とろけきって
朝、あちらの世界に見送ったはずの主様が二時間ほどで屋敷に戻って来た。二時間経っているとは言っても、起床時間の早い主様にとってはまだ十分朝≠セ。執事たちも全員起きて仕事を始めた時間である。
書庫で執事たちの訓練トレーニングを整理していたハウレスは、不意に現れた主様への反応が一拍遅れた。主様がいなくなった寂しさを紛らわそうと、主様の部屋に最も近い書庫で仕事に集中しているのだ、その主様の姿が見えたときは都合の良い幻かと思ったのだった。
「おかえりなさいませ、主様」
「うん、さっきぶり」
「どうかなさいましたか? お仕事ですよね?」
「うん、ねむたくて。ねむたすぎてやすんだ」
主様は目を細めて微笑むと、ふらふらとソファに腰かけた。ただただ睡魔に襲われている。仕事をさぼって日向で舟をこぐラムリが重なった。
仕事を休むほどの睡魔らしい。確かに、ソファに座る主様の目はほとんど開いていない。
「お部屋でお休みになりますか?」
「ここでねてもいい? ハウくんも、しごとしていていいよ」
「承知いたしました。ブランケットをお持ちいたしますね」
「んい」
主様が、クッションを枕にしてソファで横になる。ハウレスが大きなブランケットを掛けると、主様はブランケットを口元まで引き上げて笑った。
「いいかおりがするねえ」
「ええ、ちょうど昨日洗濯をしたものですから」
「あったかいねえ、ふわふわだねえ」
主様の声が、不思議と全てひらがなで聞こえる。
ブランケットの香りと温かさに表情が緩みっぱなしの主様に、ハウレスもつられて笑む。今なら、最大限主様を甘やかせる。遠慮がちな主様を、目一杯、好きなだけ、思う存分、甘やかすことが出来そうだ。
実年齢より遥かに幼い仕草だが、呆れることは全くない。甘やかすチャンスは逃したくない。
「ぬくぬくですね、主様」
「ふふ、かわいいひびきだね」
「よし、よし、いつも頑張っていて偉いですね、ふわふわのブランケットでぬくぬくしていてくださいね」
「んへへへ」
「俺もお傍にいますから、何かあればいつでもお申し付けください」
「ハウくんはわたしのこときンにゃずぃ……」
「えっ?」
「おしごとしてていいお……」
そのまま呼吸が寝息に変わる。
ハウレスは数秒固まって幸せを噛み締めてから、テーブルに広げた訓練メニューのメモに視線を移した。いつまでも寝顔を眺めていたいのが本音だが、主様の許しもあるのだ、仕事に戻ることにする。主様も人の気配を感じたいからこそ自室ではなく書庫での休息を選んだのだろう。
しかし、仕事を休むほどの睡魔というのは心配だ。ムーから何も聞いてはいないが、寝不足だったのだろうか。意識を保てないほど眠いというのは病的だ。
主様が起きたら聞いてみなければと考えていると、書庫にテディが現れた。
「ハウレスさん、今少しいいですか?」
「構わないが、静かにな」
テディが足を止めて、一瞬固まる。状況を把握してから、そろりと動いてハウレスに歩み寄った。
「今日、お仕事ではありませんでしたか?」
「眠すぎて休まれたらしい」
「そうだったんですか。ぐっすりですね……ふふ、目元しか見えませんが、穏やかですね」
「ああ、ふにゃふにゃされていた」
「ふにゃふにゃした主様、俺もお話したいです! あっしまった」
テディが両手で口元を覆う。主様に目覚める様子が無いことを確認してから、改めて息をひそめた。
「それで、テディ。俺に何か用だったか?」
「訓練メニューのご相談をしたくて。俺、もうちょっと負荷をかけたいんです」
「熱心なのは良いことだが、あまり追い詰めすぎるなよ? テディは俺が組んだメニュー以外にも取り組んでいるだろう」
「まだまだ強くなりたいですから」
「あ、ハウレスくんとテディくん」
テディの言葉に重なって、また声が増える。視線を向けると、今度はベリアンがやって来ていた。
「お二人で訓練メニューの……おや、主様?」
「はい。お仕事を休まれるほどの睡魔に襲われているそうで」
「そうですか。心配ですが、しっかり眠られているならばひとまず安心ですね」
ベリアンはほぼ物音を立てずに歩くと、ソファの横に片膝をついて主様の寝顔を眺めている。
ハウレスはテディと訓練メニューについて話していたが、ベリアンの「あら」という嬉しそうな声でテディとともにソファを見た。
ブランケットから目元だけを出した主様が、ほんのわずかに目を開けてベリアンを見ていた。
「ひとがふえてる」
「起こしてしまいましたか? 申し訳ありません」
「らいじょぶ。べりゃんく……」
「ふ、ふふふ、舌が回っていませんね」
「ふあふあ、ぬくぬく、ふへへ」
「ン……」
ベリアンが顔を伏せる。ハウレスも思わず頬を噛んだ。隣のテディは天井を見上げている。
テディが小動物を見るような表情でソファに近寄る。ハウレスも、溶けかけている主様の様子を窺おうと訓練メニューのメモをテーブルに置いた。
「あ、てりーくんもいる……」
「はい、俺もいますよ。おねむですね、主様」
「んねむい」
「あはは、寝不足ですか?」
「や……くすりぁ……」
舌足らずだが薬≠ニ聞き取れる。そういえば、昨日主様はクリニックに行っていた。何か処方に変化があったのだろうか。
ブランケットの中からもごもご声が聞こえるのでそのまま主様から話が続くのかと思いきや、一度寝息に変わる。ハウレスたちが思わず笑ってしまうと、また薄く目が開いた。
「そう、くすりが……」
「ふふ、薬がどうかいたしましたか?」
「はじめてのくすりが……ねむくて……とんぷくが……」
「そうだったのですか」
「わたしのことは、おきになさらう、みんなあそのまあしおとし☆※@&$」
「え?」
「……」
「寝て……ふ、はは、ンン」
ハウレスは笑いを飲み込んだ。少々の物音では起きそうにないが、溶けかけている主様の眠りは全力で守りたい。
処方の変更により眠気の副作用が強く出ている心配はもちろんあるのだが、主様が自分の状態を認識しているのであれば、いくらか安心だ。長引くようならば、またかかりつけ医を受診するだろう。
「お休みになるだけで回復すれば良いのですが……後程、ルカスさんには看ていただきましょう。……それまでは、ふわふわのブランケットでぬくぬくされてくださいね、主様」
ベリアンがそう言いながら立ち上がると、テディが「ふわふわ……ぬくぬく……」と幼いオノマトペを繰り返す。
肌触りの良い物と、温かな環境と。あとは、目覚めたときには紅茶とお菓子。しっかり休めたことも褒めなければ。頭を撫でるのも、髪を整えるのも、全てハウレスに任せて欲しい。
ハウレスは脳内で甘やかしリスト≠作成しながら、訓練表に視線を戻した。
主様尊い……。
そよ風のかんざし
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