立て板に水


 主様が突き飛ばされて転倒して、怒らない執事などいない。
 ラムリは、舞踏会会場で初めて主様と顔を合わせた。主様は優しい人だった。ラムリの衣装をディティールまで褒め、オーダーしたラムリのセンスも仕立て上げたフルーレの手腕もベタ褒めだ。ラムリはあっという間に主様を受け入れていた。
 その主様が、見知らぬ貴族の男に突き飛ばされたのだ。
 ラムリは、ルカスとフルーレに助け起こされムーから心配される主様を見て、頭に血が上ったのを自覚した。自分の気持ちは取り繕えない。ラムリやフルーレが表情を引き攣らせても、主様を突き飛ばした男への罵倒は止まらなかった。
 視界の端に、騒ぎに気付いたハウレスとフェネスが入っても口を閉じられないでいると、そっと背中を撫でられた。主様だった。

「ラムリくん、落ち着いて」
「あ、主様……」

 主様があまりにも穏やかなので、怒りがほんの少し鎮まる。主様はにこやかなまま、男に向かって言った。

「わたくしの執事が大変な失礼を致しました。主人であるわたくしのこととなると、少々視野が狭くなるきらいがありまして。わたくしとあなた様がぶつかってしまった事故に、過剰に反応してしまったのです。申し訳ございませんでした。そしてデビルズパレスへのご助言、ありがとうございます。お優しく寛大なあなた様のお言葉、しかと受け取りました。天使狩りの組織として、一層精進して参ります。そしてその寛大なお心で、わたくし共の未熟な行いをお許しいただければ幸甚にございます。もちろんお詫びも致します。最上級のワインにて、この場を収めてはいただけませんでしょうか?」

 一息だった。主様は丁寧にまくし立てる。柔らかくも圧のある対応に男はやや気圧されたらしく、主様からの提案を了承すると早足で離れて行った。
 男と入れ替わりで、ハウレスとフェネスが加わる。

「何があった?」

 ハウレスの端的な問いにルカスが答えている横で、ラムリは肩を落としながら主様を窺った。

「ご、ごめんなさい、主様……頭に血が上って、主様に迷惑を」
「謝らないでいいよ。わたしのために怒ってくれてありがとね」
「主様……」
「わたしだって、みんなを悪く言う奴はワインボトルで頭カチ割ってやりたいけど」
「主様……?」
「それより、わたし変じゃなかったかな? ただの会社員に高貴な言葉遣いなんて分からんし、慌てていたし……というかワインも適当に言っちゃった。良さげなワインある?」

 主様はラムリを非難するどころか礼を良い、困ったように笑って他の執事達を見上げる。
 頷いたのは、成り行きを聞いたフェネスだった。

「大丈夫です。良さげな<純Cン、お持ちしておきますよ」
「ありがとう。あの方の所に行くときは呼んで。お詫びと乾杯くらいはしておきたいから」
「そんな、お気になさらずとも。良い思いはしないでしょうし……」
「わたしはデビルズパレスの主人だからね。媚を売るのも大事でしょ」

 主様は胸を叩いて得意気にする。主様と初対面のラムリは主様の頼もしい言葉をすぐに信用したが、自分以外の執事の顔色が冴えないことに気が付いた。特にハウレスは、心配を顔に書いて主様の背に手を添えている。

「主様、無理はしないでください」
「ほんとに大丈夫だよ。それより、忙しいのに騒いじゃってごめんね」
「俺のことはいいんです。……お怪我も、本当にありませんか?」
「無傷だよ。転けたときにドレスの裾を踏んでしまったから、ドレスのほうが怪我をしているかも。ごめんね、フルーレくん」
「ドレスのことより主様が大事です、そんな顔をしないでください」
「だって、せっかくこんなに綺麗なのに……」

 主様は悲しそうにドレスの裾を揺らすと、気を取り直したように顔を上げた。

「フェネスくんはワインを、ルカスくんはお話されていたお嬢様方にフォローを。フルーレくんも一緒にご機嫌取りをしてくれる? そしてハウレスくんは休憩」
「そういうわけには」
「昼間からずっと働き詰めなの知っているよ。舞踏会はまだ続くし、休憩すべきだと主様は思います」
「…………分かりました」
「んでラムリくんとムーくんは、わたしとデザートを取りに行く!」

 主様はラムリを見ながら食事の並ぶテーブルを示す。ラムリの行動が主様の迷惑に繋がったことは明らかなのに、主様は笑顔でラムリを食事に誘う。
 ラムリは何度も頷いた。残念ながら次同じことがあったら自制できるとは断言できないが、今夜のことは忘れないだろう。


 主様とムーとデザートを食べながらフェネスを待っていると、会場の後方からまたざわめきが聞こえた。確認すると、ここにいるはずのない攻撃的な執事の姿が見える。
 ラムリの隣で主様が苦い声を出す。

「もしかして、彼もわたしの執事かなあ……っぽいなあ……」

 ラムリは思わず主様の背を撫でた。
 ミヤジとフルーレの出動により主様に負担は掛からなかったが、困り顔は晴れなかった。



主様尊い……。
そよ風のかんざし
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