心を緩められる場所



 ハウレスは、新しい主様との距離感に悩んでいた。担当として自分を指名してくれたのは当然嬉しいし、全身全霊をもって支えるつもりではある。しかし、デビルズパレスによく顔を出してはくれるもののまだどこか他人行儀だ。
 ハウレスは毎朝、指輪を通して主様に朝を告げている。主様も起床して返事をしてくれる。仕事がある日も就寝前にやって来てくれる。眠るのは向こうの世界なので長居はしないが、時間があればハーブティーを飲みながら執事たちのことを話す。休みの日は、時間帯はまちまちだが平日よりも長い時間をデビルズパレスで過ごしている。昼食や夕食を食べる日もある。主様は、ハウレスたちに歩み寄ろうとしてくれているのだ。
 なのに何故が縮まらない距離感。フルーレとは気安く話しているように見えるが、逆に言うとフルーレ以外の執事相手だと気を張っているように思うのだ。フルーレに主様とどうやって仲良くなったのかを聞くと、衣装がらみの話題で盛り上がれるらしい。「幸か不幸か、俺の見た目が男っぽくないからというのもあるかと」とも言われた。
 こればかりは急がず気長に構えるしかないか。ほんの少しでも安らいでもらおうと、主様の部屋にアモンが育てた花を飾る。
 そろそろ、就寝前の主様がやって来るだろう。主様は早寝早起きだ。ハウレスは主様の部屋で花を見ながら待機した。
 しかし、いつもの時間になっても主様が来ない。規則正しい生活を心がけていると言っていたが、何かあったのだろうか。
 ハウレスが窓を鏡代わりにしてネクタイを整えていると、ようやく背後で靴音がした。帰還を歓迎しようと姿勢を正して振り向くも、主様の様子がいつもと違う。
 いつもの部屋着だが、どこか呆然としている。

「おかえりなさいませ、主様。今日も一日、お疲れ様でした」
「……ハウレスくん」
「はい」

 何か言いたげな主様の言葉を待っていると、主様の目にみるみる涙が浮かぶ。主様は鼻をすすって、袖で涙を拭った。
 ハウレスは慌てて駆け寄ると、俯く主様の顔をのぞきこむ。

「主様、何かお辛いことがありましたか? 俺はいつでも主様の味方ですから、何でも話してください。大丈夫ですよ」

 優しく背中をさすって椅子に座らせ、主様が落ち着くのを待つ。主様は腕で顔を隠したまま、ぽつぽつと話した。

「あのね……何かあったわけじゃないんだけど、なんだか上手くいかなくて」
「はい、頑張ったのですね」
「ん、そう、頑張ったの。会社を出るまで、何ともなかったの。でも、家についたら落ち着かなくて」
「はい」
「わたし、生きること、頑張っているんだよ」
「主様が頑張っていること、ちゃんと知っていますよ」

 主様がしゃくりあげる。

「ハウレスくんは、いつも、優しいから。顔を見たら、気が抜けてしまって」
「! ……そうですか。俺を頼ってくれて嬉しいです」
「わたし、偉いでしょ、ちゃんと生きているの」
「はい、とても偉いです。尊敬します」
「……ハウレスくん」
「はい」
「もっかい、『大丈夫』って言って欲しい」
「はい、何度でも言います」

 ハウレスは、床に膝をついて主様を見上げた。顔を隠していた主様の片手を握り、穏やかな声でゆっくりと話しかける。

「主様、大丈夫ですよ。頑張らなくていいんです。いつでもここに帰ってきてください。主様は、大丈夫です。俺がそばにいますから」

 次から次へと頬を伝う涙が手に落ちる。主様の涙が止まるまで、ハウレスは言葉をかけ続けた。
 大丈夫です。大丈夫ですよ。俺がいます。
 何度もそう繰り返していると、主様の呼吸が落ち着いてくる。主様はハウレスが渡したハンカチで乱暴に涙を拭うと、真っ赤な目で笑った。

「ハウレスくんの淹れたハーブティーを飲んでから、こっちで寝る……」
「はい。すぐに準備をしますね」

 ハウレスも笑顔を返すと、主様は少しだけ照れたように視線を逸らした。
 弱った主様が自分を頼ってくれた。自分の言葉で安心してくれた。
 主様の部屋でティーセットを準備する。ハウレスは内心の高揚を悟られないよう堪えたつもりだったが、ティーカップを持った主様に指摘された。

「ハウレスくん、ちょっと楽しそうだね」
「いえ、その」

 主様の泣き顔を見て機嫌が良くなったと思われると誤解を招きそうだ。取り繕おうとしたが、自分を見上げる主様の目が穏やかなことに気付く。
 ハウレスは胸に手を当てて目を伏せ、正直に答えた。

「主様に頼られて、嬉しかったものですから」
「……わたしは、」
 主様がティーカップで口元を隠す。
「わたしはいつも、ハウレスくんに優しくしてもらってすごく嬉しいよ」
「……はい、ありがとうございます」
「お礼を言うのはわたしのほうだけど」
「俺も嬉しいですから」

 主様は可笑しそうだった。もう随分落ち着いたようだ。これならしっかり眠れそうで何よりである。
 ナイトティーを終えると、主様は一度戻って歯磨きをした後にまたやって来た。ラムリが整えたベッドに横になり、眠るまで居座る気満々のハウレスを見上げて困った顔をする。

「なんか緊張する……」
「安眠をお手伝いしようと思ったのですが」
「わたし、寝入りはすごく早いんだ」
「そうなのですか。しかし、さすがに今夜は心配です」
「それもそうだよね……」

 まだ目元の赤い主様が頷く。ひとりになった途端不安がぶり返したらと思うと、ハウレスは主様を放置できない。
 ハウレスの懸念も当然と考えたらしい主様は、やがて観念して目を閉じた。

「でもじっと見られると落ち着かないから、せめてなにか作業していて。音が鳴っても眠れるから」
「では、ティーセットを片付け始めておきますね」
「うん。おやすみ、ハウレスくん」
「おやすみなさいませ、主様」

 ハウレスはランタンを灯して部屋の明りを消し、ティーセットを動かす。注意をしてもかすかに音が鳴ってしまうものの、主様の口ぶりからするとこれで良いのだろう。
 そうして二分程で主様の寝息が聞こえる。確かに寝入りはとても良いようだが、思ったよりも早い。
 これは、気絶では。
 ハウレスは暗闇の中で腕を組み、顔をしかめた。


主様尊い……。
そよ風のかんざし
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