あなたの心を守れたら


 夜の山は、湿った土の匂いがする。
 月明りも木々で遮られる中、葉がこすれる音と虫の鳴き声だけが聞こえる環境は人によっては不気味に感じるのだろうが、ハウレスは幼い頃から暗闇に怯えたことがない。しかし、この時ばかりは恐怖心を抱いていた。大事な存在を失うことへの恐怖だ。
 声を上げながら道なき道を駆け、まとわりつく髪を乱暴にかき上げながら暗闇に目を凝らす。昼間ならばともかく、夜闇の中で人探しをするのは難しい。それでも、声が聞こえれば駆けつけられるのだが。
 必死な中で見つけたトリシアは、変わり果てた姿をしていた。辛うじて息はあったが細く、胸は小刻みに上下し、夜の森に血の匂いと生臭い匂いが混ざる。すぐに助け起こさなくてはと分かっているものの、悲惨な状況に一瞬息が詰まった。
 少女が攫われ、ここまで追い詰められたのだ。何をされたかは想像に難くない。
 名前を呼びながら呼吸を確認していると、背後で火が爆ぜる音がした。ハウレスの背後から、揺れる光がトリシアを照らしていた。
 焦げ臭い匂いがする。
 ハウレスが振り向くと、そこには大きな十字架が立っていた。十字架の足元には薪がくべられ、大きな炎が上がっている。火にあぶられている十字架には、誰かが磔にされていた。
 眩しい炎に目を凝らすと、磔にされているのが傷だらけの主様だと分かった。
 トリシアを抱き上げたまま炎を凝視して呆然としていると、今にも消えてしまいそうな声がした。か細くありながら、しっかりとハウレスの脳に届く声だった。

「たすけて、おにいちゃん」
「たすけて、ハウレスくん」

 どれほど泣いたか分からないのに、枯れない涙が頬を伝う。突然身に降りかかった絶望に目の前が真っ暗になった。トリシアを抱いて医院に駆け込み、炎をかき分けて主様を助けなければならないのに、心を失うほどの絶望を前にして息をすることも忘れていた。
 五感が失われていく。かすかに残ったトリシアの体温も、眩しいまでの炎も遠ざかっていく。
 そんな絶望の中で、何か温かいものに包まれて呼吸を思い出す。優しい光が周囲を照らし、温かい水中にいるかのような心地よい浮遊感に身を任せた。

「大丈夫だよ」

 ゆっくりとした声を合図に、四肢の感覚が戻って来る。

「辛かったね。もう大丈夫だよ、ハウレスくん」

 自分の名前を呼ぶ穏やかな声に目を開ける。目を開けても薄暗かったが、絶望の暗さではない。何か、肌触りの良い物に包まれて直接的な光が和らげられていた。
 ブランケットだろうか。ここはどこだっただろうか。鈍った頭で考えていると、また穏やかな声が聞こえる。

「わたしはちゃんと、ここにいるよ」

 主様の声だ。
 自分を覆うブランケットを払いのけると、いささか驚いた顔の主様がいた。
 そうだ、主様が帰って来る時間まで書庫で過ごしていた。フェネスが新しく選定した本の背表紙を眺めていると疲労からの眠気に襲われ、ソファに腰かけたのだ。そのまま眠り、悪夢を見たらしい。
 主様は片膝をソファに乗り上げ、ハウレスの涙を隠すブランケットごとハウレスを抱きしめてくれていたのだ。
 主様が生きている。トリシアはもう戻らなくても、まだ、ハウレスの大事なものはここにある。
 ハウレスは、座ったままで主様を抱き寄せた。いつもの主様だ。いつもハウレスに笑顔をくれる、優しい主様がここにいる。
 すがるように抱きしめると、主様に背を撫でられた。

「あるじさま」
「うん、ここにいるよ」
「あるじさまが、いきてる」
「うん、ハウレスくんはちゃんと守ってくれたよ」
「おれを、」

――俺を置いていかないで。
 止まらない涙にしゃくりあげていると、背を撫でてあやされる。大丈夫、と繰り返す言葉は、普段ハウレスが主様にかけているものだ。
 執事として情けないと思いながらも、涙で主様の肩を濡らしていく。

「ずーっと、一緒に居ようね」

 主様の声が、土の匂いも炎が爆ぜる音もかき消していく。
 主様はいつも「みんなに甘えてしまう」と言うが、きっと、依存しているのはこちらのほうなのだ。


 呼吸が落ち着いて我に返ると、主様の前でなんという姿をさらしたのだろうと冷や汗が出て来る。主様が失望することはないと分かってはいるが、完璧な執事を目指す身としては大きな失態だ。

「取り乱しました……すみません」
「いいよ。夢見が悪かったの?」
「はい。最悪の夢でした」

 悪夢を見るのは主様も同じかもしれないのに、自分がこれほど取り乱しては主様を安心させることも出来ない。
 ハウレスはブランケットに顔を埋めた。そのまま深呼吸をした後で主様に向き直る。号泣した後の顔など見られたいものではないが、主様から目を逸らしたくはなかった。

「……ありがとうございます。落ち着きました」
「良かった」
「すぐに顔を洗ってきます」
「今日はゆっくりしたほうがいいよ。わたしのことは気にしないで」
「いいえ。こんな日だからこそ……どうか、俺の傍にいてくれませんか」

 自分がこんな甘えたことを言うとは。三百年以上生きていても、絶望に向き合うことは簡単ではない。向き合おうと誓って悪魔化を乗り越えたというのに、この有様だ。
 主様はハウレスの弱弱しい頼みを聞くと、腕を伸ばしてハウレスの頬を伝う涙を拭った。
 今日ばかりは、弱い自分を許してやりたかった。




主様尊い……。
そよ風のかんざし
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