鉛を引きずる
ハウレスは、廊下の先で立ち止まっている主様を見つけた。「明日はフルーレくんにお洋服見せてもらう!」と昨夜は足取りが軽かった主様が、たったひとりぽつんと立ち尽くしている。
いつの間にかこちらに帰って来ていたのだろう。予定の時間よりも早いことに笑みが浮かんだが、どうにも様子がおかしく見える。
自室から地下の執事部屋かドレスルームに向かう途中だろう。ハウレスも共に行こうと声をかけたが、主様は立ち尽くしていた。俯いており顔も上げない。
「お帰りなさいませ、主様。フルーレのところに向かわれますか?」
「……いや」
声のトーンが普段よりもずっと低い。声量も小さい。昼間に主様が一人で屋敷を動くこと自体は珍しくないが、急に調子が崩れたのだろう。
ハウレスは静かに慌てて主様に駆け寄った。
「主様、お部屋に戻って休みましょう」
「ん」
「何か食べられそうですか? 甘いものかフルーツか。難しければ、温かい飲み物を入れますよ」
「……出来ない」
いらない≠フではなく、出来ない=B主様の意思に関係なく、体も気分も言うことを聞かないのだ。掠れた声が、主様の危うさを物語っている。
フルーレに衣装の話を聞き、新しい衣装の試着もして。その後はロノに、先日食べて美味しかった料理のレシピを教えてもらうのだと昨日までは笑顔だった。それが、立ち尽くして動けず、ハウレスへ返答することが限界だ。
ハウレスが背中を撫でると、主様がゆっくり息を吸った。
「……ありがと、ちょっと気が紛れる」
「お部屋に行きましょう。歩けますか?」
「少し待って、気合い入れるから」
主様は、暗示を掛けるように言い聞かせる。
歩ける、歩ける。しかし、一歩が出ない。
「主様、失礼しますね」
ハウレスはひと声かけて、呆然とする主様を抱き上げた。横抱きにされた主様は「お」と声を漏らしたものの大きなリアクションがない。元気なときなら「下ろして!」か「お姫様抱っこだ!」か、それなりの反応が返ってくると思うのだが。
主様は脱力してハウレスに体を預けている。
「安心してください、俺がいますから。お部屋までお連れしますね」
「ん」
「目を閉じて、深呼吸をしてください。眠れそうだったら眠りましょう。大丈夫ですよ」
「……」
主様の部屋へ歩き出す。主様の深呼吸が寝息に変わるのは早かった。寝入りが早いことは知っていたが、十回も深呼吸をしなかった気がした。まさに気絶である。
子どもをあやすようなテンポで歩き、体を使って主様の部屋のドアを開ける。ベッドにゆっくりと横たえても、靴を脱がせても、主様が起きる様子はなかった。
衣装のままでは休まらないだろうと、ハウレスは急いで地下の執事室へ向かった。気替えを手伝うこともあるフルーレならば、主様もあまり抵抗はないだろう。急いだのは、もし今主様が目覚めたらひとりにしてしまうからだった。
ハウレスが地下の執事部屋に入ると、おそらく主様の来訪を待っていたフルーレがトルソーの前で振り向いた。
「フルーレ、今いいか」
「ハウレスさん? どうしたんですか、そんなに慌てて」
「主様が体調を崩されて休んで……ほとんど気絶している。衣装のままなんだ、着替えを頼みたい」
「気絶⁉」
「俺が戻るまで主様のそばに居てくれ。俺はロノとムーを探してから戻る」
「分かりました、任せてください」
ロノには主様の状態と夕食が不要なことを伝えつつ、夜中に起きても少しつまめそうなものを頼む。ムーには、出来るだけ主様のそばに居るよう頼む。ハウレスも極力近くにいるつもりだが、離れるタイミングがどうしても出てくるだろう。それがほんの少しの時間でも、主様をひとりにしたくない。
ムーとともに主様の部屋へ戻ると、フルーレが主様の着ていた衣装をハンガーに掛けていた。
「主様、ぐっすりですよ。お着替えをしている間も全く起きませんでした。心配になるくらいに」
「そうか……」
「主様、どうされたんでしょう」
ムーが弱々しい声で良い、主様の枕元で丸くなる。主様は、うなされているようには見えないもののぴくりともしない。胸が上下していることを何度も確認してしまう。
ハウレスはフルーレと廊下に出て、静かに扉を閉めた。
「ありがとう、フルーレ。着替えばかりはお前にしか頼めないからな」
「俺の仕事ですから、任せてください。それより、主様は……」
「精神面の不調だろう……と思うが、起きられたらルカスさんに診てもらおう」
「そうですね。主様は俺たちに出会うまで、ああいった状態をひとりで乗り越えられていたんですよね」
「ああ。病院にかかっているから随分生きやすいとおっしゃっていたが……本当に辛いときは、どうだったのか」
主様は以前、ハウレスに対して「昔の自分に似ている」と言ったことがある。それを聞いてハウレスは納得したのだ。ハウレス自身、人に甘え辛い気質の自覚がある。何でも完璧に一人でこなそうとする。主様もそうだったのだ。
主様は力の抜き方を知らずに走り続けた結果、張り詰めていた緊張が限界に達したのだろう。ハウレスには、フェネスを初めとして気遣ってくれる仲間がいるが、主様にはいなかったのかもしれない。主様の危うさに誰も気付かなかったのかもしれない。
そうして主様は、完全な修復が不可能なほど心を砕いてしまった。
デビルズパレスでの生活やハウレスたちの存在で、ほんの少しでも心が休まれば良い。執事の誰もが、主様を一人きりにはしないのだ。
主様尊い……。
そよ風のかんざし
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