優しい喧嘩
ハウレスは冷や汗をかいた。
いつも落ち着いて優しげで、弱ったときには涙を見せてくれる主様が、見たことのない表情を浮かべている。ハウレスから視線を外して笑みも無く、それどころか、力の入った口元が怒りを表現していた。
主様は無言で部屋のドアノブを握り、ドア口を隔てた廊下側に立っているハウレスの足元を見て言う。
「ハウレスくんのことなんて知ら……知っているけど。ハウレスくんのことなんて嫌い……じゃないけど。でも一人にして」
「ある、主様」
無情にもドアが閉まる。ハウレスは泳がせていた手を額に当てて、大きくため息をついた。主様が執事に対して怒っているのは、恐らく初めてだ。もちろんハウレスも、主様と喧嘩をしたことはない。
主様の部屋のドアの前から動けない。しかし、今呼びかけても逆効果であることは分かる。指輪を外さなかったので、デビルズパレスを出るほどの怒りではないと信じているが、今ハウレスに成すすべはない。
「ハウレスさん?」
「ああ、アモンか」
花を抱えたアモンがやって来る。主様の部屋の花瓶を取り替えに来たのだろう。
アモンは閉まったドアと頭を抱えるハウレスを見て首を傾げた。
「どうかしたんすか? 主様、いらっしゃってたっすよね」
「……怒らせてしまった」
「え、主様って怒るんすか? 悪魔執事が侮辱されたならともかく」
「……」
「つか、ハウレスさんが怒らせたんすか?」
「俺のせいだな……」
「尚更謎なんすけど……」
主様の部屋に張り付いていてもしょうがない。ハウレスが書庫に向かうと、主様の部屋に入れないアモンも着いてきた。面白がってくるかと思ったが、主様の怒りという予想外の事態に神妙な顔をしていた。
お互いソファに座り、テーブルには花が置かれる。
「それで、ハウレスさんは何をしたんすか?」
「したというか、しなかったというか」
「しなかった?」
「昨日、天使が出ただろう。主様は仕事をされている時間だったし、悪魔の力なしで倒せると判断したから主様にはお声を掛けなかったが……結果として、こちらも無傷では済まなかったことも事実だ」
「そうっすね」
「主様に腕の包帯を見られてしまって……なぜ呼ばなかったんだ、と。仕事があっても何をしていても、天使が出たならすぐに向かうからと」
本当に無傷で倒せていたならば話は違ったかもしれないが、負傷がバレたのがまずかった。
ハウレスたちを思い、心配をしてくれているのは嬉しい。いつでも駆け付けるという言葉もありがたい。しかし、主様の生活に負担をかけたくもない。
お互いがお互いを思うが故の喧嘩なのだ。主様は優しい怒りを抱いている。
「甘え過ぎるのは良くないと思ったんだが」
「嬉しいけど複雑っすね。主様には向こうの世界の生活もあるわけで」
「どうしたら怒りを鎮めて下さるのか……」
「主様のことだし、すぐに落ち着くんじゃないっすか?」
「だといいが」
自然と出てきてくれればいいが、こちらからも声をかけたい。険悪ではないので拒絶はされないだろうが、意固地にさせてしまうとまずい。主様の担当執事という立場は絶対に譲りたくない。
主様も、ハウレスが呼ばなかった理由を理解しているだろう。疎外する意図など、ハウレスたちには微塵もない。それでも、主様は呼ばない選択をしたハウレスのことを怒ってくれた。何故頼ってくれなかったのかと。
ハウレスが脱力しているとアモンが笑う。
「困る怒り方っすけど、可愛いっすね」
「ああ。本当に、主様は素敵な方だよ」
「俺、知らん顔して花を生けに行こっかな。誰かと話したほうがいいかもしんないっすし」
「そうだな、頼む」
「ついでに『これを機に俺を担当にしてください』って言ってくるっす!」
「おい」
「主様ー! 花を入れ替えに来たっすよー!」
「おいアモン!」
花を抱えたアモンが笑顔で主様の部屋のドアをノックする。ハウレスも続くと、ドアが内側から開いた。主様はアモン、花、ハウレスを順番に確認してアモンに答える。
「お花、ありがとう。お願いするね」
「任せてくださいっす!」
「ハウくんは……」
主様が言い淀むので、ハウレスは唾を飲み込んだ。
「ハウくんは、次からわたしを呼ぶって約束してくれるなら入っていいよ」
「やく……っ……それは……」
「出来ないならだめ」
アモンを招き入れた主様がドアを閉めようとするので、無礼と分かっていながらもドアノブを握る主様の手を止める。
ハウレスを見上げる主様は、怒っているというよりも寂しそうで悲しそうだった。主様はハウレスに対して怒っているはずだが、主様のほうが叱られて落ち込んでいる子どものようだった。
ハウレスが言葉に迷っていると、主様が俯く。
「いつでも呼んでよ。トイレとかお風呂じゃない限り、わたしは来られるから」
「しかし、主様には向こうの世界での生活がありますから……」
「指輪の着脱だけだもん。会議中でだって出来る。わたしが消えたり現れたりするだけだから、適当な神隠しにすることだって出来るよ。わたしが芝居を打てばいいだけでしょ」
「俺は、主様の負担になりたくはありません」
「ハウレスくんの言うことも分かる。分かるんだけど、わたしは仕事よりハウレスくんたちのほうが大事だよ」
俯いていた主様がハウレスの腕を見る。包帯を見られた場所だ。
「防げたはずの怪我をしないでよ」
「主様……」
主様は弱々しい声で言った後、勢い良く顔を上げた。
「ハウレスくんはわたしを呼ぶこと! あとアモンくん!」
「は、はいっす!」
「わたしはみんなの声が聞こえるんだから、ハウレスくんがわたしに話しかけてなかったらアモンくんたちがわたしを呼んで! リーダーの判断に任せないで!」
「い、いやあ……」
「じゃあお花置いて出てって」
主様の声がワントーン低くなる。
「ぜ、善処するっす!」
「よし。ハウレスくんは?」
「……善処します」
「よし! 入室を許可しよう」
主様は頷くと、ドアを開けてハウレスを招いてくれる。ハウレスは担当を外されなかったことに胸をなで下ろしながら、部屋に入って扉を閉めた。
ハウレスがアモンをうかがうと、アモンもハウレスをうかがっていた。困り顔で目が合い、思わず笑う。
後で全執事を集めて、主様の優しい怒りを共有しなければ。
主様尊い……。
そよ風のかんざし
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