過去を視ることについて


 ハウレスは主様の担当執事だ。執事たちの中で、一番長く主様とともに時間を過ごすことが出来る。朝起こすのも就寝を見守るのもハウレスで、主様の寝顔を見つめる特権もある。
 朝型の主様の起床は早い。ハウレスは毎朝五時半に主様を起こし、向こうの世界へ見送る。主様は向こうの世界でシャワーや食事といった支度を済ませて、指輪に「行ってきます」と声をかけて仕事に向かう。朝型の主様に合わせてハウレスの生活も朝に偏ったが、主様に寄り添えていることを実感出来るので苦に思ったことはない。
 ハウレスはいつも通り朝の五時半に主様の部屋のドアを控えめにノックした。応答はない。そっとドアを開けると、掛け布団で口元まで顔を隠した主様が眠っている。ムーも専用のクッションで丸くなっていた。
 ハウレスはベッド横で膝をつき、五秒寝顔を眺めた。いつまでも見ていられるが、起こさないわけにはいかない。

「おはようございます、主様。起床のお時間ですよ」

 言葉をかけ始めた直後に瞼が震え、言い終わるときにはしっかり目が開いている。主様は「んー」と笑いの混じった声でうめきながら体を起こし、ベッドの上で伸びをした。
 寝つきが良ければ寝起きもいい。主様は寝坊とは無縁だ。しかし声に力はない。

「はうくん、おはよ」
「はい、おはようございます。よく眠れましたか?」
「とてもねてた」
「それは良かったです」
「ん……じゃ、むこうにもどるね」

 主様はまだ眠っているムーを撫でて立ち上がり、指輪に手をかける。

「いってらっしゃいませ、主様。今日も素敵な一日になりますように」
「ありがとう。がんばらずに、がんばってくる」

 主様の姿が消えるのと、ムーが起きるのは同時だった。大きくあくびをするムーに、思わずため息が出る。

「ムー……執事なら、主様のお見送りをしないと」
「す、すみません! 主様、もう戻っちゃったんですね……」
「最近、起きられてないことが多いな。寝つきが悪いのか?」
「ええと……」

 ムーは主様と同じ部屋で眠る図々しい執事だが、執事として振る舞おうとはしているようで、ハウレスのノックの音を聞くと寝ぼけながらでも起きていた。それが、最近は主様に撫でられるまで眠っている。
 ムーは目を泳がせて顔を伏せる。こころなしか、耳にも力が入っていない。何か言いたげな様子だった。

「何かあったのか?」
「……ハウレスさんには相談しようと思ってたんです。でも、主様から『言わないで』って言われたら、僕も迷っちゃって」
「主様が?」
 ムー個猫の問題ならばともかく、主様が絡んでくるなら事態の重要度が変わってくる。

 ハウレスは膝をついてムーと目線を近付けた。ムーは耳と尻尾に力を入れず俯き、上目遣いでハウレスを見上げる。
「主様に何があったんだ?」
「最近、うなされているんです。苦しそうだから起こすんですけど、その度に泣いていて……『やめてくれ』『ジェシカ』って」

 口調も気になるが、まずはその名前だ。

「ジェシカ? 主様がそう言っていたのか?」
「はい。どなたなんでしょう?」

 ジェシカは、バスティンの大事な相棒の名前だ。同時に、バスティンの絶望を想起させるものでもある。ハウレスはバスティンの絶望を詳細には知らないが、おおよそのところは聞いていた。
 ジェシカの夢を主様が見ている?
 ハウレスはムーの頭を軽く撫でて立ち上がった。確定ではないが、思い当たる節はある。主様はバスティンの悪魔化を鎮めるときに、彼の記憶を視たらしいのだ。バスティンの絶望だ、主様のショックも大きかっただろう。
 そこまで考えが及んでいなかった。配慮に欠けていた。

「ハウレスさん、主様はどうされたんでしょうか」
「おそらくだが、バスティンの絶望を夢に見ているのかもしれない。ベリアンさんに話してみるか……」

 主様のことだ、ハウレスたちに心配をかけまいとムーに口止めをしていたのだろう。悪夢の原因が悪魔執事にあるとなれば、優しい主様が自身の不調を悪魔執事に伝えられるとは思えない。

「ムーはちゃんと昼寝をしておくんだぞ」
「はい」
「主様も寝不足だろうに……」
「移動時間や休み時間も、ずーっと寝てるって言ってました。それでプラマイゼロって」

 主様は規則正しい生活をする。睡眠時間の確保を第一としている。たとえ昼寝をしているとしても、夜に十分寝られないことは負担になっているはずだ。確実にマイナスである。
 ハウレスは日の当たる場所にムーの寝床であるクッションを置いて部屋を出た。ベリアンを探したいが、まだ朝の五時過ぎだ。部屋を訪ねるには早すぎる。いつも通りトレーニングをしつつ時間を過ごしてから、朝食時にでもベリアンに声を掛けるのがいいだろう。
 ハウレスが悶々としたままランニングに出ると、裏庭でバスティンが素振りをしていた。ハウレスは、バスティンに主様の悪夢の話をするか迷いつつ声をかけた。

「おはよう、バスティン。早いな」
「……ああ、ハウレスさん。俺はもっと強くならないといけないからな」

 剣を握るバスティンの表情はどこか清々しい。以前は追い詰められているように剣を振るっていたが、今は前向きさが見て取れた。
 ハウレスはバスティンの様子に安堵しつつも、言葉に迷う。言い淀んだハウレスに対して、バスティンも不思議そうにしつつ黙ったままだった。
 ハウレスは腕を組んでバスティンを見た。バスティンも当事者だ、知っておくべきだろう。

「バスティン、主様のことなんだが。最近、お前の相棒の……ジェシカの夢をみてうなされているらしい」
「ジェシカの? 何故?」

 バスティンが目を瞬く。いつでもポーカーフェイスの彼らしくない表情だった。

「悪魔化を鎮めるときにバスティンの記憶を視たと聞いている。あくまで予想だが、それじゃないかと」
「記憶を視たことは聞いていたが……」
「後でベリアンさんに相談してみるつもりだ」
「俺も行かせてくれ」
「ああ、もちろん」

 バスティンの表情が曇る。ハウレスは掛ける言葉に迷った末、軽く肩を叩いてランニングコースに向かった。


 朝食時にベリアンに声を掛けると、ベリアンは表情を曇らせつつもあまり驚かなかった。食堂ではなんだからとベリアンの部屋に移動して、椅子に腰を下ろす。
 ベリアンは悩ましげに息を吐いて首を横に振る。

「そうなるかもしれないとは、正直予想していました」
「主様が俺の絶望を視たからか」
「はい。主様がバスティンくんの記憶を視るというのは……言葉にするのは簡単ですが、壮絶な体験です」

 ベリアンは苦しそうに言い、テーブルにメモ帳を広げた。

「バスティンくんの悪魔化を鎮めた後、主様に状況を聞いていたときのメモです」

 ベリアンの整った字が並ぶそれを読み、ハウレスは眉を寄せた。
 主様がベリアンに伝えたバスティンの記憶が、あまりにも詳細過ぎるのだ。ハウレスがバスティンを見ると、バスティンもまた眉間に皺を刻んでいた。

「主様が視るのは、バスティンくんの記憶です。バスティンくんの感じたことが、そのまま主様にも伝わっていました。……血の匂いも、剣を握る感触も、慟哭も、全てです」

 血の気が引いた。ハウレスは、記憶を視たのは客観的な立場からだと思っていた。バスティンの記憶に立ち会い、同じ場所に立ち、同じものを見ているのだと。それだけでも壮絶だが、バスティン自身の目線から視たとなれば負担の度合いが桁違いだ。
 だから、主様が口にするのは「やめて」ではなく「やめてくれ」だったのだ。
 ベリアンが続ける。

「主様は悪魔化を食い止めるとき、悪魔執事のトラウマの追体験を強要されるのです。とてもじゃないですが、平静でいられるものではありません。異常があればすぐに言ってくださいとお伝えしてはいたのですが……悪魔執事側に原因があることを、お優しい主様は言えなかったのですね。もっと気にかけておくべきでした」

 ベリアンの沈んだ声に、ハウレスは首を横に振る。

「ベリアンさんが謝ることじゃありません。俺も、もっとしっかり話を聞いておくべきでした」
「そもそも俺が悪魔化したせいだ。二人が謝ることじゃない」

 ハウレスはバスティンの言葉にフォローを入れようとしたが、三人で謝罪合戦になりかねないので飲み込んだ。
 悪魔化などそうそうあるものではないが、悪魔化を鎮める度に主様が絶望を体験してしまうのならば、より一層気を引き締めなければならない。自分たちでも向き合い難いトラウマを主様に押し付けるわけにはいかない。
 絶望を体験した主様に何が出来るだろうか。話を聞くだけでもある程度は落ち着くかもしれないが、気分転換になるものを提供したい。
 ハウレスが脳内で計画を練っていると、ベリアンがバスティンの名前を呼んだ。

「バスティンくん。今は、何よりもバスティンくんの言葉が主様には必要だと思います。大丈夫だと教えて差し上げて下さい」
「分かった。俺の絶望は俺のものだ、主様が背負うべきじゃない」

 ハウレスは力強いバスティンの言葉に頷いた。

「バスティン、主様と馬で出掛けてみるのもいいかもしれない。主様は乗馬がお好きなようだから」
「そうだな、誘ってみる」
「俺も主様の悪夢については気にかけておく。話も聞いておくよ」
「すまない、俺のせいで……」
「誰のせいでもない。これは悪魔執事全員の問題だ」

 ハウレスの言葉にベリアンが頷く。

「その通りです。誰もが悪魔化のリスクを背負っていますから……自分が生き延びるためだけではなく主様を守るために、わたしたちも自分自身をコントロールしなければなりませんね」

 明るく優しい、そして脆い主様を守るのがハウレスたちの生き甲斐なのだ。主様の生活が穏やかに続くよう、懸念事項は全て排除したい。
 そう考えていても、ハウレスは身を以て絶望の深さと主様の勇敢さを実感することになるのだ。



主様尊い……。
そよ風のかんざし
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