ご機嫌らしい


――ハウくんハウくん、ハウレスくん!

 グロバナー家から帰る馬車の中で、主様の声がハウレスの脳に届いた。何故か名前を連呼されている。ともに馬車に乗るルカスが反応しないので、この声はハウレスだけに届いているらしい。
 すがる声ではなく、飛び跳ねるような、歌うような声だ。ハウレスは口元を手で覆った。笑みを堪えきれない。

――ハウレスくーん、んふふ。ハウレス・クリフォードくん!
「ふ、はは」

 指の間から声が漏れる。これだけ楽しそうに名前を口ずさまれて、澄まし顔ではいられない。いつまでも用事が続かないにも関わらず楽し気なので、本当にただ名前を呼んでいるだけのようだ。
 ハウレスが肩を震わせると、ルカスが不思議そうに問いかけてくる。

「ハウレスくん、どうかした?」
「主様の声が聞こえていて」
「おや、そうなのか。返事をしてさしあげたら?」
「そうします」

 ハウレスは咳ばらいを一つ挟み、祈るように目を閉じた。

「主様、お呼びですか?」
――あ、ハウレスくん! ごめん、聞こえてた?
「ええ。俺の名前がどうかしましたか?」
――なんでもない。出掛けるまで時間があるから、指輪を磨いていただけ。朝からテンション高くて。
「そうでしたか。俺の名前で良ければ、いくらでもお呼びください」
――……ちょっと恥ずかしいから黙る。

 主様の声が止む。ハウレスは微笑ましい気持ちが落ち着いてから顔を上げたが、何故かルカスが笑みを浮かべているので、ハウレスの表情もまだ緩んでいるのかもしれない。
 ハウレスは一度咳払いを挟んだ。

「ただご機嫌なだけでした」
「それは何よりだね。名前を呼んでもらったのかい?」
「ええ、連呼されていました」
「すっかり心を開いているようで嬉しいよ。少し羨ましいけれどね」

 主様はどの執事にも平等に接するが、担当執事としては基本的にハウレスが固定となっている。その立場を羨ましがられるのは珍しいことではない。しかし、本気でやっかんでいるような執事はいない。
 ハウレスが肩をすくめると、ルカスがまた笑う。

「主様とハウレスくんは、二人とも自分を許せない性格をしているから。同じ気質な分、お互いの弱点が分かってフォローし合えるのかもしれないね」
「自分を許せない……的確な表現ですね。耳が痛いです」
「加えて、主様はあの心の柔らかさと感受性の豊かさだから……わたしはいつも心配だよ」
「同意します。俺も、絶望を共有してしまって」

 おまけに主様の前で号泣した。主様が見る悪夢については小まめにヒアリングをしているが、ハウレスが泣いたことでハウレスに相談出来ていないのではという不安もあるため、そこについては執事たちに相談の上でルカスにもフォローをしてもらっている。
 でも、と。ルカスは心配そうな色を残しているものの、落ち着いた声で続けた。

「主様のお話や屋敷での様子を見る限り、精神的な不調は少しずつ回復しているように感じるよ。向こうの世界でのかかりつけ医の尽力ももちろんあるのだろうけれど、夜、ハーブティーを飲むが出来ない%もかなり減っているようだし。それどころか、夕食を栄養食だけで済ませる日も減っている。気力が夜まで持つようになってきたんだろうね」

 ハウレスは深く頷いた。ハーブティーを楽しみにしつつも、夜に襲われる焦りや不安により、ティーカップを持って硬直することがままあった。今それはほとんどなく、自然にベッドで横に慣れる日が格段に増えているのだ。屋敷の中で急に歩けなくなることも無くなった。
 薬は服用し続けているので、完治ではなくあくまでも安定≠セ。油断は出来ないが、主様の笑顔が増えたのは純粋に喜ばしい。

「涙をこぼすことも減りました。気分の上下はあるようですが、屋敷に来た当初よりは安定していると思います」
「わたしたちが主様を癒し、主様がわたしたちのことを味方だと信頼して下さっているんだろうね」
「そうですね。天使の討伐やグロバナー家の依頼……俺たちが主様にストレスを掛けている面もありますが、それでも、主様はデビルズパレスに帰って来てくださいます」
「嬉しいよ、本当に。ずっとこちらに居て欲しいと思うくらいにね」
「ええ、俺もそう思います」

 主様には主様の世界があると分かりつつも、執事の誰もが抱く想いだ。向こうの世界に行かず、ずっとデビルズパレスに居て欲しい。何の心配もなく、何にも心をすり減らされず、いつでもハウレスの声と手が届く場所に居て欲しい。
 無理な願いと分かっていても、執事の間では時折話題に上がることだ。
 ハウレスはルカスと小さく笑い、椅子に立てかけた剣に視線を向けた。

「俺の全ては主様のために在ります。この剣を持って、主様の世界に行けたらどれだけいいか……」
「みんなで押しかけたいね。十六人で行こう」
「主様の心を削っている会社に斬り込みたい気持ちと、主様の職を奪う訳にはいかないという気持ちが……」
「ああ、それは簡単だよ。会社に斬り込んだ後、主様にはデビルズパレスに住んでもらえばいいんだから。これで全部解決だね」

 ルカスが事も無げに言って、名案だと言いたげに手を叩く。デビルズパレス年長組でグロバナー家とも笑顔で渡り合うルカスの言葉は、妙に信ぴょう性があった。
 なんとかして指輪の機能を拡張出来ないだろうか。ルカスと夢を語っていると、また脳内で声がした。

――クリフォードくんは元気かな。

 鼻歌交じりの陽気な声だ。指輪は磨き終わったのだろうか。
 ハウレスはルカスとの会話を中断して、また手で口元を覆った。これ以上なく表情筋が緩む。

「元気なハウレス・クリフォードくんは、早く主様にお会いしたいです」




主様尊い……。
そよ風のかんざし
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