しく唇を落とすと、くすぐったそうな声を上げた。
「はい、勿論です。」
そう言ってはにかむ彼女に、彼は満足げに目を細めて
「貴女に会えてよかった。」
そう呟いた法正の声は、とても穏やかなものだった。
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