黄泉の主様
医務室から解放されたラトは、自室で絵本を見て過ごしていた。いつでも動けるし天使狩りにも行くつもりなのだが、まだ運動することにいい顔はされない。ラト自身はともかく、ミヤジとフルーレに苦し気な表情をさせるのは本意ではない。そのミヤジも大怪我だったが、拷問に加えて悪魔化という大きな負荷がかかったラトのほうが重病人扱いされていた。
退屈だ。このままでは体が鈍りそうである。
ドレスルームに行こうかと腰を上げる。今は衣装造りが立て込んでいるわけではないが、部屋に閉じこもるよりは気分転換になるし、ひとりでふらふらと出歩くよりはフルーレも気を揉まずに済むだろう。
ラトはあくび交じりにドアへ向かったが、廊下から足音が聞こえていることに気付いて笑みを浮かべた。廊下側からノックされる前に、ラトからドアを開ける。
ひとりでいる主様が、ラトを見て目を瞬く。
「おかえり、主様」
「ただいま、ラトくん。よく気付いたね」
「足音が聞こえましたから」
「そっか。今、時間ある?」
「ええ、いくらでも」
場所を変えるかと提案すれば、どこでもいいと返ってくる。ラトは自分たちの執事部屋を振り返って、数秒悩んでから主様を招き入れた。執事部屋に主様を招くのは執事として不適切な気がして悩んだものの、ラトはともかくミヤジとフルーレがマメなので部屋自体は片付いているし、どこでもいいならここでもいいだろう。
ラトが執事らしく共用テーブルの椅子を引いて主様に示すと、その主様は深呼吸を挟んで椅子に深く腰掛けた。ほんの微かだが、背中に力が入っていない。
「主様、調子が悪いのですか?」
「バレたか……ラトくんに心配をかけたくはないし、ちょっとだけだから気にしないで」
「いいえ、心配させてください。わたしの大事な主様ですから。わたしに出来ることがあれば、なんでも言って」
「ううん、いいの。どうしてもラトくんと話したくて動いたのはわたしだから」
ラトは、自分への用事ということに気分を上昇させつつも顎に手を当てて首を傾けた。ラトは嬉しくとも主様が不調ならば、幸せなひと時は過ごせない。医務室に移動するか、ラトのベッドを勧めるか。執事のベッドに主様を寝かせるなどと言う行動は全執事から頭を抱えられるだろうが、主様の不調となれば非難はされまい。
ラトは主様の顔を覗き込んだ。
「主様、横になりますか? 座っているのも、辛いように見えますよ」
「そこまでじゃないつもりだけど……」
「動けなくなってからでは遅いのですよ」
「耳が痛い……じゃあ、床に座ってもいい?」
「床ですか?」
「ハウレスくんは一瞬でわたしを医務室か寝室に運搬するからあんまりやらないんだけど……デビルズバレスに来る前はよくやっていたの。一番楽だから」
「分かりました。では、ご一緒します」
ラトは自分のベッドからシーツを剥がしてラグの上に敷き、その上にブランケットも敷き、部屋中のクッションを一か所に集めた。こんなことなら、もっと肌触りの良いクッションをいくつか置いておくべきだったかもしれない。
主様は靴を脱ぎ、ブランケットに腰を下ろして一番大きなクッションを抱える。
そして、ラトはふと気付いた。主様が本を持っている。膝に置いて見るのにちょうどいい大きさだ。
ラトが主様の隣に腰を落ち着けると、その本を手渡される。
「これをラトくんにプレゼントしたかったの」
「これは……本、ですよね?」
サイズと雰囲気から本だろうと予想はしていたが、いざ手渡されるとラトのよく知った本ではなかった。
表紙はおそらく水中だ。あまり詳しくはないが、感じる奥行きから海だろうと思われた。本は、風景をそのまま切り取ったかのように鮮明で、触り心地はつるつるとしている。艶と厚みを感じるが、羊皮紙とはまた違う。
ラトは主様に促されるまま表紙を開いた。ラトには読めない文字と、また海中が広がっている。魚や珊瑚に、煌めく日光。小ぶりな本に本物の海が閉じ込められているのだ。
ラトはページを開いたまま、本を頭上に持ち上げて見上げた。ここは屋内だというのに、今ラトの手の中に海がある。
「主様、これは?」
「世界各地の海の写真集だよ」
「これが写真? わたしが知っているものとはずいぶんと……」
「この世界とは全く違うカメラと印刷技術があるからね。きれいでしょ?」
「ええ、ええ、とても。これをわたしに?」
「うん。ラトくん、綺麗なもの好きだから」
ラトは、食い入るように写真を見つめた。主様が言うように、こちらの世界とは様々な技術が異なるのだろう。こちらの世界と主様の世界との差をこうも実感したことはほとんどない。
「……ひょっとして、主様。わたしへのお見舞いですか?」
「ふふ、そんなところだね。もうちょっと早い時間に持って来て一緒にゆっくり見たかったんだけど、夕方になっちゃった」
主様は言いながら、抱きしめるクッションに体重をかけている。ラトに写真集を贈るなどいつでも良いにも関わらず、すぐに渡しに来てくれたのだ。少しとはいえ調子を崩しながらも、向こうの世界でラトのことを考えてくれていた。
ラトは一度立ち上がり、フルーレのベッドからもブランケットを剥がした。
「ラトくん?」
「今からでも時間はありますから。一緒に見ましょう」
ラトは写真集を持って主様に身を寄せ、自分もまとめて主様とブランケットを羽織った。
主様は声を漏らしたが、退きはしなかった。あまり動きたくないのかもしれない。それでも緊張はしていたが、ラトが主様にも見えるように写真集を広げると、観念したようにラトへ体重を掛けた。
「ほんとはね、もっとおっきな写真集にしたかったの。でも、持って来られなくて。それで本屋で探してね、これなら持って移動できると思って……早く渡したかったの」
「おや、大きな本を持ってこようとしてくださったのですか?」
「うん。もっと大きくて、深海魚についての解説もあるやつ。でも移動出来なかったから、結局わたしの家にあるよ」
「……わたしのために、小ぶりな本を探してくださったのですね」
「そうだよ。嬉しい?」
「はい、とっても嬉しいですよ」
揶揄うような主様の声に頷くと、より主様がくふくふ笑う。
「それとね、ラトくんとゆっくり話をしたかったの」
「ええ、何でもお話しましょう」
「うん……」
にこやかだった主様の呼吸がほんの少し深くなる。写真集を贈りたいことと同じくらい、何か、緊張する話題をラトに切り出しかったらしい。耳が良いことは、イコール気配や呼吸の様子にも敏感だ。
主様は、ラトが羽織らせたブランケット端を持って一層小さくなる。ブランケットで体を隠すように小さくなるのでラトとも寄り添う形になったが、内緒話をするにはちょうどいい。
ラトは写真集を閉じて、主様と同じようにブランケットの端を引き寄せた。
「ゆっくりでいいですよ、主様。わたしはここにいます。ずっと言えなくたって、わたしは主様のそばから離れませんから」
「……怒らないでほしいんだけど」
「主様に何があっても、主様が何をしても、わたしは主様の味方だよ」
主様の声は小さい。
「嬉しかったって、言いたかったの。ラトくんが『死んでもわたしと一緒に居てくれる』って言ってくれたことが、とても嬉しかった」
「当然ですよ」
ラトは即答した。この類の言葉は、執事たちから聞きなれているだろう。今更緊張する話題でもないように感じる。
ラトの疑問を察したのか、主様はすぐに続けた。
「みんなも言ってくれることではあるよ。ずっと味方で、ずっと一緒に、ずっとそばに……たとえ天使との戦いが終わっても、わたしと一緒に居てくれるって話してくれることは嬉しい。言われるたびに、泣きたいくらい嬉しいよ。『命に代えても守ります』っていうのは嫌だけどね。ただ、ラトくんの言葉は少しだけニュアンスが違って聞こえて……勘違いだったら恥ずかしいけどさ」
「わたしの言葉が? 心からの言葉ですが……」
「もちろん分かっているよ。ただ……なんと言うかな。他のみんなが同じことを言ったら、意味するところは��わたしが死んでもずっとわたしを想う�≠チてことだと思う。でもラトくんは、わたしと一緒に死んでくれるような気がした」
主様の指先が写真集の海を撫でる。
「みんなが不老なのに対して、わたしは年老いていく。天使との戦いが終わって、静かに暮らしていても、絶対にみんなより先に死ぬ。それが、たまらなく寂しいときがあるんだ」
「……」
「ずっと一緒にいてくれたとしても、わたしを看取ってくれるとしても、死んで星になったわたしを見上げてくれるとしても。……わたしはひとりになりたくない。『わたしと一緒に星になって』なんて言えない」
ラトは、深呼吸をする主様の背をさすった。遠い未来のもしもの話で不安になってしまう主様の繊細さは考えものだが、それを曝け出してもらえることは嬉しい。
主様が求めれば共に墓に入るという執事は、ラト以外にもいるだろう。全員とは言わないまでも、主様が求めれば。
ラトの様子をうかがって恐る恐る言葉を続けた主様とは対照的に、ラトの声は弾んでいた。
主様は、ラトの直接的な言葉から��死�≠ェ孤独なものではないと認識してくれたのだ。恐らく、こういった言動をとったのはラトが初めてだったのだろう。
「わたしは、主様をひとりにはしませんよ。主様が抱いた、わたしの言葉への印象は正しいです。わたしは、生きていても、死んでいても、いつだって……ずっとあなたの傍にいます。主様がいない世界で生きる意味など、何一つありませんから」
「……ん、ありがとう」
ラトがさらに主様と身を寄せると、主様は涙声で笑う。
本来、緊張すべきはラト自身なほうである気がする。なにせ、ラトは自分の意思で主様を殺すつもりだったのだ。
ラトは、自分へ殺意を向けて来た相手に信頼を寄せる主様を気がかりにも思いながら口を開いた。
「……もしあのとき、わたしの短剣が主様の喉を切り裂いていたらと思うと恐ろしくてたまりません。わたしは、ともに死んでもいいとさえ思える相手を、自分の手で亡くすところでしたから」
「ああ……でもあのとき、わたしは逆だったよ」
「逆?」
「ラトくんが正気そうにも見えたから」
「……正気のわたしに殺されることに対して、何も思わなかったのですが?」
「だって、そうしたらラトくんは一生わたしを忘れないでしょ。ハウレスくんたちと違って、一生、わたしの死を背負って刻んでくれるでしょ」
「……ええ、そうですね」
ラトは返答に迷って、そうとだけ言った。
生きることに懸命な主様は、同時に��死�≠ノ近すぎる。命を懸けて戦う執事たちよりも生死の境目を歩いている可能性すらある。天使という脅威によってではなく、己の繊細さと厳しさのせいで、おかしなところに立っているのだ。
自分の死を誰かに刻み、誰かと逝くことを心から望んでいる。
「死にたくなったら、わたしが殺してあげますね」
「うん」
「そうして、わたしも一緒に逝きましょう」
「うん」
「だから、大丈夫だよ。主様がひとりになる瞬間なんて刹那もありません」
ラトが主様の手を握りしめると、思いのほか強く握り返される。どれだけ不穏な約束でも、主様が縋れるのならば歓迎だ。
「ごめん、わたしがラトくんのお見舞いに来たのに。調子が悪いせいで、カウンセラー役をさせてしまって」
「いいえ。主様の弱さを見られて、嬉しいですよ」
「よし。気を取り直して、海に潜ろうか」
「はい」
「文章の所はわたしが解説するね」
「はい。……でも、文字が読めなくなってしまったら、主様は海を揺蕩(たゆた)いながら眠ってください。『疲れた』も『眠りたい』もいりません。目を閉じていいからね」
丸まったままの主様に言うと、主様は数秒開けたものの「うん」と頷いた。調子が悪いときには何もかもが難しいとは聞いている。主様の不調対応については、全執事が把握している。ラトも例外ではない。
主様は少しの間文章を読み上げてラトと海を潜っていたが、すぐに寝息が聞こえて来た。
ラトも海から上がると、主様と同じように目を閉じる。
何があっても、ずっとそばにいると言ったのだ。主様が暗闇にいるのならば、自分もそうしよう。
主様尊い……。
そよ風のかんざし
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