肉体の痛みとこころの痛み
――一時間後くらいに帰ります。
主様の呟きが聞こえたのは、午後三時を回ったところだった。屋敷に居たハウレスはそれに返事を返し、約五十分後に主様の部屋で主様を待った。
今日は仕事のはずだが、午後に休みを取ったか、早く帰ることにしたのか。声音的には明るかったが、一体どうしたのだろう。どちらにせよ、屋敷に来てくれることが嬉しいのには変わりない。予定より早い時間に主様と会えるというのは、ハウレスの機嫌を急上昇させた。
しかし、現れた主様はどこか全体的に力が入っていなかった。鬱々しい気分による無気力ではなく、どちらかというと陽気な印象さえ受ける脱力感だ。
「おかえりなさいませ、主様」
「ただいま。急にごめんね」
「主様にお会いできて嬉しいです」
「うん。あのねえ、ハウレスくん、見て見て」
「はい?」
主様はふにゃふにゃ笑いながら、ゆったりしたガウチョパンツの裾を持ち上げた。不意に目に飛び込んだ肌色に、ハウレスは勢いよく顔を逸らす。主様が裾を持ち上げている光景を見られるわけがない。
ハウレスはあらぬ方向を向いていたが、主様に不満そうな声で名前を呼ばれた。
「ハウレスくん、見てよ」
「いえ、そういうわけには」
「すごい怪我をしたの」
「怪我?」
それは執事として素知らぬ振りなど出来ない。
ハウレスは一度深呼吸を挟んでから主様に向き直った。主様が裾を持ち上げているのは左足だ。その膝部分が、真っ白な包帯で覆われている。少し転んだ程度では済まない面積にハウレスは血の気が引いた。よく見ると、膝以外にも擦り傷がいくつかある。
ハウレスは慌てて主様をソファに誘導した。主様は左足を引きずるように動き、ハウレスの手を借りて腰を下ろす。
膝の状態は包帯で見えないが、足全体の擦過傷と足の引きずり方から楽観視出来る状態でないことは分かる。
「ルカスさんを呼んできます」
「処置も検査もされているから大丈夫だよ。あとね、今週ほとんどこっちで過ごしてもいい?」
「それは歓迎いたしますが、何があったのですか?」
主様は軽く笑った。
「車に撥ねられた」
「……荷車に?」
「どっちかというと馬車」
「馬車⁉」
笑い事ではない。
ハウレスが凍りつくと、主様が続ける。
「骨折はしていなくて、左半身の関節を全部捻挫している感じ。あと膝がずる剥け。そして何故か熱がある」
本当に笑い事ではない。
ハウレスは速やかに主様を抱き上げてベッドに移動させ、準備していた水差しでグラスに水を注いだ。主様は水を一気に飲むと、またふにゃふにゃ笑う。発熱故に力が入らないらしい。
手袋を外し、「失礼します」と声をかけて主様の額に手を当てる。筋肉量の少なさから体温を下げがちな主様の額は、ハウレスの手より明らかに熱かった。
「やはり、ルカスさんを呼んできます。今週、お仕事はお休みされるということですか?」
「うん、さすがにね。事故の手続きとかはあるけど動きづらいし、引きこもっていても暇だからこっちにいたいなって」
大怪我に発熱。骨折がないのは、不幸中の幸いと言うべきか。
ハウレスが今にも医務室に駆け出そうとすると、主様に袖を引かれた。
「軽傷だよ。ちょっと脳震盪にはなったけど、この通り無事だから。安心して」
「そうは言っても、馬車ですよ? 今週はベッドの上から動かないでくださいね。俺たちが全てお世話を致しますから」
「警察署には行かなきゃ……」
「必要なものがあればお申し付けください。俺はまずルカスさんを呼んできます」
「走らなくていいよ」
「……早歩きで行きます」
主様は首が鞭打ちにもなっていると言うので、ハウレスはクッションとブランケットを重ねてベッドに傾斜を作り、主様が体を預けるのを手伝った。なにせ首を痛めているのだ。仕事が休みの一週間、絶対に安静にしていてもらわなければ。
ハウレスは主様の肩まで布団を掛け、早足で部屋を出た。ハウレスの早足はおそらく主様のジョギング速度だが、あくまでもハウレスは早足であり、走ってはいなかった。
医務室に飛び込むと、備品整理をしていたルカスが振り向いて首を傾げる。
「何かあったのかな?」
「ルカスさん、主様があちらの世界で馬車に撥ねられたそうで、怪我と発熱が。あと鞭打ちも」
「馬車⁉」
ルカスとともに、今度は走って部屋に戻る。
部屋には先ほどと変わらない体勢の主様がおり、ルカスを見て片手をあげた。
「ごきげんよう、ルカスくん」
「お帰りなさいませ、主様。ハウレスくんから事故に遭ったとうかがいましたが……ご気分は?」
ルカスが椅子をベッドの傍に移動させて腰を下ろす。主様の額に手を当て「熱いね」と呟いた。
「すごくだるいけど大丈夫。というか寝そう。ちょっと寝てもいい?」
「もちろんですよ。怪我の具合は後ほどお聞きしたいですか、今はひとまずお休みになってください」
「ありがとう。おやすみ」
「はい、おやすみなさいませ」
主様は目を閉じると、すぐに眠りに落ちたようだった。怪我に緊張に発熱とくれば、このまましばらくは目覚めないだろう。しっかり受け答え出来る元気があることは安心だが、事故となれば今後もストレスを感じる場面が多そうだ。疲弊しないと良いのだが。
他の執事たちにも連絡をしなければ。見舞いに押し掛けないようにだけ、注意しておかなければならない。
「ハウレスくん」
「はい」
腰を上げたルカスの視線は主様に向いていた。
「向こうの世界に行けたなら……ね」
濁されたが、ルカスが言わんとしていることは分かった。みんな、考えることは同じらしい。
普段にこやかなルカスは、主様に見せられないくらい表情を無くしていた。ハウレスも、自分がルカスと同じくらい物騒な表情を浮かべている自信があった。
自分たちが向こうの世界に行けたなら、主様を撥ねた人間を全員で取り囲むのに。手は出さないにしても、剣を突き付けてこちらの怒りを伝えたい。
主様尊い……。
そよ風のかんざし
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