ルビーレッドの春
屋敷にいる主様の食事を作るのは、当然ロノの役目である。ハウレスも主様に手料理を振る舞おうとこっそり練習しているが、未だ上達の兆しは見えない。紅茶を入れることは朝飯前なのにも関わらず、それがロイヤルミルクティーになった途端何も出来なくなる。キッチンがハウレスを嫌っているのだ。
昼食を摂る主様のそばにロノと控えながら、美しく盛り付けられた料理を眺める。ロノは料理の味も、栄養バランスも、盛り付けの美しさも一流だ。
主様が半分ほど食事を進めたところで、シルバーウェアを持っている手をテーブルに置いた。ほんのすこし背中を丸めている。
「主様?」
「えっと……」
主様は、言い淀んで深呼吸をする。シルバーウェアをそのまま置いて、窺うようにロノを見上げた。
「あの、その……」
「どうかしましたか? 苦手なものでもありました?」
「ううん、美味しいよ。美味しいんだけど……食べることが出来なくなってきた」
満腹≠ニも異なる表現だ。ハウレスはロノと視線を合わせて、主様の表情をうかがう。主様は恐る恐ると言った風にロノを見上げている。
ハウレスは主様の手元を見た。シルバーウェアを離した後の両手には力が入っていない。テーブルに添えているのではなく、まるで転がっているような脱力感だ。背中を丸めているところといい、様子がおかしく見える。
満腹ではない。食べたくないのではない。食べることが出来ない≠フだ。
主様に見上げられているロノが優しく微笑んだ。
「無理して食べなくても大丈夫ですよ! また、お腹が空いたら教えてください」
「ロノくんがせっかく作ってくれたのに……。でも、でもね、腕が上がらないの。食べたいのに、口が開かないの」
「主様が『食べたい』と思ってくれていることは分かっていますから。無理に食べる必要はありませんよ!」
「ごめん、ごめんね」
「大丈夫です、気にしないでくださいって! 食べたいときに食べたいだけでいいんですよ」
ロノの笑顔に主様がまた「ごめんね」と申し訳なさそうに言う。それにまたロノが「大丈夫ですよ」と返すので、ハウレスも主様を安心させようと声を掛けた。
「主様、大丈夫ですよ。一旦お部屋に戻りましょう。歩けますか?」
「うん、あるける……」
「ご無理はなさらないでくださいね。後で温かい飲み物をお持ちしましょうか?」
「今は出来ない≠ゥも……」
「承知いたしました」
主様の手にはまだ力が入っていない。ハウレスは、立ち上がろうとする主様の肩に触れた。
「やっぱり、もう少し休憩をしていきましょう。急ぐこともありませんから」
「……そうする」
「いつでも、なんでも、お申し付けください。俺はここにいますからね」
「ありがとう。……ロノくんも、ごめんね」
「いいんですって! これは下げちゃいますけど、キッチンには常に何かしらありますから。食べられそうになったら、いつでも声をかけてくださいね!」
「うん」
主様はやっと微かに口角を上げた。ロノが下げて行く皿を寂しそうに見つめるので、ハウレスも心が痛んだ。
食事を摂りたいのに出来ない≠ニいう感覚は、ハウレスには分からないものだ。「大丈夫」と声を掛けても、その心境を完全に理解出来るわけではない。ただ、主様の痛みは伝わっていた。
口に出来なくても何か温かいものを用意して体を温めたほうが良いだろうかと主様の手を見つめていると、食堂にラトがやって来た。
「おや、主様、こんにちは。お食事中でしたか」
「ラトくん、ごきげんよう」
「ご機嫌そうには見えないように思いますが……」
主様、ハウレス、ロノ、そしてまだ料理が残っているのに下げられていく皿。ラトなりに察するものがあったらしい。
「大丈夫ですよ、主様。パセリさえ食べていれば大丈夫ですから」
「ラトさんはもっと食べてくださいね……」
自信満々なラトの言葉にロノが苦言を呈する。普段少量ながらも三食食事を摂る主様と違い、ラトは普段ろくに食べないのだ。ロノが注意するのも当然である。
しかし、主様はラトの言葉に安心するところがあったようで、また表情が和らいだ。ラトはのらりくらりとして主様を慕っているのか判断がつかない面もあるが、主様が安堵するならばそれで十分だ。
「ラトくんは本当にパセリが好きだね」
「ええ。主様もいかがですか? 美味しいですよ」
ラトはどこからともなくパセリを出すと、主様に差し出した。
主様も反応に困るだろうとハウレスが代わりに受け取ろうとしたが、主様は自然な動作でパセリを受け取った。
「パセリってね、春の芽吹き≠チていう意味もあるんだよ」
「春の芽吹き、ですか」
「うん、素敵だよね。ラトくんは髪色が鮮やかだから、まさに華やぐって感じがするよね」
「そう思ったことはありませんでしたが……華やぐ、ですか」
「春の妖精みたいで綺麗だよ」
ハウレスは目を瞬いた。ラトも、唐突な口説き文句にきょとんとしている。
主様はラトから受け取ったパセリの首を指先で回しながら、香りを嗅いでいる。
「でも生食は厳しい……ので、押し花にしてもいい?」
ラトは首を傾けている。ただ押し花に首を傾けているのではなく、主様に「綺麗」と言われてから徐々に首の角度が深くなっていた。
ラトは首の傾きを戻して、不思議そうな顔のままで頷く。
「ええ……春を閉じ込めておいてください」
「そうさせてもらうね」
丸まった背筋は伸びないが、主様の声音が明るくなる。食事が出来ないことでの落ち込みがラトによっていくらか回復したようで、ハウレスも胸を撫で下ろす。
主様の斜め後ろにいるロノが神妙な顔で腕を組んでいることに気付いた。パセリ料理の開発についてさらに熱が入りそうだ。
印象に残ったものは支えにもなるだろう。パセリを目にすることで、主様の心が少しでも落ち着けばいい。
主様尊い……。
そよ風のかんざし
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