不安なまどろみ


 ハウレスは書庫のソファに座り、チェスの戦術本を読んでいた。以前も読んだことのある内容だが、久しぶりに読むとまた新しい発見がある。昨晩フェネスに負けたために、戦術の知識を増やしたくなったのだ。
 ソファに深く腰掛けてページをめくっていると、足音が近づいてきた。
 足音には個性が出る。姿勢や歩き方を訓練しているハウレスたちでも、靴の素材や体格によって音が変わる。性別が変われば、また一層音が変わる。ハウレスたちよりも高く軽く歩幅の狭い音は、主様の足音だ。
 ハウレスは本を置いて腰を上げた。足音は一人分しかない。たとえ屋敷内であっても、極力主様を一人にはしたくない。
 ハウレスの物音で誰かがいることに気付いたのか、棚の向こうにある足音が早くなる。

「主様、お帰りだったのですね」

 ハウレスがそう言って棚の影から出ると、ちょうど主様と対面する形になった。
 仕事がある日の決まった時間や、休日の事前に聞いていた時間にはハウレスたちが主様の部屋に控えているが、主様が気まぐれで足を運んでくれるときに待ち受けることは難しい。そんなとき、主様は事前に指輪を通しての会話で手が空いている執事を探したり、こうして誰かと合流しようとしてくれる。主様をひとりきりにしたくないというハウレスたちの思いを理解してくれているのだ。
 ハウレスの挨拶に、主様は二度頷いた。

「うん、ただいま」
「お部屋に戻られますか?」
「ここにいるから、ここにいて」

 どこか心ここにあらずな主様は淡々と言い、書庫を軽く見回した。よろけるようにベンチソファに近づくと、端に座って靴を脱ぐ。全体的に緩慢な動作に、はっとしたハウレスは書庫内に置いているブランケットを手に取った。
 主様が崩れるようにしてソファに横になるので、ハウレスは大きなブランケットで主様の体をすっぽりと覆う。
 元気なときは明るく話し好きな主様の無言だ。調子が良くないのだろう。
 ソファに沈み込むように脱力した主様だったが、目を閉じずに虚空を見ている。ハウレスはしゃがみこんで主様と視線を合わせた。

「主様、よく頑張りましたね。ゆっくり休みましょう。俺はここにいますから、安心してくださいね」
「ん」

 主様は短く返事をしたものの、目を閉じない。
 ハウレスは出来る限り柔らかい声で、ゆっくりと話しかけた。

「もちろん、お話したいことがあれば何でも受け止めます。辛い気持ちや、苦しい気持ち……なんでも吐き出してくださいね」

 途端、虚空を見ていた主様の目が泳ぐ。みるみる内に涙の膜が張り、瞬きをすると涙が頬を伝った。
 ハウレスは密かに安堵する。抱えて堪え続けるよりも、涙を流して力を抜けたほうが良い。ハウレスの言葉で緊張を解き、ハウレスの前で涙を見せてくれるのは嬉しいことだ。
 主様はハウレスのネクタイの結び目辺りを見ながら、震える唇を開いた。

「調子が悪い、悔しい。なんにも出来ない」
「生きているだけで十分ですよ」
「だって、なんにも。わたし、どうしよう」
「大丈夫ですよ。いくらでも休んでいいんです」
「なんにも出来なくても、ここは優しいから。ここに帰って来たかった」
「いつでも、ずっとでも、ここに居てください。いつだって俺たちは、主様を癒すために寄り添いますから」

 ハウレスはハンカチで主様の涙を拭った後、手で主様の目元を覆った。

「主様、頑張らなくていいんですよ。主様はちゃんと生きています。大丈夫です。今は、しっかり休みましょう。さあ、深呼吸をしましょう」

 主様の目元に影を作ったまま、深呼吸を促す。意図的な大きな呼吸が小さな寝息になってから目隠しを外した。
 ハウレスは一人掛けの椅子を静かに持ち上げ、主様が眠るソファのそばに置いた。読みかけのチェスの戦術本を開いたものの読む気にならず、気絶するように意識を手放した主様を見下ろす。
 自分で自分を追い詰めてしまっているのだろう。混乱しながらもデビルズパレスを帰る場所と考え、重い体を動かしてここまで来てくれたのだ。

「ヘルム・スルール……夢の中でも、あなたを癒せますように」

 せめて良い夢を見て欲しい。睡眠は、何もしない≠苦手とする主様が唯一休める瞬間なのだ。
 ハウレスは、指先で主様の髪を撫でた。


主様尊い……。
そよ風のかんざし
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