光を悼む
ムーのブラッシングはバスティンが行うことが多い。日頃から馬の世話をし、猫好きであるバスティンのブラッシングは思わず眠ってしまうほど気持ちが良い。
しかし、今は主様がブラシを持っている。ムーは、主様の優しく気遣うようなブラッシングも大好きだ。喉もゴロゴロと鳴り続けるし、油断すると主様の膝で甘えてしまいそうなほどテクニシャンなのだった。
ムーは主様の部屋のベッドで、主様直々にブラッシングをされ、体全体がとろけていた。うっとり目を細めていると、主様がぽつりと言う。
「あのね。なんだかね、疑問があってね」
「……はい?」
「執事のみんなには聞けないから、ムーくんに独り言を言うけど」
どれだけブラッシングが気持ち良くても、主様のお話を聞き逃すわけにはいかない。ブラッシングのペースが落ちていた主様の手から離れ、その場に座る。一つあくびをしてしまったが、主様は笑ってムーの頭を撫でた。
主様の声音は落ち込んでいないが、いつもよりもずっと潜めた声だった。
「天使って、人を消していくでしょ?」
「はい、そうですね」
「天使の光に痛みはあるのかな」
「痛み……ですか?」
考えたことも無かったが、言われてみれば疑問ではある。天使に怯える悲鳴は聞いても消えてしまうときは一瞬だ。あの瞬間に何が起こっているのか、ムーはもちろん、おそらく誰にも分からない。
主様はブラシの毛をいじりながら思案気にしている。ベリアンが主様のことを「研究者の様ですね」と言っていたことはあるが、確かに疑問を口にする主様の表情はどこか淡々としていて客観的だった。
「なんで殺すのではなく消すのか……天使の根本的な行動原理が分からないから、より一層分からないよね。でも、思ってしまったの。もし痛みがなくて一瞬で形を失うのなら、惨殺されるよりは穏やかに逝けるのではないかしらって」
「主様……」
「みんなには言わないでね」
天使によって大事な人を失い、天使と戦う執事たちには話せない内容だ。話し相手にムーを選んだのも納得である。
ムーの脳裏に、何度か見たことのある攻撃的で強い光がよぎった。
「あの光の中で、一体何が起こっているんでしょう」
「そうなんだよね。謎なんだよね。ベリアンくんなら何か知っているかもしれないけど……確実な情報を握っているならそのうち教えてくれると思うし。だから、ただぼんやり疑問に思っているだけなんだけど」
「痛いなら……辛いですね」
「うん。全身が焼かれるようになってしまうなら、想像しただけで泣きそうになるくらいこわいよ」
ムーは主様の呼吸が一瞬浅くなったことに気付き、慌てて主様の手に擦り寄った。感受性が豊かすぎるのも考え物だ。
「主様のことは、僕たちが守りますよ」
「……ありがとう」
主様が微笑みを取り戻してムーを撫でる。
「死ぬ恐怖はあっても痛みが無いなら……いや、死ぬことにマシ≠烽ネいか。これは駄目な考え方だね」
「主様の言いたいこと、なんとなく分かります。僕も痛いのは嫌です。痛い思いをしているひとを見るのも、とっても辛いです」
「うん、そうなの。痛みなく逝けるなら穏やかかもしれない。残される人も凄惨な現場を見ずに済むのなら、心の傷は少ないのかもしれない。……すごく失礼で愚かな考え方だと思うんだけど、気になり始めたら頭から離れなくて」
主様はムーに顔を向けながらも、視線はどこか遠くを見ている。今まで出会って天使や、人が消される瞬間を思い出しているのだろう。戦闘や人の死で疲弊し、執事たちに気遣われながら深く眠る主様とは打って変わって冷静だ。
今の主様は、天使そのものや天使の光を恐れていないように見えた。ただ興味の対象として考えている。ラトが天使に対して臆さない様子が重なった。
ムーは心臓が冷える心地がした。
「……主様」
「うん?」
「いくら気になっても、天使の光に飛び込んで行かないでくださいね」
冗談のつもりはなく、心の底からの願いだった。
主様はムーの言葉に笑みを浮かべた。それがいつも通りの、ムーを見つめた笑みであることにほっと息を吐く。
「あはは、行かないよ。死にたくないもん」
「約束ですよ」
「うん、約束ね。ムーくんも、わたしがこんな話をしたことを秘密にするって約束してくれる?」
「はい、秘密です! 約束します!」
「ありがとう。よし、話せてちょっとすっきりしたよ」
主様がブラシを持ち直してムーの毛を撫でる。ムーはまた全身を脱力させながら、鈍る頭で考えた。
主様のどこか危うい雰囲気が気にかかる。決して天使の光に飛び込むことはないとしても、興味があるという理由で天使の羽に触れることくらいはしてしまいそうだ。秘密にすると約束はしたものの、ハウレスにくらい話しておいたほうがいいのではないだろうか。天使の研究という点ではベリアンに相談するのもいい。
しかし、約束してしまった。ムーには、主様の悪夢をハウレスに話してしまったこともある。今度こそ主様との約束は守りたい。
そう考えていたが、体をとろけさせながらもハウレスに相談することを決意した。主様との約束は守りたいが、主様の安全のほうが大事だ。主様の安寧を守るために先手を打つのも、執事の仕事なのである。
主様尊い……。
そよ風のかんざし
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