大切な主様
ハウレスは貴族≠ニいう存在を嫌悪する。
貴族≠ヘ、質素ながらも幸せに温かく生きていたハウレスに地獄を突き付けた。何よりも大事で、ハウレスが守らねばならなかった存在を苦しめて殺した。ハウレスの生きる理由を非道な手で奪い取ったのだ。
牢獄の冷たい床を顔に感じながら宙を見る。度重なる暴行により、体中が痛い。鍛えているといえども、一方的な暴力は堪える。看守を昏倒させることは容易いが、主様が人質になっている以上はそう下手なことも出来なかった。
真っ先に投獄されたハウレスは、主様の処遇について知る術を持たない。しかし自分が投獄されているのだ、安心できる状態ではないだろう。ルカスが傍にいたとはいえ、ヒートアップした大貴族を完全に丸め込むのは難しい。
自分がどれだけ痛めつけられても、主様が無事ならばそれでいい。たとえ自分が処刑されたとしても、主様が生きているのならばそれでいい。
「きみの主、さっき処刑されたよ」
天使が耳障りな声で言う。常ならば戯言を言うなと一蹴出来たかもしれないが、トリシアの姿を目に納めて心が揺らぎ、健康状態が著しく悪いとなれば、冷静な判断は下せなかった。憎き天使の言葉を信じてしまうくらいに、ハウレスは参り切っていたのだ。
貴族≠根絶しなければ。ハウレスの大事なものを二度も奪った貴族≠、ほんの少しも残してはおけない。
怒りは大きな力を生んだ。これが悪魔化か、とぼんやり思うことは出来たが、歯止めをかける気にはならなかった。これが憎き貴族≠絶やす力になるのならば歓迎だ。
自分を阻む全てに剣を振るい続けるうちに徐々に体力が削られていく中で、主様の声がした。
「わたしはここにいるよ」
主様の生存を知らされて仲間からの声を聞いても、ハウレスの怒りは収まらなかった。むしろ、強くなってすらいた。
主様が生きているのならば、今度こそ貴族≠全て殺さなければ。主様に害をなす可能性のある存在は、今すぐに、全てこの手で排除しなければ。
剣を握る手は緩められない。それしか感じない。絶望を拭うことなど出来ない。
黒く塗りつぶされた絶望の中にいるハウレスの足を止めたのは、何よりも大切にしたかったトリシアの声だった。
『お兄ちゃん』
流れ続けていた涙が、堰を切ったように勢いを増した。幼くしてこの世を去ったトリシアは、ハウレスの強すぎる正義感を咎めることもなく、自慢の兄と言ってくれるのだ。
大事な、何よりも大切な、何が何でも守り抜きたかった、たった一人の家族。
ハウレスが殺戮を行ってしまえば、トリシアの自慢の兄ではいられない。いつだってハウレスを支えて応援してくれた可愛い妹の自慢の兄≠ナいられることは、ハウレスの大きな支えだったのだ。
剣を握る手から力が抜けていく。そして武器を握って震える両手に、柔らかい手が重なった。
頬を涙で濡らした主様がハウレスを見て微笑んでいる。武器は危ないからと主様から距離を取りたかったが、体は全く動かなかった。
「ハウレスくんの淹れてくれた、ハーブティーが飲みたいなあ」
目の前で優しい光が散った。主様と過ごした日々が次々に浮かんでくる。どれもが忘れられない思い出だ。主様の手がいつも冷たいことも、就寝前のハーブティーを楽しみにしていることも、弱ると涙を流すことも、ハウレスはよく知っていた。
――夜の山は寒い。暖炉に火を入れなければ。
――もう夜なのだ。はやく、ハーブティーの準備をしなければ。
――主様が泣いている。自分が支えなければ。
そう思った途端、反射のように言葉が出た。
「大丈夫ですよ。俺が、ずっとそばにいますから」
大事な、何よりも大切な、何が何でも守り抜きたい主様のそばには、ずっと自分がいなければ。
主様尊い……。
そよ風のかんざし
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