頑張りたかった


 ハウレスは、シルバーウェアを磨きながら溜息をついた。今この場にはハウレスしかおらず、力を抜いても誰にも見られない。
 ここ五日ほど、主様の屋敷滞在時間がほぼない。
 天使が現れれば来てくれるが、その他は全くだ。眠るのも食事も向こうの世界で、就寝前のハーブティーすら飲みに来ない。モーニングコールのときに返答はくれるものの、いつも「今日はそっち行かないでおこうかな」と付け足されるのだ。
 仕事が立て込んでいるのかも知れない。もしかしたら、主様の家族に何かあったのかもしれない。そういうときこそ頼ってほしい気持ちはあるが、ハウレスがあちらの世界で力になれることはないのだ。ハウレスに出来るのは、屋敷に帰って来た主様に言葉を掛け、主様がリラックス出来る環境を作るだけ。
 ハウレスは主様の部屋に向かった。まだ昼で、主様は仕事をしている時間だ。そもそも、朝に「今日も行かないかも」と聞いている。会うことは叶わないだろう。
 ハウレスは両手で口元を覆い、誰にも聞かれないよう小さな声で囁いた。

「主様、屋敷に帰って来てください」

 主様には、執事の独り言が届く。この言葉も届かないだろうか。執事が主様を呼び出すなど、身の程を弁えていない行動だとは分かっている。
 主様が帰って来たときのために、屋敷を綺麗に保って、いつでもお茶を出せるよう準備をして、己も磨いて。女々しく肩を落としている場合ではないと主様の部屋から出ようとしたところで、背後の人影に気が付いた。
 シンプルなブラウスにシンプルなガウチョパンツ。首にはネームカードを掛けている。仕事中の服装だとはすぐに分かったが、首にネームカードを掛けている状態で屋敷に帰って来たのは初めてだ。
 ハウレスは、自分の表情が緩むのを感じた。自分の声が届いたのだろうか。

「おかえりなさいませ、あるじさ」
「だめだあ」

 ハウレスが一礼をする前に、主様が力のない声を出す。よろけるようにハウレスに歩み寄り、ハウレスの肩に頭を押し付けた。
 主様からこうも近付かれたことはない。一瞬体が固まったが、鼻をすする音が聞こえた。
 主様が泣いている。
 ハウレスは行き場を無くしていた手で、主様の背中を撫でた。弱りきった主様に一番響く言葉を、ハウレスはよく知っている。

「大丈夫ですよ、主様。俺は何があっても主様の味方ですから。大丈夫です、安心してください」
「……」
「主様は大丈夫です。大丈夫ですよ」
「うん……」

 何があったのか聞きたいが、無理に聞き出すつもりもない。ハンカチを渡すために一瞬体を離すことすら躊躇われ、ハウレスは主様の背中を撫で続けた。
 主様が黙っている時間は短かった。

「……みんなに頼り切るのは良くないと思ったの。みんなの優しさに相応しい主様でありたかったの。だから、一人でも大丈夫だよって言いたくて」
「はい」
「でも、頑張れなかった。もう、何で調子を崩しているのかも分からない。トイレの鏡の前から動けなくなっていたらハウレスくんの声が聞こえて、会いたくなっちゃった」
「俺を頼ってくれて嬉しいです。俺は、主様のために在るのですから」
「ハウレスくんの、みんなの優しさに慣れてしまった。なんにも一人で頑張れない。こんなんじゃ、尊敬される主様になれない」

 主様がハウレスのジャケットの裾を握ったのが分かった。
 ハウレスは主様の背中を撫でていた手で頭を撫でる。主様は、微細な装飾がされた薄いガラスでできている。ハウレスはそれを守ることが生きがいなのだ。

「そんなことはありませんよ。主様はいつだって素敵です。俺の、何より大切な主様です。生きていてくれるだけで、俺たちには十分です」
「すぐ泣いちゃうのに」
「俺の前で、弱さを見せてくれて嬉しいです。辛い≠ニ人に伝えられるのは、弱さではなく強さですよ」
「面倒くさいなって自分でも思うのに」
「主様が辛いとき、俺のところに帰って来てくれて嬉しいです」
「ハウレスくんは、そうやってわたしを甘やかす」
「俺は、主様を思う気持ちが全てなんです」

 主様が嗚咽を漏らす。
 ハウレスは主様に話しかけるとき、優しく穏やかに話すよう心掛けている。それを一層柔らかく、主様が溶けてしまうくらいに温かく。

「俺たちのために、頑張ろうとしてくれたんですよね。そのお気持ちはとても嬉しいです。でも、頑張らなくていいんですよ。ありのままの主様でいてください。俺は、ずっと主様のそばにいますから」
「……ハウくんは、すぐわたしを泣かす」
「すみません」
「まだ会社なのに化粧が溶けちゃう。ハウレスくんのお洋服にファンデーションついたかも」
「主様がそれだけ俺のそばにいてくれた証ですから、むしろ嬉しいです」
「もう、すぐそういうことを……」

 主様が涙に濡れた声で笑う。しかし、まだ顔は上げられないようだった。ハウレスは自分の肩に預けられた頭を撫でながら、主様の世界を思って眉を寄せる。
 主様は繊細すぎる。ただでさえ細い糸の上を歩いている主様にとって、あちらの世界で生きることは過酷なのだろう。
 大切な主様を摩耗させる、全てのものを呪いたい。



主様尊い……。
そよ風のかんざし
ALICE+