温かい肉筆
「ただいま!」
「おかえりなさいませ、主様」
休日の午後、主様がフルーレの衣装を着て屋敷に帰って来る。主様の自宅には数着の衣装が置かれており、衣装を着た状態で屋敷に帰って来ることもある。
主様は、衣装に合わせたファシネーターをハウレスに差し出してきた。
「また一人で着けらんなかった……」
「お着けしますよ」
屋敷で衣装に着替えるときはフルーレを始め執事たちが補助をするが、自宅ではそうもいかない。
ハウレスとて器用なほうではないが、主様に対しては話が変わる。不器用な部分は全て私生活に向いており、主様の前では何でも卒なくこなす――料理はまだしばらくかかる。
頭まで華やかになった主様はハウレスに礼を言うと、真っ白いカードを差し出してきた。羊皮紙とは違うが、分厚く上質な作りだ。手の平に乗るサイズのカードで、裏も表も無地で白い。
「これは?」
「ハウレスくんのサインがほしい。ここにでかでかと」
「俺のサイン?」
「ボールペンも持って来たけど、出来ればこっちの万年筆で書いて欲しい」
「構いませんが……」
万年筆を握り、白いカードに名前を書いた。ただの自分のフルネームだ。「でかでかと」というオーダーがあったので、遠慮せずに大きく書く。
乾くまでは少し時間がかかる。ハウレスは主様に椅子を勧め、自分はその横に立った。
主様は何故か楽しそうにインクが生乾きのカードを見ている。
「何の変哲もない文字ですが、これで良いのでしょうか?」
「ハウレス……クリフォードくん」
「ええ」
「クリフォードくん!」
「はい、ハウレス・クリフォードです」
主様につられて笑う。
「わたし、人の名前が好きなんだよね。そんで人の文字も好き。名前や文字には気持ちが籠もるから」
「それでサインを?」
「うん。しかもただのサインじゃなくてハウレス・クリフォードくんのサインだよ。これはお守りになるの」
「スマホケースに入れちゃおう」主様はハウレスに分からないことを言う。入れようということなので持ち運びされそうな予感がした。自分のサインが持ち運ばれるのはなんとも照れくさいが、それが主様の励みになるというのならば喜ばしいし光栄だ。
主様はハウレスがサインをしたカードを持ち上げ、光に照らして乾き具合を確認しながら言う。
「みんなのサインも欲しいなあ。向こうでかわいいカード入れを買ったの」
「では、ここに呼びましょう。主様はお待ち下さい」
「そうさせてもらおうかな」
「……それと、主様。主様のサインはいただけないのでしょうか」
「わたしの?」
「はい。主様のお名前は、俺のお守りになりますから」
名前の文字から何かを感じ取ったことはなかったが、言われてみれば、大切な人が書いたその名前は確かに尊いもののように思える。主様の考えをなぞることが出来るのも嬉しい。
主様は快く頷いて、自前のペンを取り出した。
「嬉しいね、書いちゃうね。わたしはあまり字が綺麗じゃないけど、許してね」
主様は言いながら、四種類の文字を書く。
「これが漢字、これは平仮名で、こっちはカタカナ。ハウレスくんたちみたいに書くとこう」
「そんなに文字の種類があるのですか?」
「この三種類はわたしの国での表現だね。基本的には漢字を使うかな。はいどうぞ、ボールペンは擦れるとかないから大丈夫だよ」
主様が書いてすぐのカードをハウレスに差し出す。主様が最後に書いた文字は馴染みのあるものだが、あとの三つはどう読めばいいのかも分からない。主様の世界との距離を感じてどこか寂しくもある。
しかし、主様が書いた主様の名前だ。大切に保管したい気持ちと、常に持ち歩きたい気持ちがせめぎ合う。
「……主様、お手数をおかけいたしますが、もう一枚書いていただいてもよろしいでしょうか?」
「うん? いいよ」
「ありがとうございます」
主様はまた四種類の文字で名前を書いて、ハウレスに渡した。
ハウレスは二枚のカードをまじまじと見る。
「――様」
主様のファーストネームが口をついて出た。主様≠ナはない、主様の名前。普段はまず呼ばないものだ。
主様と呼ぶことに不満はない。主様は大切な主様だ。ただ、名前を呼ぶという特別感はまた違う。
主様は嫌がるだろうか。呼んでから不安を覚えて主様を見たが、全く気にしていないどころか笑顔だった。
「ふふ、うん。そっちで呼ばれるのも面白いね。主様≠チて呼ばれるのも好きだけど」
「では、たまにお名前をお呼びしても?」
「いいよ。わたし、自分の名前大好きだから」
「本当に素敵なお名前です」
「ハウレスくんの名前も好きだよ」
「……ありがとうございます」
主様が当然のことのように言うので、礼が一拍遅れてしまう。主様はハウレスの一瞬の戸惑いには気づかずに、ハウレスの名前が書かれたカードを眺めている。
自分の名前を嫌ったことはないが、特に好きだと思ったこともない。そういうものだと受け止めているために、意識が向いてこなかった。年齢を重ねれば尚更ハウレス・クリフォード≠ニいう名前にも慣れていく。
主様が新しいカードをまた一枚取る。ハウレスの書いたカードを注意深く見ながら、ハウレスの名前の模写を始めた。
「筆記体って難しいんだよね……こう……ほら、ここが謎」
「r≠ナすか?」
主様はカードにボールペンの先を付けたまま止まる。Haures≠フr≠書く手前だ。
「r≠フ筆記体が良くわからない……こう……?」
「ンン、綺麗ですよ」
「今ちょっと笑ったでしょ」
「すみません、あまりにも可愛らしくて」
「かわっ主様は真剣ですよ」
つたない筆記体でハウレスの名前が書かれていく。主様はHaures≠書き切るとペンを握り直し、ハウレスが書いた名前を再び観察した。
「ファミリーネームにもr≠ェいるじゃん……」
「ええ、いますね」
「f≠フ連続ってチョウチョみたいで可愛いね」
「その観点は持ったことがありませんでした」
「よし、いくよ」
主様はClifford≠フCliff≠ナ止まった。
「ここからo≠ニr=c…? こうで合ってる?」
「合っていますよ」
「……よし、出来た。難しいなあ。同じように書いたつもりだけどいびつだね」
主様が書いたHaures Clifford≠フ筆記体はつたなく筆圧が強い。主様が自分の名前を書いた時に使っていた文字と同じ種類だが、確かに主様は一文字ずつ分けて自分の名前を書いていた。筆記体に慣れていないのだろう。
ハウレスは、まるで子供が書いたかのような自分の名前に胸を押さえた。素敵で尊い主様が、一生懸命ハウレスの名前を書いたのだ。
欲しい。
「……主様、こちらのカードをいただいてもよろしいでしょうか?」
「いいよ。……あ、わたしの名前を筆記体で書いてみて。交換しよう」
「分かりました」
ハウレスは涼しい顔で了承し、カードにペンを滑らせた。主様のフルネームを自分が書いているという状況に、何故かじわじわと口角が上がる。
主様はハウレスが書いたカードを見て「こうやって書くとかっこいい名前に見える」と満足そうだ。そしてつたないHaures Clifford≠ニ交換し、また新しいカードを手に取った。
今度はハウレスに渡してくる。
「じゃあ、またわたしの名前を書いて。次は漢字でね」
「か、漢字ですか……」
どこか角張って線が多い文字。主様の国では主に用いられているという文字だ。執事としてスマートにこなしたいが、漢字というものは絵心も要求されそうな気がした。
今度は自分が子どものような字を晒す番である。
主様尊い……。
そよ風のかんざし
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