姿が見えなくても
――テステス、こちら主様です。ごきげんよう。
トレーニング後のシャワーを浴び終えたハウレスは、どこからともなく聞こえた主様の声に首を傾げた。今日、主様は休日だ。これからデビルズパレスに来るのかもしれない。
手早く身だしなみを整えて主様の部屋に向かうと、予想通り主様と、ベリアンとムーがいた。さんにんともどこか思案気だ。
「あ、ハウレスくん。ただいま」
「おかえりなさいませ、主様。お戻りだったのですね。どうかされたんですか?」
ハウレスの問いには、主様がすぐに答える。
「わたしは向こうにいるとき、指輪を通してみんなの声が聞こえるんだけど……わたしを意識して呼びかける声はもちろん、たまに独り言も聞こえるんだよね」
「ええ、そのようですね」
「ならわたしの声はどのくらい届くのかなあと思って試してみたんだ。そうしたら、ベリアンくんもムーくんも聞こえてて……その様子だと、ハウレスくんにも聞こえたんだね」
「はい、しっかりと」
「わたし全館放送しちゃったじゃん」
主様が面白そうに笑う。謎の多い指輪の扱い方を解明しようとしているらしい。主様は左手の人差し指に嵌めている指輪を撫でていた。
主様の言葉にベリアンが続く。
「世界を跨いで、主様の声はわたしたちに届きます。ですがこの世界にいるとき、主様の声は届きません。そして移動場所も謎です。指輪の着脱をした地点かと思いきや、執事の独り言を聞くとその執事の元へ行く。……指輪は謎だらけですね」
「意識に影響されるのかなあ。何もなければ、普通にわたしの部屋に来られるし。わたしの声も、朝はハウレスくんにだけ聞こえているんだよね?」
「ええ、そうですね」
念じた場所に移動が出来るのは確実だ。主様は独り言をこぼした執事を目掛けて移動しているときがある。それだけなら良いのだが、主様が何気なく考えた場所に移動してしまうと事故になる可能性がある。風呂場の中や、まさかトイレに移動となれば大事故だ。
そう思うと、声が届く範囲についての問題は些細なことだ。指輪の不思議ではあるが、生活に支障はない。主様もそう認識しているからこそ、面白そうにしているのだろう。
深刻では無い問題について気兼ねなく言葉を交わしていると、ムーが小さな手で主様の袖を引いた。
「主様の声、聞きたいです! 会えないときも、沢山話しかけてください!」
ムーの無邪気なお願いに、主様は笑ってムーの顔を撫でた。
「今度はムーくんを目掛けて話してみようかな」
「楽しみです。内緒話ですか?」
「うん。でも、全館放送になったら恥ずかしいから世間話にしないと……。これじゃあ、うっかり愛の告白も出来ないね!」
あはは、と楽しそうな主様に対してハウレスは一瞬表情が凍った。ベリアンと視線が合ったので、お互いの心境も大体分かった。
主様は冗談で言ったのだろうが、もし本当だったら。執事の誰かに向けて愛の言葉を囁きたいのだとしたら。
ハウレスは、執事たちの中で主様と過ごす時間が一番長い。主様が誰かひとりを贔屓しているようには見えないし、万が一贔屓があるとすれば、それは担当として仕えている自分が当てはまるだろう。そう考えたいが、いやしかし。
ハウレスはすぐに表情を取り繕うと、主様に微笑みかけた。ベリアンも続く。
「声を誰かひとりに向けると、他の執事が羨みます。こちらに伝えたいことがあるときは、ぜひ全員に向けてお話しください」
「そうですね。執事の誰もが、主様との繋がりを大切にしていますから」
「それもそうか……。こっちに来るタイミングとか、前もって連絡出来そうなときに話してみるよ」
ハウレスやべリアンの懸念に気付くことなく、主様が頷く。
ハウレスは主様の様子にほっと胸を撫で下ろした。
*
――うわあ!
ダンス練習部屋でナックとともに舞踏の練習をしていると、脳内に主様の悲鳴が届いた。思考が瞬時に戦闘へと切り替わり、ナックと共に稽古場を飛び出した。
「主様!」
「主様、どこですか!」
動き出したのはハウレスとナックだけではない。いたるところから執事たちの声と物音が聞こえる。それぞれが主様へと呼びかけるが、主様は見つからない。
主様の悲鳴は指輪を通したものだった。つまり、トラブルがあったのは向こうの世界だ。何か事件に巻き込まれて、指輪を嵌める暇もなかったのだろうか。デビルズパレスへの避難は叶わなかったのだろうか。
ハウレスの足は自然と主様の部屋に向いた。他の執事たちも同じことを考えたのだろう、全員とはいかないまでも執事たちが主様の部屋に集まる。焦燥感を募らせていると、また主様の声がした。
――ああ皆の声がするう。
やはり指輪を通した声だ。主様は向こうの世界に留まっている。それぞれが口々に主様に声を掛けると主様も聞き取れないだろうと、担当執事のハウレスが代表して呼びかけることになった。
「主様、ご無事ですか?」
――無事……すごく無事……。
ひとまず安堵するが、声が震えている。強がっているのだろうか、と胸が締め付けられる。デビルズパレスに帰れず、ハウレスを頼ることも出来ないほど憔悴しているのだろうか。
「何があったのですか?」
――キッチンに虫が……やだ、ほんとうにむり。
「……虫?」
――なんとか殺せたけどゴミ箱に入れられない、近寄れない。心配かけてごめんだけど、黙ると気が滅入りそうだからこのまま喋らせて!
集まった執事全員でため息をついた。主様が虫を駆除しているだけらしい。
主様の悲鳴や声の調子から、たかが虫と笑うことは出来ない。主様は必死なのだ。そしてハウレスたちは応援することしか出来ない。
「主様、遠くから何か……箒か、トングのようなものは?」
――箒あるけど、こう、うまく引っ掛けられない……あっそうか、トング的なものを買ってくるのはアリだ。ハウレスくんありがとう!
たかが虫、されど虫。主様からの礼には心がこもっていた。
ハイになって早口の主様が続ける。
――この部屋を引き払ってデビルズパレスに住みたいなあ。そうしたら常に誰かいるし、助けを求められるのに。虫の処理が終わったらそっちに行く!
主様の何気ない言葉は、ハウレスたちにとって願ってもないことだった。主様の生活や家族のことを思えば難しいということは分かっているが、主様はデビルズパレスでの生活を受け入れられるほどにこの環境を気に入ってくれている。
最初に声を漏らしたのはアモンだった。
「虫なら任せてくれていいのに……」
アモンは庭師として誰よりも虫を見る頻度が高く、その対処にも慣れている。ハウレスも虫を見て逃げることはないが、躊躇のなさに関してはアモンに及ばないかもしれない。
主様がデビルズパレスに居てくれるなら、虫以外でも、ハウレスたちは思う存分世話を焼けるのに。
全員の心を一つにして、主様が本当にデビルズパレスに住むことになったらという今まで何度も行ったシミュレーションを再び展開していると、不意に主様の声がした。今度は指輪ではなく、寝室に現れた主様から発せられた声だ。
「トングついでに、殺虫剤と虫除けグッズを買い込んできた」
主様は疲労困憊ながらも得意気に、汗を拭う仕草をした。
主様尊い……。
そよ風のかんざし
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